黒いマント(後)

〈おまえはただ、あの車をとめればよかったのだ〉
 その時、地から湧きでるような声が部屋一杯に響き渡った。
〈おまえのしなければならぬことは、たったそれだけだった〉
 この声だ。と私は考える。兄の部屋で聞えたあの時の声。
〈待ってくれ!俺は違うんだ〉
 と、苦しげな兄の声。
 すると、今まで暗かった部屋の中が、妙に息苦しい熱気のようなもので充満してきたかと思うと、
四方の壁がいっせいにぎらぎら輝きだし、たちまちそこらじゅう、物を反射する鏡となって、私を
びっしりと取り囲んでいた。向い合った鏡は互いに相手の影を映し、マントを着た私自身の映像は、
連続したトランプのカードのように、ずらりと奥へ並んでしまった。
 映像の中の一つが不意にまばたきをした。おやと思ってよく見ると、それは私自身ではなく、死
んだ兄貴である。例のマントこそ着ていないが乙に澄まして椅子にかけ悪戯っぽく眼くばせしてい
る。
 〈おい、こっちに来いよ〉
 というので近寄っていくと、
 〈まあ、坐れ〉
 と命令するようにいうのまで例の調子だ。敷きつめてある真赤な絨毯の上に坐りながら、あたり
を見廻すと、妙にひんやりとした空気がまわりの暗闇の中から漂ってくるばかりであとは何もない。
ただ一つのスポットライトが私と兄を照らしている。
 〈妙に淋しい所だな〉
 思わず呟くようにいうと、
 〈しっ、声が高い〉
 兄貴はあたりに気兼ねするような様子だ。
 〈とにかく、ここに対する批判は禁物だ。追いだされたくなかったら、他のことを話そう〉
 〈いいさ、しかしいったい、ここは何処なんです〉
 〈いってみれば、「偶然の檻」とでもいうべきかな。死人が第一番にくる場所で、歴史の裁判が確
定するまでここに居るのさ、まあよく見てごらん〉
 兄は、つと椅子の上に立ち上ると、スポットライトの明りをさえぎった。
 〈どうだ。よく見えるだろう〉
 〈ははあ、なるほど〉
 見たところ、何もないと思った暗闇のあちこちに、同じような椅子に腰かけた人々が思い思いの姿
勢のまま、淡いスポットライトの光に照らしだされている。
 〈あの人達も俺と同じ、やはり「偶然」のために死んだり、殺されたりした人達さ。歴史のくだす
判決の日までああしているんだよ〉
 〈じゃあ、退屈だろうな。判決っていつあるのか知らないけど〉
 〈判決は明日かも知れぬし、また永遠の未来かも知れない。しかし、いずれにしても同じことだよ。
ここには「時間」という観念はないんだよ。同様に「空間」という観念もね〉
 兄は、再び椅子に腰を落すと、ロダンの「考える人」そっくりの様子になった。
〈ここでは、外界は自己の意識を中心に勁いているんだよ。あそことは丁度反対にね。だから、偶
然を待ち受ける時の退屈な感じなどはまるで縁がない。ただ、自己の意識の無限の展開だけがここ
にある。ここにいるあの人達は、ああして椅子に坐ったままそれぞれの「夢」を見ているわけだ。
もちろん、いい夢とは限らないが、それを自分で選択する権利はない。あらゆることが起り得るが、
それがすべて自由だというわけではない。或る人は楽しい夢を見ようし、或る人はつらい夢を見よ
う。それはもうどうしようもないことだ。すべては、偶然がもたらした死の瞬間の意識によること
だから。さっき云った「偶然の檻」というのはその意味で、つまりは死の瞬間における「偶然」と
「意識」の関り合い方によって意識の自由が制限されるということさ。ところで、ああ……〉
 兄は急に立ち上ると、われを忘れて叫んだ。
 〈俺は、いったい何を喋っているんだ。折角、弟に会えたというのに何一つ肝心なことは話しち
ゃあいないんだ! おまえは俺がどうして自殺したか聞きたいに違いない。だっておまえは俺が自
殺したと思いこんでいるに違いないからな。なんて奇妙な言葉さ! 自殺とは。俺は決して自殺し
たんじゃない。断じて自分の意志で死んだんじゃない!〉
〈兄さん! それはどういう意味です〉
〈まあ、待て〉
 兄は私に手を振った。
〈おまえは、俺が、お涙頂戴の身上話とやらをすると思っているだろうが、そうはいかないぞ。そ
んなに簡単に説明出来るようだったら、もうとっくの昔に、歴史の判決にめぐり会ってる筈だから
な〉
〈兄さん、何を云っているんです。お願いだからもう少し冷静になって下さい。あなたは誰かに殺
されたんですか〉
〈誰かに? ハハハ……、これは愉快だ。そうだ。ではいおう。俺は殺されたんだ。しかも俺のマ
ントに〉
〈マントに?〉
〈そうが。マントだ。ほれ、今おまえが着ているマントだよ〉
〈冗談はよして下さい〉
〈冗談じゃない。本気だよ!〉
