倦怠(上)

 いつのまにか、あちこちに現れたうす茶色の明るい斑が、みるみる白い地をうずめて拡がり、い
っとき激しく息づいて変化する。やがてその波がおさまると、また次第に収縮し、いつか嘘のよう
に消える。
 たえまなく動きまわる光の影のように、とくに定まった形とてないこの斑は、おもに主体の感情
に起因するのだろうか。あるいはまた、まわりの環境の変化によるものだろうか。じっと眼をとめ
ていると、珍しい特質というよりはむしろ、主体の不在、存在のあいまいさへの漠然とした不信の
念を植えつけるかのようだ。
 この過敏な皮膚をもつ有蹄動物――というより奇妙に純粋な意識的存在――こんな奴を先生はど
こから見つけてきたのか、というより、ひょっとしたら自分の分泌物のように外に生み出し、それ
とは知らず育ててきたのではなかろうか。それにしてもこんなに大きくなってはやはり、先生が今
やっているように乗物として利用するほかはないだろう。
 夕方になるときまって姿を見せる先生が、その三蹄の一角獣にまたがって初めて現れた当座は、
その奇妙な様子に驚いたものだが、日がたつにつれ見慣れてしまうと、それはそれでいかにも先生
にふさわしく、かなりやせた体躯をその河馬と犀のあいの子のような動物の背にゆったりとあずけ、
やはりゆったりとした微笑を青白い頬にただよわせながらやってくると、思わずほほえんでしまう
のだった。
「やあ」先生は団地の一階のベランダに寄りかかって見下ろしている私に向って気楽な笑い顔を見
せる。
「奥さんはご在宅かな」
「ああ、相変らずテレビをみている。もう飯は済んだのかい。まあ、上って来いよ」
 先生は昔からの精神病医だ。患者である私は手をあげて、部屋に廻ってくるように誘う。一体幾
度、このそぶりをくり返したことだろう。先生がこの土地を一人の少女とともに離れ、はるかな都
会での共同生活から、まもなく失望のうちに帰郷して以来、その後は或る黙契のようなもので繋が
れているのを感じるのだった。私は先生を気むずかしい観念主義者として眺め、先生は私を弁解癖
のある意志薄弱者として眺める。部屋にはいると、黙ったままお互いの顔をみつめ、コーヒーを飲
む。そして例の有蹄動物が、影のようにそっと部屋の中を歩きまわっているあいだ、とりとめのな
い話に身を入れるのだった。
 絶えずゆれ動いている僕等の意識を「言葉」で表現することは至難のわざだ。慨念にとらわれた
表現はすまい。現に、考えていることをそのままの形、色合いで表わそう。そう思いつつも、私は
次第に、憂鬱になるのをどうすることも出来ない。何故、このような廻り道が必要なのか。言葉の
まわりには、はかり知れない海がひろがっている。言葉=概念の世界を失えば、狂気に落ちるかも
知れないが、その海を知ることが出来よう。
 何故、言葉にこだわるのか。何故常識を信じなければならないのか。狂気というあの広い海に憩
えたらどんなにいいだろう。言葉から事実に至る橋、事実から言葉に至る道、何と悲しくみすぼら
しい習性だ。そこには人を勇気づけ励ますものはない。あるものは因襲と相続と歴史だけだ。僕等
にあふれる生の泉を見せてくれ。青ざめた人々よ、人生に疲れ、意味もなく笑っている人々よ。僕
等もその人達の中にいる。――
「何か特別変った話でもあるかい」溜息まじりに聞いても、
「そうだな」
 先生は伸びたあごひげを撫でて黙ったままだ。いつものことながら先に口を開くのは患者から。
「なにかこう、常識をひっくり返すような事はないものかな。打ちあけていえば、この頃は退屈で
仕方がないんだ。ありきたりの十年一日と変わらない暮しには、もう飽きてしまったよ。考えてみ
れば、生れた時から物事を配列し記憶するという頭脳作業を強制せられ、気がついてみたらいかに
も平均的な教育人間、規格品としての機械になってしまっているじゃないか。この頃では自分の喋
ったり、考えたりすることが陳腐でたまらない。たとえば一つの事をそれだけで考えることがない。
必ず他と関連させ、その連想の上で考えるのだ。ほら、子供に図鑑など見せると同じ蝶の仲間でも
一つ一つ指さして名前を尋くだろう。大人ならひとまとめに蝶の仲間ですましてしまうところさ。
