空白弁解

 勇敢にも、たった一つの翁翠を見付けだすために、だだっ広いインドの泥土の中にもぐりこむ。 …文学の作業はこれによく似ている。果てしない泥土との、或いは無益に終るかも知れない戦いである。
 一万の詩稿を書き溜めても、その中に真の一篇の詩すらないかも知れぬ。そして、一言の真実の重みのために千枚の散文を書きつづる。美しく、硬く、めずらしいもの。しかも正確な技術で磨かれた宝石。一流の文学は、すべての複雑な心を柔かく溶かしこみ、単純な涙に変える。或いはごく単純な原核から、驚異に満ちた未曽有の世界を現出する。
 私が多少なりと「文学」に対する決意を固めたのは、もうとうに卒業をあきらめていた大学の痛ましくも青ざめた寮でだった。授業にはほとんど出ず、たまに出ても、つきささるような嫌悪から逃げだすように街なかの喫茶店や、一杯飲み屋に迷いこみ、そのむんむんする熱気の中で、ひたすら堕落気分の純化に専念していたころである。
 もともと私は、年少のころから、内向的な性格であったようだ。父の転勤に伴い転校つづきであった私は、言葉も気質も異なる学友との間に常に違和感を抱きつつ、しかも教師にすら、素直な印象を与えなかったらしい。戦時中のことではあったが、一度ならず教師に殴打されたことを憶えている。
 戦争が終って五年、高校時代の始め頃、私は文芸活動に熱意を示すようになった。詩や短歌や、エッセイを書き、二、三の友人とともに壁新聞をつくったりした。今も憶えているが、その頃の私のエッセイはすべて反社会、反秩序の毒念に満ち満ちていたものだ。
 言論は学内においても極めて自由であった。というより、教師すら大方その自由がよって来た処も知らぬげにすべては何の権威もなく放置されていたような時代だった。
 私は高校時代の末にマルキシズムの洗礼をうけ、初恋を経験し、その後、受験勉強中にルネッサンス期の絵画に夢中になった。ペックリーンや、プリューゲル、ボッシュの写真集が私に異様になまなましい現実感を与えたことを思いだす。
 そういうわけで、もともと絵の教師になるつもりで大学へはいったのだが、過去十九年の独りよがりな思索と夢想に毒された私が、今更、画一的、けちけちした単位獲得方式の大学に調和できる筈がなかった。私はすべての面において要領の悪い大学生だった。すっかり厭気のさした私は、自分も、そして自分を生んだ日本も見かぎりすんでのこと、おおいなる母なる大地に向って出発しようとしたが、それは危うく思いとどまったのである。
 人生というものは、大半、平凡で実に愚劣なものだ。しかし、いつかはその前で震え出す程の美しい瞬間を隠している。
 平常、私が生活を続けていく時、私は「美」に対して無関心である。「美」はもともと生活には不要なものだから。かりに御飯を食べたり、仕事をしたり、眠ったりするのにどうして「美」が必要だろう。滞りなく生きていくためには、ただ慣れと忍耐と、長期にわたる安心があればいい。                   
 「美」は危険な感覚である。危機に際して、人間はその生を守ろうと怒り、叫び、あせり、平常には考えてもいないことすら行うのである。
 もし、価値ある空白という云い方が許されるならば、私達こそその貴重な空白を味わったものである。恐らく私の空白は、あの敗戦時の空白の性質そのままではあるまい。敗戦直後の教科書の黒く塗りつぶされた活字の数だけでもって説明は出来ないだろう。終戦後の日本の歴史が過去の清算から始まらねばならない時に、私は全くの自由の中で、純粋な無から私自身の歴史を始めなければならなかったのだから。
 考えて見るに、すべて歴史は作意である。意識によって始まる歴史は無意識の時代にあって空白である。外部の刺戟によって目覚めた時、まず歴史は最初の歪みを生ずる。歪みはもともとそれ自体の惰力により、後は歪みの上に歪みを重ねるだけでもう元に戻るすべもない。
 世界の中のアジア、アジアの中の日本、日本の中の日本人、その中の私、これらすべての意識にめざめた存在〜歴史は今も大きな歪みの惰力の上に成立している。
 今は、おぼろげにしか記憶していないが、あの終戦当時旧制中学一年であった私は、北山へ勤労学徒として動員されていた。教育勅語の暗唱もろくに出来ず、教練の時間の始まりにうまくゲートルも巻けなかった私は、どう考えても、ぼんやりした普通以下の中学生だった。
