物体(2)

 判りにくい地図である。斜めに差しこんだ月の淡い光では、只さえ読みづらい走り書きの文字は
ちらちら動いて眼が疲れ、点々と紙の上に浮び上ってくる数々の記号も、その間を走るかすれた幾
本もの線からも、その意味するところを判断するためには困惑を与えられるだけである。現在の自
分がこの地図のどの場所に立っており、今向っている場所は果して地図の上ではどの地点だろうか
というたぐいの疑問は果てもなく心の内に湧き殖えて、そのたびごとに私は何度となくその紙片を
月の光に透かして見るのであるが、やはり奇怪な模様でしかない紙片をいくら見詰めてもそれ以上
の意味は汲みとれるものではない。
 それにしても、このように判りにくい地図をどうして髪子は書いたのか。何故、もっとゆっくり
私に分るような書き方ができなかったのか。考えれば判らないことばかりだ。二週間以上も部屋に
閉じこもったきり顔も見せず、そのまま理由も不明のままに去ってしまった様子から考えて、何か
が髪子の身の上に起ったのではないだろうか。
 今日の夕刻、心配のあまり訪問した私はそこに、すべて閉ざされた雨戸、玄関には空家の印であ
る×の字形に板が組まれている家を見たのだ。硝子戸の隙間にただ一通はさんであった封書が私宛 
になっており、開いて見ると、引越先の所書とその附近の地図を書いた一片の紙がはいっているだ
けで他には何もなかった。
 地図によれば、A市をかなり離れた郊外にそのアパートはあるらしいのだが、何しろこのように 
判りにくい地図では、心細いことこの上もなく、何度も迷っては引き返し、月のわずかな光ですか
し見ては不確かな道を辿っていくのである。
 そのようにして一体何時間を費やしたか。ついに道が茫々と拡がった草原の前で、ふっつりと途
切れているのを見て、これ以上探してまわることの無駄さ加減をつくづくと思ったのだ。ぼんやり
と立ち止ったまま、しばらくは月の光に浮び上った草原を眺め、横手に黒々と連なる丘の上に眼を
返した時、ふと、その頂上にこびりついた様な小さな黒い物体に気がついて、おやっと思った。
 丁度、丘の上にかかった明るい月が、その黒いものの背後に廻っているので、私にはそれが黒い
牛の背にとまった一匹のかぶと虫の様に見えたのである。
 ――何だろう、家か?――
 漠然とした好奇心にかられ、私の足はいつかその方へ向っていた。ほんの少ししか草の生えてい
ないゆるい傾斜を登っていくと、みるからに、奇妙にゆがんだ形の、近づくにつれて大きくそして
はっきりとその姿を現わした巨大な家は、高さ三十米もあろうか。今にも倒れそうにぐらりと傾い
だ大柱はほこりにすすけ、恐ろしい程、横に張り出した破風が、まるで、その建物自体を押しつぶ
してでもいるような、巨大な姿のまま夜空に向って聳え立っている家には窓燈りすら見えず、月を
背負って黒々と、今にもカラカラと笑いださんばかりの無気味さ。
 しばらくぼんやり佇んでいた私の心は、その時、家の前に動く何物かを見て、はっと震えた。家
の中央にぱっくりと開いている怪物の口から、ひらりと飛び出した白いもの。見守る内、その白い
物体は入口の前に立って私をさし招くように手を上下に動かしている。
 ――それは一匹の猫だ。
 奇妙な戦慄が私の全身に拡がっていく。月の輝きがいよいよ強く、その大きさを増すとともに、
黒い建物は月の光炎に背後から抱きすくめられ、前よりは幾分くすんで収縮し震えてさえ見える。
門口で招いている猫の前足が、いやにはっきりと、白い旗でも振っているように生き生きと動いて
いる。
 あまりの不思議さに、私が一歩一歩近づいていくと、私の位置がずれるにつれ、ようやく、その
猫の視線が私を見ているのではなく、或る地平の一点を見つめている動かぬ眼であり、その胸にぴ
ったりとくっついているその前足は、前の水たまりの反映で動いているように思えたに過ぎないの
だが。――かすかにカタカタと鳴る音に見上げると、入口の上方に雨風に朽ち壊れた看板がかかっ
ており、ようやく読めるその文字は「××アパート」――では、ここだったのか――と思わず深い
溜息が洩れた。
 人口からは、ただ真直ぐな通路がかなりの長さでずっと奥まで続いているようである。足を踏み