何故というと、てっとり早く処理するためには、分類したり総合したり、ほかとの関係において認 
識したほうが便利だからさ。だからもう、物を一つ一つ手にとって味わい、自分との関わりを確か
めながら、その性質を知るうとはしない。むしろ、一つの生命のない記号として、また全体の部分
品として扱っているのさ」
「しかし、そうした常識的な眼は、けるかに子供の眼より健全であり、人類の進歩を荷ってきたと
思うんだが、原初からの人類の遺産である言葉=概念を離れて、はたしてどんな方法、どんな眼で
もって物を眺め、またどういう風に扱う積もりなんだ。まさかボールをリンゴのように噛るわけも
いくまいが」
「ああ、それはまあ言語の記憶を失わない限り、机なり花瓶を言葉=概念を通じて認識するだろう。
モダニズム詩人">詩人達は組み合わせの意外さの工夫で、物に新しい照明をあてているのだ
が、そんなものは、大人の遊びじみていて好きになれない。原因はすべて意識の側にあるんだよ。
過去の知識、または固定観念によって物を見るから、物はいつまでたっても変らないままに分類さ
れ、あの体系の部分に過ぎない存在なのだ。物はもっといろいろな意味を含んだ存在だと思うんだ
がなあ。おい、コーヒー」
 私は、ガラス戸の向うにいる妻に云った。返事がなかった。妻は子供と一緒にテレビの画面に見
いっているのだ。
「熱心に見ているようだな。一体何を見ているんだか」
 私は立ち上ってガラス戸を開けようとしたはずみに煙草を床に落してしまった。とたん、ガラス
戸が開いて妻が飛びこんできた。
「あらあら、灰をこんなにこぼして」
 妻は灰皿を拾い上げると、台所にもっていく。
「いいじゃないか、少しぐらい灰が落ちたって、埃が積もったって、それに一体どうして灰皿を
みんな台所にしまうんだろうね。だいたい君は綺麗好きなのはいいが、もう少し生活の便利という
ことも考えたらどうだ。いつもぱたぱた掃除ばかりしていて、片づけた後は、一体何がどこにある
やらさっぱり分らない」
「まるで豚小屋だわ」
 妻の声が台所の方で聞える。
「物は物じゃないか。それを小さな物は小さな物、大きな物は大きな物と、まるでその大きさによ
 って区分するがごとく」
 私はカッとなってどもりながら叫んだ。
「だいたい君は、物を整理しさえすればいいように考えているらしいけど、物というのは人間に使
い易いように置くのが、その正当な置き方なんだ」
「まあ、まあ、いいじゃないか」
 先生はとりなし顔に云った。
「君も興奮するたちだね。もう少し冷静になり給えよ。客観、客観」
「そうか。じゃ聞くがね。一体、先生のおっしゃる客観とはなんだい。冷静に相手を、物を眺めろ
ということかね。まあ、一般に客観的科学的観察というのは、見かけの上で自分の考えも感情も交
えず物を見ようとするわけだが、実は、それは固定した視点、死んだ視点から物を見ているに過ぎ
ないのだ。二つの生きた眼を信用できないので、その眼の人間的な要素をすべて抜き去った一眼レ
フで物を観察するわけさ。すべてをありのままに、何の感傷もまじえないでというその観察の方法
は、常に科学万能主義の固定観念に囚えられており、人間の流動する視点や意識感情をずたずたに
引裂いている。客観的であること――つまり非人間的な見方を主張することだ。つまりはその主張
の底には、すべてのあいまいなもの、人間的な激しい感情、常に変化し流れてやまない思考に対す
る無言の軽蔑と不信の念があるのだ。しかし、それはいったい何のための不信なんだ。要するに、
それが個人的、一時的な、特殊で不安な状態ということのためなのだ。それはただ、首尾の一貫性
と落ちつきに欠けているからという理由に帰するのだ。そうした人間らしい気持や感情をおさえる
ことのできる人こそが、客観的公平に物を見ることができるという理屈なんだ。――客観主義とい
うのは結局、安全な対岸の火事見舞的立場から、いつも他人を自分流に理屈っぽく解釈してやろう
という態度だからな。親切そうに見えるけどその実、相手の存在のあいまいさにつけこんで、相手
を自分の領域に巻きこんだ上で、催眠術の暗示にかけてしまうのさ。だから、客観主義者に自信屋
が多いのもうなずける。彼らは一様にみなはっきりしているからね。人を見るにしても、自分の立