 終戦の日は動員されてから一週間目だったか、その日腐れかかった馬鈴薯の臭いに鼻をつまみながら、小学校の運動場で種薯の選別をしていた時、突然の集合命令で教室へ行って見ると、植物の教師が小さい双眼から涙をぽろぽろ流しながら、戦争に負けたことを説明しているのだった。
 その後、私達は間もなくトラックで下山の途につかねばならなかったが、相次ぐ悪食のために胃を壊した私だけは後に残り、二日程後に単身徒歩で下山した。
 極度に衰弱した体の疲労を癒すため道端の石に腰かけては眺めた緑の山々はうらめしい程長く延々と連なり、相変らず果てもないと思えたが、疲労よりも強い衝動につき動かされては、又ふらふらと立ち上り半ば放心状態のまま歩きつづけたあの時、私の中で真実だったものは、敗れ去った理念ではなく只、歩きつづけるよりほかに癒す方法のない死への恐怖だけだった。
 考えて見るにすべての理念は作意である。人は各々空白=無から出発し、個人として歴史を創る。そのことがたまたま組織の理念に関係してくるだけの話だ。個人は自由奔放に振舞っていればいい、それを懲罰し、それを利用するのは組織の側の勝手で個人には何の関係もない。
 歴史の問違いはその両者が各々の領域を犯すことから始まる。組織が個人の内部にはいりこみ、個人の倫理を規制したり、逆に個人が組織の代弁者になり、個人の欲望を組織の力でもって押し通そうとする。
 戦時下にかぎらずこうした傾向が今も社会の随所に見られるのは、正しく、敗戦…民主化という事態を通してもなお、個人の弱さ及び、伝統と外来文化から出発した観念的思想への依存の度合が強いことを暗示している。
 昭和維新を身をもって提唱した、二・二六事件の主謀者は、元老、重臣、財閥、官位、政党等の国体破壊の元兇を排除し、以て大義を正し、国体を擁護せんと叫んだが、いかにも血気盛んな青年将校の自負を物語っている。
 当時の新聞の記録を読むと、社説などに、純心な動機云々という言葉が多く使われているし、彼等は事実、身をもって国体のけがれをただし、その後いさぎよく白首して出た。
 そういう面を考えると歴史上では軍部の台頭―右翼テロと簡単に云われているようだが、どうも私にはそんな問題ではないような気がする。こうした事件に似かよった事件は、これまでにも、又、この今の日本の現実の中にも実に多くありすぎるような気がしてならない。
 例えば、全学連などの乱闘事件にしても基木的には同じ姿勢から出ているのではないかとも思われるし、そんな大きな政治問題でなくとも、一人の女の子が線路の上の、親類の幼ない子供を救うために自分を犠牲にしたという記事などが殆んど扇情的な程、大きく取り扱われているのを見たりすると、何かそこに、身を殺して大義を立てるということに日本人全体がどうにも仕方のない共感を覚えているのではないかと思われるのだ。
 忠臣蔵にしてもそうであるが、あれがもし、私怨や邪念が動機だったり、またもし、首尾の後でいさぎよく討たれようという覚悟がなかったとしたら、勿論、芝居にもなっていないだろうということは考えられる。
 だから文学上の問題として考えた場合、ここに或る一つの大義を設定し複数の人聞がそのために死ぬという結末を与えれば、必ずその文学は共感をもって読まれるに違いないのである。
 事実、私は日召の伝記小説を読み、深い共感を覚えたことがあるし、私白身、もしそういう大義があれば、そのために死にたいという気持ちがあったことを偽ることは出来ない。
 その当時の私の心理状況を見ると、恒常的な事実として存在する大義、もしくは、思想上での昂揚感へのあこがれ…不足感があり、常にそれらの有無、緊張と弛緩の間を行きつ戻りつしている不安定感が、一方では自分の気持を美の一点に引きしめ、又一方では大義=神との合一をはがるための無意識の意志を育てたと思われる。
 勿論、私は自分の心理が、常識的に通用するなどと思うわけではないが、ただ自分がこうした人間である以上、大義というものをこういう風にしか理解できないのである。私自身の滑稽な人生の目標は、自らの頭で大義を創造し、死ぬことによりそれを実現していくことだったろうか。
 終戦後、六十有余年、今日程に、日本人としての理念が要求されている時代はない。またも復古思想が現れているようだが、それはもう時代錯誤と呼ぶより他はない。理念を求めるに性急で、またもう一度同じことを繰り返すことの愚はすまい。日本の神は破壊された。こわれたのはそれが壊れ易かったからだ。それよりも絶対に壊れない日本人の美しい心を探し当てることが先決だ。