〈兄さん。確かにあなたはどうかしていますよ〉
〈どうかしてる? では、おまえは人が死ぬということには、もっと然るべき理由がなければいけ
ないというのだな。高遠な理想の崩壊とか、或いは権力からの圧力とか、あるいは生の意味の喪失
とか。人間がその命を絶つということにそれほど尊大な意味が必要と思うのか。いやいや、俺はマ
ントのために死んだ。あるいはマントが俺を殺した。それでいいんだ〉
 兄は考え事でもするように、うつむいたまま、椅子のまわりをぐるぐる廻り出した。すると、ぶ
ぶついう独り言が聞えた。
〈要するに、死ぬ理由なんかというものは生きているものに対してしか必要でないからな。……全
く、たんが咽喉につまって死んだとか、あるいは流行の服が着られないほど、肥ってしまったため
に自殺した娘とかが、それ相応に聞えのいい病名とか、原因とかを押しつけられて記事になったり
するのは、その場合、真実が問題にされているわけではなくて、一応、遺族とか社会の常識を納得
させるために都合よくつくられた言訳なんだ。……でなければことこれが「死」に関することだか
ら、「生」の不安をかきたてる。……一つぐらい納得のいかない死があってもよさそうなものだが、
すぐにこれがノイローゼによる自殺となり、犯罪の場合だと異常性格者による犯行ということにな
る。……人間という奴は、もっと複雑で、偉大で、ずる賢こく、また、とほうもなく単純で、陋劣
で、馬鹿々々しい存在なのに〉
〈でも、現実はどうかな。もう、愚痴は聞きあきたぜ〉
 突然、傍の暗闇から声がして、兵隊風の男が顔を出した。かびだらけの戦闘帽を手に握りしめ、
カーキ色の軍服の前をはだけたまま私の傍にどっかり腰を下ろすと、黄色い歯をむきだして誰へと
もなくにやりと笑った。
〈全く俺の同期の桜は、近ごろ頭がおかしくなっているんじゃないか〉
〈おい、おい、断りもなくはいってきちや困るよ。今日は弟と話しているんだから〉
 兄は憂うつに突っ立ったまま顔をしかめた。
〈まあ、仕方がない。おい、この人は俺の隣人で、こんどの大戦で名誉の死を遂げられた方だ〉
〈へえ! 嬉しい紹介だね。しかし、もう一つ忘れてることがある。おい、弟さん、この人と俺は
中学時代も一緒だったんだぜ。ただ、最後は違っていたけれど、あんたの兄さんは何のためか分ら
ん選良の誇りのために死んだんだが、俺は国家の大義のために戦死したんだからな〉
〈またか! ひどい誇大妄想狂的言辞は慎しめよ。国家の大義なんて結局ありはしなかったじゃな
いか〉
〈少なくともあの頃はあったさ、誰でもそれを信じていたからな〉
〈そうかね、ではそれについて聞きたいことがある。ほんとに、君はその時、それを信じていたの
かね。君自身が国家のために死ぬんだと。死ぬほんの一瞬前の時間に堅く信じて動揺しなかったか
ね。国家と自分の生命を秤りにかけ、後悔しはじめていなかったかね。君は死ぬ一瞬前に、自分の
眼を閉じていなかったろうか。こう何もかも、すべての思いを断つという工合に〉
〈馬鹿な云い方はよせ! こいつ、死人に唾をかけやがる〉
〈そうさ。いくらでもかけてやる。君達がその迷妄からさめるまで。後から生れるものまで気狂い
にしたくないからな。……なあ、俺は思うんだが、人間て奴は、どいつもこいつも見栄っ張りだ
よ。人に虚勢を張るだけじゃ済まないで、自分まで欺しこもうとするんだからな。君だってその時
は恐かったんだろう?〉
〈………〉
〈人間は、死ぬ時、妙な事を考えたがるものだ。誰だって自分か無駄に死んだと思いたくないから
な。偶然の成行で死なねばならぬ時でも、下手な、それこそ可愛らしい理屈をつけて死にたがる。
遺書なんぞに殊更書き残して最後の身を飾るんだ。ああ、なんて、いじらしいこった!〉
 不意に声が震えがちにとぎれたので見上げると、兄はよるめくように椅子に坐ると、自分の頭を
叩きだした。
〈ああ、俺という奴は俺という奴は、……どうしたことで死んだんだろう?〉
〈だって兄さん!〉
 私は思わず腰を浮かした。
〈あなたは、さっきマントのために死んだって云いましたよ〉
〈マントのためだって!〉
 兄はびっくりしたように私の顔を見詰めた。
〈冗談じゃない。そんなもののために死んでたまるものか。まあ、考えてもみてくれ。俺はある組
織の命を体して、政府の要人を暗殺するため、路上で車をとめる役割を受けもたされていたんだ。
ところが、俺はそれをしなかった。というより、出来なかった。人命を無視する勇気という奴。或
いは思いきりに欠けていたんだな、俺は。ところが、エリートの誇りという奴があって、そういう