場を説明するにしても。というのは、自分の中の揺れ動く不安な感情のようなものを自分の外に追
いだしているからね。そして、ちょうどモザイックのように外部の事象に照応する冷い言葉をきれ
いに積みあげて並べておくんだよ。いつでも発言できるようにね」
「それは僕のことを云っているのかね。そういえばたしかに、そうかも知れない。しかし君は、一
つの極点を強調しているのだよ。主観とか客観とかいうことは、或る見方に対する相対的な言い方
ではないだろうか。客観というのを、一つの努力、自己中心的な物の見方に対する倫理的予防だと
考えてはいけないかね。だれにしても客観に徹することは出来ないだろうし、だからといって、見
る者自体の人間的視点にしても、意識の変化に応じて変ったのでは、どっちにしろ収拾がつかなく
なり、それこそ理性を失った狂的な状態になりはしないだろうか。そうなっては、人間一個の輪郭
も崩れ、ひいては社会の均衡が保てなくなるのではないかい」
「もちろんそうだよ。だからといって仕方がないのだ」
「だからといって仕方がない?」
 先生はふと口をつぐんだ。間仕切りのガラス戸に妻の黒い影が大きく映り、一瞬横切った。
「ねえ、先生、変なことをいうようだけど、この頃自分がこの家の中で単なる附属物のような存在
になっているような気がするんだよ。テレビとか電気洗濯機とか本棚のような、ほら、ここは団地
だろう。よく、外で自分と同じような男に出会うんだよ。いやでね……、やはり人間というと、主
体的にはっきりと存在したがっていると思うからね。こんなところに住んでいると外界があまりに
堅く閉ざされているので、逆に内面に向って自分を確かめようとするんだよ。ところが、自分の中
にはいっていっても、そこはそらぞらしい観念ばかりで何もない。実に空虚なんだ」
「世の中が平和すぎるんだよ。本来男は家庭の危機を守る役割を果してきたのが、家庭を維持して
いく女の仕事まで分担させられることになった。――」                    
「解説はもう沢山だよ。客観的存在。もしそんな云い方ができるとすれば、この客観的に意味を付
与された存在がこの僕かも知れない。もう沢山だよ。先生、君はこれまで僕をさんざん解説してき
た。しかしもう沢山だ。僕は君に解説されるような人間じゃないんだ」
 先生はじっと私の顔を見詰めた。そのうちその顔は寒天のように震えながら、歪みはじめ、ふと
生気を失うと暗く横に伸びだした。
「一体――」
 急に、無気味に孤立した感じにおののきながら、私は彼の肩に手をふれようとしたが、そのとき、
部屋の内部の異常な光景が眼に映った。それは魚眼レンズのむこうの世界、すべてのものはそのあ
りのままの姿ではなくなっていた。柱時計は文字盤の片方が溶けたように流れ、書棚は今にも倒れ
んばかりに腰を折り曲げ、ぐねぐねとうねった窓枠から緑色のカーテンが横に飛び出ていた。私は
眼の前の尖った錐のような机の上から、やっとのこと煙草をとりあげ、苦労して火をつけるとまわ
りから先生を探しだそうとした。
「どこにいるんだい」
 煙草でも吸ったらと思ったのが、こんどは、視野に紅色の輝く斑が現れぐんぐん近づいてきた。
「それをつかまえろ!」
 押しひしゃげた玩具のような椅子の後から、針のような人物が現れたかと思うと、急に成長した
巨大な足で私を跨いでいった。
あいつだ、あの一角獣のせいだ」
 雷鳴のような先生の声が背後から響きわたった。振り返ると、壁面にはめこまれた巨眼が睨んで
いるその方向にマッチの火ほどに輝きながら、一角獣が走っていた。光の波が渦まきながらそれを
追っていたが、その後方では物体はたわいもなく形を変え、ついには輪郭を全く失ったかのように
拡散していくのだった。
「一体、どうしたんだ」
 私は呆然と椅子に坐ったまま、この錯乱した世界をみつめていた。すべてが飴のように曲がり私
をつつみながらゆっくりと崩れ落ちていた。それはゆるやかな傾斜をもつ巨大なすりばち――そし
てそのすりばちの底に私はいるのだった。
 高い窓のむこうで緑色の樹木がゆらめきながら覗きこんでいた。その強烈な光。黒い半開の窓。
窓をとおして太陽の輝く円盤が見えた。