 青年達の無軌道ぶりを批判するのもよかろう。しかし、この国のように、他国製の民主主義の倫理と、封建社会浪花節の倫理との間に何の連絡もなくぶら下り、その時かの時で異った行動の指針を必要とするような種々雑多な社会構造の中で生き抜いていかねばならぬとしたら、ただ、自己の雑草のように強い生命力を中心にすべての物事を処理するようになるのも当然だろう。
 すべての倫理を否定するのもよかろう。それは特に勇ましくさえ見える。しかし、いずれその行動は短命であり、社会の懲罰を受けて引きさがらざるを得ない。サルトルの文学は神の破壊に終始一貫したが、それは西洋の話だ。この国には破壊するものすらないのだ。
 民衆からの倫理の芽が育たなかったのはこの国の特色であるが、それにもまして外来思想をただちに支配体制の強化に利用する支配者側の頭の回転の早さは驚くばかりである。日本の支配者は、精力的な恐怖政治を布くよりは民衆同志の意識を分裂させてその力を弱めつつ、もしくは官制の思想で民衆意識そのものを変容させつつその上に坐りこんでいく傾向がある。
 限られた狭苦しい国土の中で絶えず地方地方の支配者が変っているような処では、例えば囲碁に見られるような、一種作戦じみた頭脳の回転の技術がものを云うのだろう。逆に民衆の側から云えば、碁はめんど臭くて直情的気力がものを云う将棋を好む傾向がある。
単純で激しやすく、短慮な民衆、それと、頭の切れがよく、ずるがしこく、不活撥な支配者、この二つの資質は日本民族の中に当初からあり、互いに平行線のまま現代まで持ちこまれているような気が私にはする。「支配者」は巧みに他国の文化を吸収し、いちはやく、己れの身につけると、その武器でもって一国を我物にしようとする。
 一方、「民衆」はいくら自分が頑張って支配者になるうとしても、生れつきの資質のゆえに大所高所で失敗し、また元の所に舞い戻る。結局は、どうあがいても自分は駄目な人間で偉い奴は偉い、とあきらめてしまう。だから「民衆」の宿命的な上下の差別意識、「成上り者」や「学生」に対する無意識の反感等は理由がないわけではない。
 「民衆」と「支配者」との間に連帯感がないということは、自分らは永久に政治とは無関係なのだというあきらめを介して政治無関心という態度を育てるであろうし、また、到底頭脳の上では勝負にならないから、あっさりと暴力によるクーデターを待ち望む心理も育てることになる。
 そうでなくてさえ、現在の「民衆」は種々雑多な階層、職業、立場に分裂し、お互いに意志の疎通もなく、めまぐるしい世界で生きている。縦の関係以外共通の話題もなく生きていける筈がないので、つい夜の巷で軍歌などを歌ったりするのだ。過去の亡霊は今でも断ち切れず、遺族会、旧軍人援護団体、右翼団体などが存続しているのである。
 自己は孤独である。しかし人はそれに耐え切れない。常に誰かの承認を求めながら生きようとする。人は寄り集まって、互いに相手の中味を確認し合いながら生きていくものである。
 近代において、真の個人主義の目覚めを知らない人々は、弱味という形で個を表現する。個はあらゆる場所において全体と切り離されており、後ろめたい影を引きずっている。個は全休のために虐待され、職制に切り裂かれそのために各々ひっそりと散らばっている。個がその尊厳を回復するためには、まず全休に対して対等な立場を持たねばなるまい。そのためにやがて個はもう一つの全体にならねばならないが、しかし、それ以前に一つ一つの個の意識が高まり充実することが重要課題になることを忘れてはなるまい。
 現在の労働組合は一部の幹部がその場かぎりの戦闘的アジテーション、もしくは組織の強制力をもって組合員をまとめる傾向があるが、これは首尾転倒したやり方でいかにも寒々としたものを感じる。
 一つ一つの個に対する理解と同情、また個と個の意志の交換の機会も与えないこれら組合の幹部が、果して如何なる個の代表として議会へ出馬しようとするのか。それすらも分っていないとしたらもって哂うべきである。
 一般的にいって、現在の日本の進歩的指導者達は現実を把握する方法において、あまりにも先入観的概念、乃至は思想的観念にとらわれすぎていはしないだろうか。