入れると、すぐ黴くさい臭いを運ぶ冷えびえとした空気が頗を打つ。中は深閑として人の気配もな
い。両側の扉が風のためか、時々開いたり閉じたりして、その度に淋しげな音をたてている。開い
ている扉から覗いて見ると、中は真暗で無人の様子だ。閉じた扉からも光は漏れてこない。私は、
開いていたり、閉じていたりしている扉の谷間をぶらぶら歩きだした。コンクリートの床が虚しい
響きを両側の閉じた扉に伝える。――ここには誰も住んでいないのだろうか――歩きながらふと見
上げた扉の上に白い番号が浮んで、…三七番とわずかに読めたが、あとは判然としない。
 私は、ふと立ち止まった。今まで暗かった奥の方に、ぼんやりとしたあかりが漂っていた。管理
人でもいる部屋だろうか。小さくて、うっすらとした明りだから、はいって来た時には気がつかな
かったのかも知れない。
(もし、あれが管理人のいる部屋だとしたら)私は急いで歩きながら考えた。
(髪子の部屋もそこで分るにちがいない)
 それから十分程も歩いたろうか――それは、私にとってはとても長く感じられたが――奥の方の
明りは、前と同じ様に遠い所でゆらゆらと光っているだけだ。歩いている内に休が冷えびえとして
顔の皮膚が硬ばってきたのを感じる。振り返って見ると、さっきはいって来た入口が小さく空中に
浮びあかっていた。――豆粒程の大きさでぼんやりとうす明るく――それも二度目に振り返った時
には消えていた。そして、もう私のまわりは完全な闇なので、私は片側の扉に手で触れながら歩い
ていた。
 二、三度、何か円くて硬いものを踏みつけて転びそうになった。手に取ってよく見ると、コカコ
ーラか何かの瓶に似ているが、埃で汚れたレッテルまではどうにも読めない。闇を透して見ると、
通路のところどころにほの白く見えるものがやはり同じ様な瓶で、それが、所々にうず高く積まれ
ている様子である。
 どの位歩いたろうか。瓶につまずかぬ様、そろそろ歩いているので、一向に進んだ様な気がしな
いが。――私はふと、この死んだようにひっそりと冷たい通路全休が生きかえって、生温かい息を
吹きかけたのではないかという感じに打たれて足を止めた。すると、くちゃくちゃと囁くような口
唇音が耳元でしたかと思うと、続いて動物めいた恐ろしい呻き声が、がんがんと通路一杯に響き渡
った。前方の明りがふと何かによぎられて見えなくなり、それから再び輝いた。
 不意に暗闇の中から黒い人影がよろよろと現れて私にぶっつかって来た。はっとして思わず相手
の腕を強く掴んで引き戻すと、酒臭い息が私の顔にあたった。作業衣のシャツははだけ、闇の中に
一瞬浮んだその顔は、ぶ厚い皮膚が死んだようにたるみ、赤い唇は肉感的にだらけている。それは
髪子の父親なのだ。
「一体どうなさったのです」
 いつもとはまるで違っている様子にあきれて云うと、相手の眼がグルリと動いて私を見たかと思
うと急にパチリと伏せて、顔も俯伏せにしたまま、すたすたと私から離れて歩きだした。
「一体……」私はびっくりして呼び止めた。
「どこへ行くんです……髪子さんのお父さん……でしょう。僕、星男ですよ」
 父親は不意に振り向くと、いかにも憎らしそうに私を睨みつけ、落ちている空瓶を拾い上げるや
私に向って投げつけた。瓶は私の頭の上を飛び越えて、私の後ろでガチャンと毀れた。
「何をするんです! 一体、僕が何をしたというのです。貴方こそ髪子を僕から遠ざけて逢わそう
としなかった。不満は僕の方にこそあれ、貴方にはない筈じゃありませんか。それなのに……」
 私は怒りに身を震わせた。 
「怨みごと一つ云わない僕に向って瓶を投げつけるとは何事です。一体髪子はどこにいるのです。
髪子をどこに隠したのです。髪子に逢わせて下さい」
 ふと気がつくと、父親の姿はすでに消えていた。その代り、沢山の黒い顔が両側の扉の内側から
突きでて、私の方を見守っていた。私がその顔の一つに近づいて――もしや、貴方は――と声を掛
けると、すうと顔は引っこみ、ついで扉は閉ざされた。すると他の扉も一斉に閉じて、私は再び一
人廊下にとり残されたのだった。
 私には容易に推測出来るのだが、もし私がこのように排他的な部屋の扉を相手に、尚も父親を探