 私はよろよろと立ち上ると、窓へ向って歩いた。すると、窓は急に厭がるようなそぶりにねじれ
てすぼまっていった。窓にかぎらず洋だんすも机も椅子も急速に小さく縮まっていくようだった。
すりばちの底で、一角獣のえがく円周が次第に小さくなり、ついに輝く一点となった時、部屋の中
の物体はその一点を中心としてゆっくり廻り始めた。すべての物はその中心に向かって、小さく縮
少し、徐々にその中に吸いこまれていくようだった。
「わかったぞ」
 椅子がけしつぶのように吸いこまれていくのを見て私は壁にはりつきながら、同じようにカーテ
ンにすがりついている先生に向って叫んだ。
「あれは穴だ! 強力な磁場があの穴から出ているんだ。だから、みんなあの穴に吸い寄せられ、
小さく押しつぶされて吸いこまれていくんだ」
「すべてがかね」先生がうわずった声をあげた。
「恐らく、そのカーテンと、この壁、部屋、そして結局はこのアパートも、だろうね」
 私は眼の前を一冊の本が漂っていくのを見て、手にとろうとした。すると、不意に自分の体が軽
くなっていくのを覚えた。ほこり、私は小さな埃のように空間に浮んでいた。下の方に団地の階段
の明るい線が見え、派手なセーターを着た男女が日なたぼっこをしていた。「おーい」私は彼等に
呼びかけながらその上空を通り過ぎていった。
 いつのまにか、私は実体を失い、影のような抽象的存在になっていた。少しの風でたちまち菌糸
類の胞子のように舞い上る埃。きらきら輝く埃。真昼の光線を腹いっぱい吸ってその中で躍りまわ
る、形のない微粒子。私には人格はない。私は、はっきりした輪郭をもつ一個の人間などではない。
私の中には、すべての人がいるし、また誰もいないともいえる。私は常に誰かの思考、誰かの感性。
風のまにまに漂う肉体の消えた抽象的存在なのだ。しかし急速に私のまわりからは明りが奪われて
いった。
 或る沈滞した流れの中で、ほのかな光が私の周囲に無秩序のまま放置され投げだされて漂ってい
る物質たちを浮び上らせていた。物たちは、まるで生きているものででもあるかのように相互に引
き合い、或るものは倚りかかり、或るものは吸収し吸収され、そしてすべてが、星のようにのろの
ろ動いていた。彼方に在る巨大な暗黒の渦にむかって進んでいた。
 吼えている巨大な口。それは醜怪な唇のようにめくれ上り、わなないていた。次第に濃密に濁っ
てくる空気の中で、物は私の周りに迫り、周りで廻転し、接触し、交接し、私を傷つけ、締めつけ
ながら、私を押し包んで動いていた。羽毛のように柔かいもの。鋼のように堅いもの。棒のような
もの。袋のようなもの。私はその中で悶え悶えながら形を変えていった。……

 長い時の経過のあと、不意に、再び匂いがよみがえった。とたん物たちはまわりから飛び退った。
秩序が回復し、私は再び平らな地面に立っていた。
 そこは夜だった。
 眼の前に、巨大な土ぐもの巣のように、天幕が幾層にも重なって見えたが、それらはまだ、吐き
気でもするかのようにふくれあがり、ゆれ動いていた。夜空の星くずのように散らばる内部からの
光は、それにつれて、旋回する花火のように、流れる滝のように、或いは近づいてくる幾百の黒豹
の眼のように動きまわっている。天幕の上方に、アンドロメダ星雲に似た渦巻型の星雲が白く輝い
ていた。
 不意に激しいジンタの響きがあたりの静寂を破って鳴りだして、眼前の天幕の入口が輝き、あた
りを白昼のように明るくした。
「さあ、いらはい。いらはい」
 入口の番台に坐った男が節をつけて歌うように呼ばわっていた。      
「世にも珍しい一角獣だよ。この機会を逃がしたら、もう絶対におめにかかれないというしろもの
だよ。それに絶世の美女とライオンの対決、どちらも逃げられない檻の中の対決だよ。さあ、いら
はい、いらはい。……」
「なんだ。サーカスじゃないか」
 私は誘われるように入口をくぐって中にはいっていった。中では激しい拍手と爆笑が巻き起っ
ていた。今や大勢の観客を前にした中央円形の広場で、騎士を乗せた一角獣が走り廻っていた。
 鎧をだらしなくひっかけ、鉛の槍を振りかざした騎士は、やがて一角獣の背から振り落され、懇
願のしぐさでよろよろと一角獣の後を追う。ついに槍も棄て、鎧もはずれた騎士が一角獣の尻尾に