 概念とか観念が、或る限られた現実からの抽象及び抽象の体系に過ぎぬならば、それらを単なる文化として扱うおうようさも時には必要ではなかろうか。勿論、この種のおうようさは、単なるディレッタントとしての人間を育てる危険はある。ディレッタントの特徴はその知識が知識としての機能の域を出ないことにあるのだが、今の日本が要求するのはこの種の人間でないことは勿論である。と私は思う。
 概念の上に成り立ち、観念の展開によって拡がっていくものが理論だとすれば、文学は観念と関わりなく拡がっていく内に、いつか観念を破壊し、概念そのものの内容を変えていく。現実もまた同じである。
 「美」の観念は、私の理論が現実に打ち破られ、涙を流し、すべての努力が放棄された時、再び新しい粧いで現れた。その時、自己のおもむく処、死であり、彼の現実は自己とはるか隔たった場所のものという意識が支配したためである。
 当時、すべて現実は一様に遠い星空のように美しく、私自身は堕落と苦痛の快感の淵に沈みきっていた。だからやがて、文学「カラマーゾフの兄弟」の半ば狂気にちかい熱気に充満した世界が、私の頭脳を完全に占領した時には、何か奇跡的な感じすらあったのである。
 あの長編を読み終って十日間ばかりは得体の知れない熱病にかかったようになり、道を歩いていても食事している時も、私自身現にカラマーゾフの世界の中に生きているのだという感じがどうしても離れなかった。
 ドストエフスキーの文学は私に安心を与えたのではなかった。かえって既知の現実と未知の人間心理の間に横たわる深 淵を指摘することにより、私に動揺を与えたのである。                    
 私達がカラマーゾフを読む場合、陥り易い錯覚は、これが意識の世界の出来事でありながら、あたかも現実の世界での事件のように思いこんでしまうことであろう。しかも、ここに描かれているのは、確かに意識と意識の相克であり、日常的現実ではない。
 ドミトリイ、イヴァン、アレクセイ、スメルジャコフ、すべて肉体のない意識の権化である。そしてこれらの人物の強烈な個性とみまごうものは、実はドストエフスキー白身の頭の中の熱っぽい意識群に外ならない。
 実に不思議な小説である。風景描写もない、ただ、人間心理の動きと、意識の掘下げに終始した、この会話ばかりがやたらと多い小説が、かくまで心をとらえるのは何故だろうか。
 恐らくは、常に神経をいらだたせている癲癇持ちであり、しかも社交下手なくせに自己を主張したがるドストエフスキーが、まさにカラマーゾフ的エネルギーで、この思いきり描くという作業によって、いい加減な社交人種に報いたのであろう。
 そして、この作品が人の心を打つのは、描かれた内容が真実であり、常に社会通念の中に己れをとけこますことに腐心している自己にとっても、それは忘れ難い懐かしい人生の現実の姿であるためと思われる。
 すべての弱い人間と同様、ドストエフスキーは観念を必要とした。しかし、生みの苦しみの最初ににじみ出た涙のように純一で強固な精神は、他人の観念を借りることでは満足できず、それを打ち破ることにより遂には自分自身を含める新しい意識を生みださざるを得なかった。それ程深く自己を意識し、又それゆえに与えられた観念では満足し得なかったのである。
 文学の機能は、或る面では在来の観念の破壊であり、新しい意識の造成であるともいえる。弁証法の正反合理論の展開方式はヨーロッパで妖怪を生みだしたが、ここ日本では、その根拠が空虚であるため、すべての観念、理論は空廻りの果てに不信の念を培うだけである。
観念によらず現実を見出す最大の方法は文学をおいて他にない。新しい意識の造成はまず、意識的な操作によってすべての先入観念を棄てることに始まる。そのために私は一方では過去のすべてに対して不信の念を投げかけつつ、しかも未来に対しては、現実の前で起り得るすべての事柄を呑みこもうとする。
 だから私は、はっきりした輪郭をもつ或る形としてではなく、未来において或る形をとり得る袋のような存在として存在する。
 私は観念を失うことによって常に不安であり、それゆえに現実は妖怪の恐怖そのもののように実体のまま私の中に陥ちこみ、私の感覚の上に根跡を残すだろう。
 感覚は記憶を通じて抽象へと進み、やがて徐々に新しい汚れない意識が目覚めるに違いない。アミーバのような私の中に一つの運動の傾向が生れ、硬い背椎が生え、遠からず一つの思想をもつことができるとしたら、その時こそ、私自身が最も待ち望んだ瞬間である。