意気地のない俺を責めた。もう俺はエリートでもなんでもない。ただの人間ですらない。虫けらだ。
おい、人間という奴は、どんなに慣れようと努力しても慣れることが出来ないことがあるんだな。
例えば、油虫を見ると、身振いがでる人間がそれを止めることが出来ないように。俺は、自分が虫
けらであることに我慢が出来なかったのだ。
 俺は高い屋上から、被害者の車に向って飛び下りた。もし、時間か正しければ車を止めることが
出来るだろうし、間違えても、死ぬだけのことだ。虫けらには決定権はないからな、虫けらにふさ
わしく偶然に意志を委ねたというわけさ〉
〈なるほど。うん分る、分る〉
 兵隊がうなずきながら身をのり出した。
〈いや、俺も立場は違うけど、なんとなくお前のその時の気持が分るんだよ。俺は、例の特攻機
乗組員として訓練をうけていたわけだが、その日が近づくにつれ、気持がすさんでいくのが自分で
も分った。何とか気持を落ちつかせようと、手紙や日記に激しい殉国精神の和歌を書きつけた。し
かし、やがてその日がきて、隊長機に別れを告げ、いざ敵艦に突っ込む段になると、やはり嫌な気
持はどうしようもない。今まで、まわりから神様みたいにちやほやされていたのが、いざ死ぬ時に
なるとたった一人だ。妙にはぐらかされた気持と、涙の出るような孤独感と、自分に対するいたわ
りの気持がいりまじって、自然と操縦悍が上ってしまうんだ。俺は二度、敵艦の上をゆっくりと通
過した。不思議と弾が当らなかったんだな。しかし、三度目にはもう何も考えなかった。すでに死
んだようになって、機首を目標に固定した。要するに追いつめられて死んだんだな。自分の意志な
どじゃない。立場の恥というか、組織の無言の圧力というか。ひどく冷たくて涸化した眼なんだ〉
〈そうだ。確かに俺も、その冷たい眼を感じた。その眼は、俺達がじたばたせずに死ぬかどうかを
ずっと監視していたんだよ。つまり・俺達は自分のヒロイズムを満足させた代償として死なねばな
らなかったわけだ〉
〈では、その時〉
 私は口をはさんだ。
〈自分が英雄ではない、普通の人間に過ぎないといえばよかったんだ〉
〈おそらく許してはくれまいよ。すでにネジが巻かれ、歯車が廻り始めた機械をとめることが出
来るかね。たった一人の人間を降すために発車した汽車を止めるかね。もし飛び降りたにしても、
もっとみじめな死に方をしなければならなかっただろうよ。俺はそんな死に方はしたくない〉
〈どんな死にかだだっていいじゃありませんか。それが人間らしく生きようとしたための結果だっ
たら恥かしくない筈です。もっとも、今の私には人間らしい生き方というのは分らないが、とりあ
えず、虫けららしい生き方から始めることにしますよ。恐らく、たとえどんな暮しであろうと、し
まいには慣れるだろうから。で、もし慣れることが出来ないとしたら、そこで初めて私は喜こんで
兄さんのように死ねるというもんだ〉
 急に、ぞっとするような氷の静寂が襲ってきた。私は立ち上って、穴のあくように私の顔を眺め
ている兄の肩にマントをかけた。
〈これは?〉
〈兄さんの物ですよ。僕に似合う筈がない。持っていって下さい〉
 兄は立ち上ると、私に近寄り、ものもいわずに殴りかかった。
〈何をするんだ、兄さん!〉
〈よせ、よせ〉
 兵隊が兄の腕を押えていった。
〈おめえも悪いぜ、折角の兄さんの贈物を無下に返すことはなかろうに〉
〈こいつが! こいつが!〉
 兄は兵隊を押しのけると、膝をついている私の頭を殴り始めた。兄の涙が、私の首筋を濡らすの
を感じながら、私は永く忘れていた感動を思いだしていた。
 あの時は、兄が大事にしていたプリズムを盗んだためだっけ。殴られている私の眼に、忘れられ
たプリズムがはっきりと浮んだ。
〈分ったよ。兄さん〉
 こぶしを振りあげた兄の姿が、プリズムの向うでにじんだようにゆがみだした。
〈兄さん、早くマントを下さい〉
 七色の光が四方から襲いかかり、激流のような光の渦となって兄と兵隊の黒い影を攫っていこう
としていた。
〈早く、マントを!〉
 二人の黒い影は風に飛ばされる木の葉のように中空に舞い上ったまま、小さく縮まっていく。兄
がマントを投げかけるのが見えたが、たちまち光の渦は二人を呑みこんだ。
〈またくるんだぞ〉
 光の渦の向うから兄の声が聞えたが、それは、窓ガラスをこする木の葉の音のように、絶えず反
復し、いつか穏やかなまどろみに落ちた私を呼び続けるのだった。

 黒いマントは、今も生き物のように私の部屋にかかっている。もう大分色あせたが、まだこれで
自由に空を飛べぬものでもあるまいという考えが、いっそ棄てようという思いを止めるのだ。