つかまったまま引きずられて退場していった。
 すると音楽が小きざみで熱狂的なドラムの音に変った。広場の奥に囲われた幕が落ち、円型の檻
が中央に移動してきた。その中には乗馬服の女とライオン。しかしまだその間には仕切りがある。
女が白い手袋の片手をあげて一礼すると小脇に抱えていた鞭をとって二度三度振り下ろした。間仕
切りが開いた。まだ、ライオンはこびるように身をくねらせて歩いている。女の態度をうかがって
いるかのようだ。檻の中の女は、わずかにその白い横顔をみせていた。ひき締った唇、まっすぐな
鼻梁、そして、大勢の観客の前で行なわれる演技的存在にも拘らず、その様子はひっそりと冷たく
ライオンを檻の周囲を観客の全体を支配していた。音楽は止まっていた。あたりは完全に静かだっ
た。
 ふと、彼女はライオンから眼をそらした。ライオンは身構えた。何故、彼女は視線をはずしたの
だろうか。ライオンをその場所から誘いだすためにわざとすきをみせたのだろうか。その一瞬、私
は服を引き裂かれ、あけに染って倒れ、ライオンに組みしかれる彼女を脳裏にはっきりと見た。だ
が、同時に鞭は激しく鳴っていた。そして現実に私が見ているものは、危機の前に真直ぐ立ち止ま
っている彼女だった。彼女は驚嘆に価いし、それ以上にむごたらしい血に満ち、美しい肉体を披露
する存在だった。割れるような喝采の渦の中で誰かが私の耳元で囁いた。
(芝居はこれからだぞ……)
 真直ぐな一筋の光線が、今まで檻があった場所から上へ伸びていた。遥か上方の天幕の奥に一人
の裸の人物が現れ、光線の中を一本の綱を伝わって下りてきた。腰に小さな白い袋をぶら下げたそ
の男は、綱にぶら下ったまま少しずつ前後に振れ始める。
「一体何をやるつもりなんだろう」
 あまり立派な体付でもないその男は、盛んに天幕の内部を飛び廻っていた。光線が一定の方向し
か射していないので、その黒い蝿のような運動をはっきりと見定めることはできない。
 しかし、さいぜんから奇妙なことに私は気付いていた。確かにそれは鞭の音だった。空気を切る
鋭い音が走ると、円をかいて運動しているように見える人物が、けいれんにかかったようにちょっ
と飛び上るのだった。それは、わざと飛び上って、鞭をよけているようにも見えるが、鞭が当って
その痛さに飛び上っているようにも見えた。確かに、土間の中央には毛皮を着た野蕃人が立って上
を見上げていた。鞭を持っているのはこの男だった。繩の先にぶらさげられた男が、ゆれながら、 
もっとも私の傍に近ずいた時、私にはその顔が見えた。それは、苦悩とも歓喜ともっかない感情に
ゆがんだ先生の顔だった。先生は鞭の痛みをまぎらわすためか、打たれながら叫んでいた。 
「打たれることによって私は私自身になるのだ。あの物と対抗するにはこれしかない。物の中に組 
みこまれ、その中に溶かされないために、私はまず自分でなければならんのだ。しかし、完成され
た物の合理性は、私の心の隙間からはいりこみ、私を硬化する。私はリューマチのように手足をつ
っぱらせ、反人間的な物の惰力に身をまかす。この氷を溶かせ。この氷河の時代にあってわが人間
性を恢復せしめよ。夜の時間に私は手足と心の機能をとりもどす。しかし、朝になったらまた後戻
りだ。永遠の常識の鉄則が私を縛りに来るからだ。私は自分を忘れかけている。私を打て。私を打
で。打って私をして憶い起さしめよ。この悪夢を醒ましめよ」
 先生の描く円運動は次第に小さくなり、声も次第に眠げに、力を失うと急に、みの虫のようにぶ
ら下って静止した。もしや先生はあの過激な運動鞭の殴打にほんとうに死んでしまったのだろうか
? いや、そうではなかった。見よ。ぶら下ったみの虫のみののひだの間に、徐々に小さな紫色の
光が現れ、まわりの闇をぼんやりした虹色に染め始めたではないか。ついでその光は先生の体から
離れ、次第に強い光芒となって、先生のまわりを風のようにめぐり始めた。それは例の一角獣が放
つ光だった。
 先生の分身である一角獣が、気を失った先生の内部から幻覚のようにしみだし、先生のまわりを
飛びまわっている。今や、銀色に輝く棒となった先生。そのまわりを飛ぶ分身、一角獣から放散さ