そうとする試みをやめないとしたら、その数も数ながら、恐らく予想以上の困難が待ち構えている
ことと思われた。結局、私にとっては、それがたとえどんな遠い所にあろうとも、現在示されてい
る唯一の善意としか思えない奥の灯に向って進むことが、ただ一つの方法だった。
 灯はまだ遠くにあるが、そこまでいくのに大して遠くはなさそうだ。そう思って見ると、さっき
より随分と明るさを増したし、壁と床との境目もほのかに分る。しかし、邪魔なのは通路にごろご
ろしている空瓶だ。懸命になって進んでいくうち、だんだん殖えだして、しばらくすると、足を踏
み下ろす隙間もないほど詰まってきた。瓶の上に足を置けば、重心をなくして転んでしまうしと迷
ったが、その時ふと思いついて、瓶の山の上に足を伸ばしたまま坐ると、壁に手をついて、自分の
体を前に押しだして見た。すると具合のいいことに、歩くよりははるかに早く前へ進む。その上一
度押せば、五十米位はそのまま止まらないので、まもなく私が燈りのついた部屋の前に滑りついた
時には、あまり時間をかけたような気がしなかった。
 眼の前に見るその部屋の扉は、金具で緑どられた極めて頑丈そうな片側開きだった。その脇に、
曇った覗き窓があり、先刻の光はそこから洩れているのだった。真黒い扉の上部に黄色い文字が浮
び上っていて、下手糞な書体で、
   にんげんは どうぞ
   そのほかおことわり
とある。
 ギイギイと軋む扉を押して中を覗くと、部屋の真中を仕切ったスタンドが眼につき、同時に、そ
の上に載った、飲み残しのリキュールグラス、半分程残ったまま突ったっている瓶、重なったコッ
プ、横に倒れた空瓶等が、ギラギラ眼にとびこんで来た。同様に瓶やコッフのかけらは土間に散乱
しており、五つばかりの椅子も足がとれていたり、クッションが引裂かれたりしたまま転がってい
る。――今晩は――と声をかけると、中には誰も居ないのか、一本だけ天井からぶら下った裸電球
が、これら乱脈を極めた光景を照らしだしている。私は転がっている椅子のうち、使用に耐えそう
なのを選んで腰かけると、スタンドの上の、褐色の液体がほんの少し残っている瓶を手にとって見
た。埃がぱっと舞い上り、瓶の口に鼻を当てて嗅いでみると、ぷんと刺すような匂いがある。ただ
簡単に「S」とあるレッテルを見て、それを元の場所へ置こうとした時、妙な呻き声がスタンドの
向う側から聞えてくるのだ。伸び上って見ると、空瓶やコップの林立の後ろに髪の毛のようなもの
が見える。どうやら、スタンドに突伏している者が居る様子だが、その髪の毛といえば、埃だらけ
の、蜘蛛が巣でも架けていそうな汚らしいふわふわした代物なのだ。
「へん、生きているんだか死んでいるんだか分りゃしないや」と思わず大きな声で云うと、くだん
の髪の毛がもぞもぞと動き出して顔を上げたが、それがなんと、思いもかけない奴。
「おお、砂男!」
 半ばあっけにとられて、まじまじとその顔を見詰めると、相手はぼんやりした表情で、力なくた
るんだ眼を燈りの方やら、スタンドの上やら彷徨わせていたが、やがて私にぴたりと視線を止めると、
そのまま眼を動かさず、猿そっくりの表情になった。
「おい、忘れたのか、私だよ」
 砂男があまり長いこと私をみつめているので、気味悪さをもてあまして注意すると、
「ああ、あなたでしたか」
 やっと気がついたように云うと、横を向き、思いきり苦い表情を作る。
 そのおかしさを我慢して、
「随分と久しぶり、お前はあれからずっとここに居たのか」と訊くと、
「ここのバーテンをやっているんですよ」とやっぱり素気なく眼をそむけたままだ。
「じゃあ、ここはやっぱり酒を飲ませるのか、道理で瓶がゴタゴタ並んでいると思った。それに、
ここは随分沢山の部屋があるんだね」
 ちらと、さっき出会った髪子の父親を思い浮べて、聞くと、砂男はやっと隅のほうから立ち上が
って来ると、私に向き合った。
「貴方も酒をお飲みになりませんか、こんなことを今更いうのも変ですが、あなたには以前、面倒
をおかけしたし、そのお詫びの意味で一杯いかがです」
(一体砂男は何を考えているのか? 私に酒を飲ませてどうしようというのだろう。それにしても、
ここで髪子の部屋を聞こうと思った私の期待ははずれたようだ。何しろ聞こうとする相手が砂男だ