れる光が次々と四方八方の闇へ波のように拡がっていく。すでに、天幕の内部は、光の洪水、光の
渦巻、光の暴風圏に巻きこまれていた。波打つ天幕に数々の奇怪な影像が現れはじめた。
 闇の中から、闇から生れたその一部のような牛の頭が、のっそりと近寄ってきたかと思うと、ぐ
うんという飛行機の爆音に似たせん音が耳をつんざいて走り過ぎた。空中に猫の首が伸び、電光の
ような火花が走り、無数の蛇が泳ぎまわる。口を大きく開いて鳴いている蛙、ひっそりと立ち上る
女の影、格闘する男の影、物凄く大きな蘭が正面にはっきりと彫物のように浮き上り、その中から
鳥が一直線に飛んできて鏡につき当る。すさまじい音響が轟き、あらゆる化物が乱舞しながら現れ、
宙をかけまわる。ミラーボールの光と影、メリーゴーラウンドの廻転。何もかも風のように飛び去
り飛び来る。はね上るペン。すべっていく灰皿。空気をすいこむ湯わかし。空を飛ぶ破れこうもり。
野獣のように吠える机。紅い焔を吐きだす壷。舞い上るレコード。時計ははりねずみのように転が
り、浴槽はひび割れて舟のように浮んでいる。その向うに、アンドロメダ星雲が現れ、しだいに大
きく近づいてくる……。
「おーい。客席に人が居るぞ」
 のんびりした声が上の方から聞えた。
「お客さん。もう終ったんですよ」
 番台にいた男が黒い影になって近づいてきた。
「え? 終った? でも……」
 私はまわりを見廻した。あんなに沢山いた観客は私のまわりの四、五人を残してすべて消え失せ
ていた。
 私のまわりの観客、――奇妙なことにみんな私によく似ていた――彼らは、今まで眠ってでもい
たかのように首を前に垂れていたのが、急にもそもそと身じろぎを始め、いかにも億劫そうな様子
で立ち上った。みんな疲れているようだったが、それでもその顔付きは私によく似ていた。
「気味の悪い客だな」
 男が後すざりしながら呟いた。
「とにかく、出ていってくれないか。あんたの兄弟も連れてね」
「兄弟?」
 私は乱雑に置かれた椅子の間を歩いて出口の方へ向った。不意に身震いが襲った。立ち止って後
からついてくる影達のたてる、ざわざわと耳ざわりな洋服のこすれ合う音に耳を澄ました。
「出口はあっちですよ」
 男の注意する声が聞こえた。
「わかってるよ」
 私は肩ひじを張って出口までどんどん歩いていった。
 番台には、小さな豆ランプの明りに照らされて、若い女がぼんやりと私を見詰めて坐っていた。
柔かい輪郭の顔立ちは、ニンフェットな反面、そのくせ恐怖のさなかに凍りついた仮面のよう。
小さな赤い豆ランプが彼女の咽喉もとを照らしていたせいかも知れないが。
「あ」
 私かその傍を通り抜けようとした時、軽い声が聞えた。振り返ると、彼女の指先が小さな紙片を
差し出している。
「何です」
 手を伸ばし、紙片を受けとるはずみに、一瞬、爬虫類を思わせる、冷たい指に触れた。
「お友達からですわ」
 小さく折り畳んだ紙片を拡げて、乏しい明りの下で先生の便りを読んだ。
 ――色々あっだけれど、僕は、所詮、君の生き方と違うようだ。僕は、ここで仕事を見付けた。
さっき、君も見ていただろう。ピエロ。それが僕の役割なのだ。あの一角獣は、ここでの暮しがと
ても気に入っているんだよ。末筆ながら、君の家庭を、大事にしたまえよ。――
「そうか……」
 私は溜息をつきながら、外の闇へ眼をやった。
 闇はどこまでも深く、何か不思議な生き物の気配に満ちていた。闇の中から飛んできた紙片が私
の足に貼りついた。取り上げて見ると、一人の男の顔を印刷したボスターだった。その男の顔には
みおぼえがあった。が、たちまち風が奪い去っていった。私が外に向って歩きだすと、五人の私の
影も、まわりにつきまとい踊るような足どりで従った。
「君達は一体何者なんだ」
 足をとめて尋ねた。するとその中の一人が嘲笑うように答えた。
「じゃ、知らなかったんだな、僕等は君がいつも気にしている〈私〉なんだよ。全く迂闊な話だよ。
これまでずっと君の傍にくっついていたのに、まさか、君は自分か純粋無垢な統一的主体だと考え
ているわけでもあるまいに。君が僕等を作りだしたんじゃないか」
「僕が君等を作りだしただと? でたらめをいわないで欲しいな。僕にはそんな憶えはない」
「はは、信じないのか。君はこれまで迷ったことがないのかね。はっきりとした信念で行為したこ
とがあるというのかね。笑わせないでくれ、ことあるごとに迷い、結局は偶然の成行にまかせ、そ
の責任さえも取り得ない君が、結果から逆に計算して僕等をつくったんじゃないか。一休僕等は何
者なんだ。その質問はそっくりそのまま、君に返してやりたい位だよ」
 憎々しげに云うと、唾を川面に吐いた。
「まあ、まあ、そんなにまでいうことはあるまい」
 他の一人が取りなし顔に間にはいってきた。
「確立的存在ということもあるじゃないか。死者ならともかく、きちんとした輪郭をもった奴なぞ
いるわけがない。多少のごまかしや妥協は誰でもあるさ。またそれを取り入れていかねば生きてい
けない程、偶然の力というものは強いものだよ。偶然を受け入れ偶然の力を利用して生きる。また
それを別な偶然に変質させて発散する、つまり偶然の媒体として存在するのが普通じゃないか。そ
う責めることもあるまい」
「何故なんだ。しかし何故、ついてくるんだ。僕は君等に用はない。頼むからどこかにいってくれ
ないか。君等を見ているとむかむかするんだ」
「君は小さな花が好きかい」
 人のよさそうな影の一つが私につきまとった。
「例えば、すみれとか野菊、ああそんな可憐な花をちぎって君に投げつけてやりたいよ。死んでし
まえばいいんだ君なんか」
「そうかね」
 私はいささかむかついて叫んだ。
「僕をおとなしい人間だと思っているんだな」
 私は、いきなり、すぐ傍にいる影を突きとばした。そいつはぐにゃりと体を曲げて倒れかかって
きた。
(案外弱い奴等め)
 私は折り重なるようにせまってくる影達をこれでもかと蹴とばした。柔軟な生ゴムの塊を蹴とば
すような感じが足に残った。蹴とばしても蹴とばしても彼等はへばりついてきた。
 一蹴りごとに、恐怖が私をとらえはじめた。どうして、何故、彼等は不死身のように、私にへば
りついてくるのだろう。必死の争いの中で、私はそれだけを考えていた。
 突然、銃弾の音が耳を貫いた。重い圧迫が急に去り、私は身宸いして立ち上った。そして私のま
わりに転がっている五つの骸を見た。
 爆笑と嘲笑の口笛が私を襲い、ガラガラと車が通リ過ぎていく音が問えた。見れば例のサーカス
の一団が引揚げていくところだった。
 それが闇の中に消えていくのを見送っている私の耳に、後方から近づいてくる馬のひずめの音が
聞えた。荒々しい馬の吐息とともに降りたったのは先刻の女たった。黒い革の乗馬服に身を包み、
長い漆黒の髪は爽やかに肩をおおっていた。
「どこにいくつもりなの」
 闇の中で低い風のそよぎに似た声が問えた。
「私と一緒に来ない?」
「どこへ?」
 私はかすれた声で尋ねた。しかし私には行こうというあてもなかった。
 女の後ろから、手綱をとって馬に跨がると、風が渦まいて、私達のまわりを飛び過ぎていった。 
風には、原野に生えるヒースの匂いがした。きっと私達は果てしない原野を、黒いつむじ風のよう 
に走り続けているに違いない――私はそう思った。
「私はあんたを知っているよ」
 女の声が、風に吹きちぎられて聞えた。
「私を知っている?」
 一体、どこでだろう。私は記憶の中をまさぐりながら考えた。
「あの時も、こんなに暗かったからね」
 女の着けている革の匂いが強く私の鼻腔をつき刺した。女の流れる髪か私の頬に張りついてきた。
「あの時?」
「あの時よ」
 手綱をとっている私の腕に強く女の爪がたてられたと思うと、振りかえった女の黒い眼に涙がた
たえられているのを知った。
「思いださないのね。いいわ」
 女の腕が激しく動き、鞭が馬を打った。馬はまた疾風のように走り始めた。小高い丘が眼の前に
現われ、馬はそこを駈けのぼって止まった。
「降りなさい」
 女は飛び降りながら、命令するように叫んだ。あぶみに足をかけて、柔かい草の上に降りたっと、
不意に鞭が足にからみついてきた。
「何をするんだ」
 私は立ち上ろうとして叫んだ。二度目の鞭が私の額に振り下ろされた。私はあおむけに倒れて転
がった。
「何故? 何故なんだ」
 女は黒い影となって立ち上り、そして無言だった。鞭は、転がる私の体に向って何度も振り下ろ
された。私は顔をおおい、女が鞭うつにまかせた。すると不思議なことに痛みはさほどになく、む