から)
 ふと砂男を見ると、いつのまにか私に探るような視線を向けているので、狼狽てて云った。
「うん、それは飲んでもいい、ちょうど咽喉が乾いているし、ずい分歩いて疲れたから。しかし…」
 私は思い切って訊いてみた。
「髪子の父親がさっきここに来なかったろうか。すぐ外で出会ったのだが」
 砂男は、すぐにハハアといった顔をして私を眺めていたが、みるみる浮んできた奇妙な笑いを唇
のあたりに漂わせながら、
「それは来ましたけどねえ、でも、何かあの人に御用で? そうですか、あの人に会いたい用事が
あるのですか」
 殊更に用事という言葉にアクセントをおいて云うと、後は仔細らしく声を落して、
「でも、それは無理ですよ。何故かってあの人は酔っぱらうと、他の人の部屋にでも何でももぐり
込む癖があってね。いつもここの居住者から文句が出ている位ですがらね。今夜もどこに泊ってい
る事か、恐らく、あなたがこれから探して会おうとなさっても無駄だと……」
 私は遮って言う。
「だが砂男、お前、そう云うが、彼にはちゃんとした部屋があるのだろうし、父親が娘のところに
帰る時だってある筈じゃないか」
 砂男はふっと軽蔑するような顔付をして横を向くと、低く呟くように云う。
「あの父親には娘は居ないのですよ」
「あの父親に娘は居ないのですよ」
 と砂男は同じ事を二度繰り返す。
「砂男、お前は何か勘違いをして……。あの人には髪子という娘が……」
「今、居ない事は確かですよ。父親が毎晩ここにやって来て、酔っぱらっては泣きながらわめいて
いますよ。『俺の娘をどこにやった。娘はどこだ』つて。ほんとにどこに行ったのか」
 砂男は、ふっと謎めいた笑みを浮べると、嘆かわしげにつけ加える。
「自分の娘に見棄てられれば、あんなにもなるものか」
 砂男は、手早くカウンターの上の瓶を片づけてさっと拭うと、戸棚を開けて中から取り出したコ
ップに褐色の酒を満たし、私の前に置いた。たちまち、部屋一杯に甘く柔かい芳香がたちこめた。
口に含んでみると、ほろ苦いが、際立ってうま味の液体が、さっと口中に拡がり殆んど飲み下す必
要もない。まもなく休がかっかとはてって来ると、私はまるで桃色の毛氈に包まれたような感じの
中で微笑していた。
「どうです。いいものでしょう」
 砂男の声が柔かく響いた。眼を上げると、まるでそれらの品々をいとおしむかのように、棚の上
の瓶の方へ手を差しのべている砂男の姿が眼に映った。そして驚いたことには、今は微笑している
砂男の顔は、まだ十六、七歳の少年のようにあどけなく変っていて、チラチラ輝く白い光に柔かく包
まれているのだ。
「大したものだ」
 私はうなる様に云った。ぐっと一息に飲みほして、辺りを見廻わすと、部屋の内部は、さっきと
まるで様子が変っている。カウンターの上に積まれた瓶やコップは、幾色もの光の中で、あたかも
自分達だけの楽しい思いに浸っている様に陽気に立ち並んでいるし、台の上は、いつのまにか黒い
ビロードで覆われ、きらきらする光をしっとりと、几帳面に吸いとっている。そして、さっきは床
の上に砕け散っていたガラスの破片や、その中で転かっていた椅子も、今は椅子はカウンターの前
にキチンと据えられ、その砕けた破片さえ幾千のまばゆい宝石と化して床を埋めているのだった。
「驚きましたか」
 砂男がゆっくりした笑いを浮べ、机に片手を置きながら云った。
「もっとも、あれの所為でもあるのですがね」
 と指さした方を見ると、さっきの赤い裸電球がぶら下っているに過ぎないのだが、中に虹の様に
燃えているものがあり、それがこの部屋の物全部に対して様々な色合いを与えるものらしい。
 私は、ひっそりと黙りこんだまま今一度あたりを見廻した。
 ――陽気に笑っている瓶、床の上の宝石、それにこの変貌した砂男、さっきとはすべてが変って
いる。これはどうしたわけだ! 私は夢でも見ているんだろうか……髪子は、ほんとうにここから
居なくなったのだろうか、それとも、最初から居ないのか。……
 砂男の声がすぐ耳元で囁いた。
「あなたはまだ疑っている様ですね。ここにあるものすべてが仮の偽装ではないかと、そこに転が
っている宝石やら、私がこんな様子をしていることについて、まだはっきりと自分の眼を信ずるこ