しろ、鞭の蛇の尾のような冷たい感触が、足に巻きつき、あるいは手を締めつけるのが快くさえあ
るのだった。
「ああ、……」
 私は、首に巻きついた鞭の感覚に酔い痴れながら、次第に気が遠くなっていく自分を自虐的に考
えながら意識を失っていった。
 黒い雲が乱れた馬の尾のようになびいていた。渦巻状星雲は頭上に高く輝いていたが、雲はかな
りな早さで次々とその前を飛び急いでいた。
「あの女……」
 私はあおむきに寝ころがって、考えていた。あの白いうなじ、長い髪、黒い大きな眼、それから
引き締った腰、長くて細い脚、しかしそれらは女の外形に過ぎなかった。
「思い出せない……」                                       
 恐らく、たとえ会ったとして、女と私との出会いは、外形の印象を全く裏切るような心的状況の 
中に行なわれたに違いない。私はあきらめて立ち上り、丘の上から降りていった。一筋の小道がや
がて農道へ通じ、いつか私は街へ通じると思われる道に立っていた。風が強かった。道の両側にと
ころどころ立っている背の高いポプラの樹木は風にきしみ、吹きちぎられた小枝や葉が眼の前を飛
んでいった。
 不意に、前方から尼僧の一団が現れた。白い被衣をかぶり、顔をふせたその一団は、こんな処で
人と会ったのを驚いたかのように、私を見たが、そのまま黙々と通り過ぎて行こうとした。
「あの、お尋ねしますが、街へはどういけばいいのですか」
 吹き荒ぶ風に聞えないのか、答える者はない。
「あの、街へは」
 たまりかねて、私は列の最後尾に歩く尼僧につきまとうようにして叫んだ。
「街は、こっちですか、それともあっちですか」
「私達のあとをついてきなさい」
 尼僧はうつむいたまま囁いた。
「私達も街の方へ行くのです。それから、私以外の人に話しかけないで下さい」
「何故です。何故、あなた以外の人は私が物を尋ねても答えないのですか」
「私達は話すことを禁じられているのです」
「話すことを禁じられている! 一体だれが禁じたんです」
「お願いですから、あまり聞かないで下さい、禁じたのは自分達です」
「何のために? え、一体何のためです」
「それは……」
 尼僧は苦しげに吐きだすように答えた。
「ものを言うことは快楽だから……人は快楽にとらわれて、自分の話す言葉の快楽に酔って……い
つか真実を忘れてしまうから」
「確かに、そうですね」
 私は風に上衣を吹きちぎられまいと、襟をかきよせながら強く叫んだ。
「確かに、私は何もかも忘れてしまっているような気がするんですよ。何もかもですよ。思いだそ
うとしたって思いだせない何かがあるんですが、言葉とか思想が邪魔して思いだせないんです。私
は、今、何故こんな処にいるのか考えているんですよ」
「人にとって真実な自分を見出すのは、なみ大抵の努力では駄目です。私のように長いこと沈黙の
中に沈み、すべての浮わついた思念を排除しつくそうとしても、やはりどこにも到達出来ませんで
した。結局、私達は人間が創った言葉でもってものを考えるからです。そんな言葉で考えまいとす
れば狂気に陥るより仕方ありません。誰が狂気を望むでしょうか」
 風が尼僧の黒いガウンの据をまくり、そこから血管の盛り上った老醜の足がのぞいた。
「私は、実は、最初に言葉を創った人を憎んでいるんですよ。その人は、恐らく物を眺めながら、
その物の狂気に打たれ、言葉を創造したのでしょう。しかし、その人が私達の方を振り返った時に 
は、彼の狂気は消えています。彼はあくまでも普通の人のように話しつづけるのです。私達は彼の 
人と結びついています。しかし、彼の人の狂気とは結びついていないのです……私はあきらめまし
た。私は、言葉を否定します。しかし、その言葉の背後にある真実――狂気を知らないのです。私
は中途半端な人間です。いえ、人間とも云えません。私は言葉によってつくられた非常に形象的な
存在――実体のない存在になっているのです。――見なさい。あれが今からあなたのいく『無意味』
という名の街ですよ。では、ここで別れましょう」
 眼を上げて見ると、数々のネオンにあかるんだ街の輪郭が、夜の栗の花のようにぼっと浮び上っ
ていた。