とが出来ないのですね」
 彼は軽くうなずいて何か考えている風であったが、やがて溜息まじりに□を切った。
「あなた方はみなそうなんですよ。自分の眼で見ていながら自分の眼を疑っている。自分の心でそ
う思いながらも、もしや間違っているのではないかと疑わなくては気が済まない。まあ見て下さい」
――といって、彼は床の上から燦然と輝く宝石を拾ってビロードの上に置いた。
「これは本物です。それからこの私も」――彼は自分の髪の毛を引張ってみせたが、それはいつの
まにか綺麗に撫でつけられたすべらかな髪になっていた。――
「本物です。その外、色々ありますけれど、例えば、この瓶にしろ、コップにしろ、椅子にしろ、
皆、あなたの見る通りのものなのですよ。この酒だって……おや、あなたは笑いましたね。ハハア、
あなたはこの事をみんな酒の酔いの所為だと思っているんですね。全くあなたという人は!」
 彼は軽蔑したように叫ぶと、息をつめたまま立ち上り、しばらく黙ったまま眼の前をぼんやり眺
めていたが、やがて思い出したように、酒を私のコップに満たした。
「まあ、しかし、そうあなたが思ってもいいですよ。そう思うのは勝手ですから」
 彼は、いかにも思いに耽るといった調子でのろのろと続けた。
「けれど、それは何かおかしな事ですね。あなたが酒を飲むのは、酔うためであって、物の本体を
見極めるためではありませんからね。それには反対じゃないでしょう。なのに、どうしてその酔に
逆らってまで疑ったり考えたりするのですか。第一そんな事は酔っている時に出来る筈はないじゃ
ありませんか。これは勿論酔っていない時が、酔っている時よりもより正しく物の本体を把握出来
るという貴方白身の考え方に、仮に基いて云っただけのことですがね。しかし、大体、この考え方
からしておかしなものですよ。酔っていない時にごく立派な考え方をする人だったら、酔えばそう
した考えを失くすかも知れませんがね、逆に云って、普段あまり立派な考え方をしない人が、酔え
ば立派な考え方をするかも知れないじゃありませんか。又、この立派な考え方とか、正しい見方と
かいうのも、一体どういう方法で決めるのですか。五人の内の三人が、ある男を醜いというので、
その男は醜悪だということになるのですか。又更に云えば、酒を飲まなければ酔っていないと考え
て差し支えがないと、どうして思うことが出来るのか分りませんね。――だってあなたの考え方か
らすればそうなりますよ――人は恋に酔って、音楽に酔って、権力に酔って、信念に酔って、金に
酔って、その他あらゆる物に酔いますよ。それが人間のやり方じゃないですか。だとすれば、そん
な始終酔っ払った人間がなんで「物の本体」を把握することが出来るんです。あなたは今酔ってい
るかも知れない。そのために正しい判断を失っているかも知れないし、また、かえって正しい判断
を得たのかも知れない。が、そういうことはほんとうはどうでもいいのです。これはあなたの見て
いる通りのもので、本物のきれいな宝石で、これは本物の私です。でも、私がこれだけ云っても自
分の眼を信用せず、もう一度酔いを醒まして見たいとお思いになるのだったら、この酔いざましを
お飲みになればいいのです」
 砂男は笑って、赤い液体のはいったフラスコの様な形の瓶をつまみ上げて振って見せた。
 それは芝居気たっぶりな大演説の幕切れだった。私は手をパチパチ叩くと怒鳴りだした。
「まあ、それはそうとしとくさ、これはガラスの欠片じゃない、たしかに綺麗な宝石さ。そして君
自身は、今も今後もずっとそんなに美しいのに違いないさ」
「あなたは立派な人だ!」
 砂男はたちまち踊り上ると愉快そうに叫んだ。
「俺も、もうすぐほんとの人間になるぞ!」
 酒は、体中を廻って、私はかなりふらついていた。いつのまにか、砂男はカウンターの上に飛び
上ると、妙にギクシャクした体つきで踊っている。それを見ていると、くすぐったさがこみ上げて
来て、私は笑いを止めることが出来ない。げらげら笑っている内、私はふとガランとした途方もな
く広い洞窟の中に、ぽつんと放りこまれた様な気持になって……それから後は、どうなったか分ら
なくなってしまったのだった。