物体(1)

 激しい西日である。
 眼に映ろものはすべて――うねうねとつながる岡の起伏も、ゆっくりと汽車が行く遠くの白い橋
も、木立の間、見え隠れ点在する藁葺屋根、波うつ麦の重い穂先までが――今は一様にあかあかと
した色どりの中に燃えているその輝き、その眩い残照を全身にうけ、もの憂く囚われた心の中から
見入りつつ、あたかも化石してしまった人問のように坐っているうちに、意識は、今夢から醒めた
もののように過ぎ去った遠い揺藍の世界を探り求めようとする。
 いましも爛れるように赤い夕陽が落ちようとする西の一角は、それまでは一番親しかった友達と
決定的な諍いをした日、それから四年程後の母の死の日に見た空と同じように限りなく遠くまで澄
み渡っている。十年という年月が私の心に息苦しい過去の重みを加えたとはいえ、同じ場所から同
じ夕陽を眺めていると、今は過去と少しも隔たってはいないという思いばかりが強まってくるのだ。
 果てもなく拡がった空の琉璃に、きれぎれに散らばった雲々は、夕陽が移るにつれ、一様な鈍い
暗色の中に沈んでいくが、巨人的な闘争を思わせる形は、そのまま凝固して動かない。
 私は眼を落して、落日の方向へ走っている道の上を眺めた。――ちょうどこの時間、母は一人夕
風に吹かれながらゆっくりと確信ある足どりであの道を歩いてきた。――
 それは、夕食の時まで林の中で遊んでいる私を迎えるための何と優しい心労だろうか。気ままに
寝ころんで空を眺めていたり、草むらの虫のつややかな動きを追って一日を費やした私の傍に思い
がけず立っていて、静かにほほえんでくれた母。−その母も今は亡い。
 私は樹の枝に腰をおろしたまま、母の記憶を追っていた。するといつのまにか、それが一人の妖
精の面影に重なっていた。ひたむきに澄んだ眼、白い音楽的な指。私はもっとはっきりと妖精を思
いだそうとした。移り変る光のようなしぐさ、花びらのような唇からこぼれる可憐な言葉。……不
思議な事に、何度も逢っているくせにその容姿をはっきりと心に浮べることができない。妖精が軽
やかな笑い声を立ててあたりを飛び廻り、やたらとその精気で胸苦しくさせる間、私はじりじりし
ながらその耳の形とか眼の色とかを考え、そのあげくあきらめてしまう。
 私は幹にもたれ眼を閉じる。冷えた幹の間から時が走り出で私の肉体を通過していく。私は夢み、
夢はその中で別な夢を孕み、波紋をえがき無限に拡がっていく。
 突然、父の声が響いた。
「進学はあきらめなさい。学問はお前にとって無駄だ」
「そんなことはない。是非大学へ行かせて下さい。僕はもっと勉強したい」
「馬鹿な。ノイローゼになるのが関の山だ」
 或るけだるい夏の午後、私の精神はその働きを停止した。闇の中で虚しい手探りを繰り返し、自
分の存在の事実を確めようと、ついに自らをも溶かしてしまった虚無のたこ。ほこりっぽく乾いた
学校からの道をたどりながら、私はふと空虚の精神は、外界とは何のかかわりもないことに気付く
のだ。道端の石ころがただの石ころに見える虚しさは、ひそかな恐怖でさえある。
 歩いてくる者の影さえ見えぬ細い乾いた道は、今白紫色の鋭い光の帯のよう、薄闇の中に浮かび
上り、その両側に限りなく拡がった麦畑の細葉が、黄色い空の反映をうけてひらひらと翻る。いつ
か夕風が渡っている。太陽はもう向う側にかくれた。
 急に肌が冷えてくるのを感じ、木の枝から降りようとした時、私は或る声が私を呼んでいるのを
聞いた。木の枝に手をかけたまま私は耳を澄ました。すると、こんどは遠くの方で、「おおい」と
呼ぶ声がはっきり聞えてくる。
 私は道の先の方へと眼をこらした。見ていると、小さな黒い影が岡の上に現れる。
 「一体、誰だろう。こっちへ来るのは」と呟いた。
 薄闇に暮れかかる道の上を走ってくる者は、子供程の背丈だが、頭だけが並はずれて大きく、何
やらびろびろと奇妙な衣を身にまといつけている。見たこともない少年だ。
 もうその時、林の中はすっかり暗くなっていたが、少年は私の登っている木の下に走り寄ると、

突然問いかけた。
 「おまえ、星男だな」
 闇をすかして見ると、きらきら光る葉越しに仮面のように白茶けて硬ばった顔が見える。異様に
赤く引き締った唇は弓の様にそり返り、かさかさに乾いたまま横にねじれた様に曲っていろ鼻の両
脇から、張りついたような黒い眼が私を見ている。
 木枯しの吹き荒ぶ野に永いこと狂い、はやただ一つの感動も失せた、乾ききったその眼。言い知
れぬ恐怖が私を包みこむ。
「おい、おまえは星男だな」
 少年はもう一度念を押すように繰り返す。それは、自分勝手な意志を無神経に押しつけてくる特
別な感じである。
「そうだが」
 私は用心深く答えた。
「どうして木の上に登っている」
「どうして?……何故?」
「つまらない感傷に溺れていたんだろう。どうせ大した奴じゃない」
「気やすくいうな、君は誰だ」
 少年がびらびら手を振った。
「おれは砂男さ」
[すなお?]
 私はしばらくぼんやりとそのひらひらする白い手を見詰めていた。すると思わず吹きだしてしま
った。
 それは、私がつい先月拵えた指人形の紙の手である。まぎれもない黄色いボロ布を僧服か何かの
ように着せてやった、あの滑稽な人形!
「すなお、だって!」
 あまりのことに私はとめどもなく笑いつづけた。
「なにがおかしい!」
 トゲトゲした声がはね返った。
「だっておかしいからさ」
 しかし、笑いながらも私は、自分がすでに過去とは無縁に、いつのまにか予想もしない未来への
道へ足を踏み出しているのに気付いていた。
「おい砂男といったな」
 私は笑いをこらえてさえぎる。
「僕は君をよく知っているよ。それも君が知っている以上に、いいか、君は、ほら、僕が拵えた人
形じゃないか。どうしてここへきたか知らないが、人形はつくり物らしくおとなしくしていたがい
い。そういう風にみんな思っているのだから、だいいち、人形が歩きまわったり、喋ったりするの
は自然の法則違反だよ」
「そんなことはどうでもいい!」
 おめき声が上って来た。
「俺は、おまえを見ていると、何かこうむずむずしてくるんだ。おまえが俺をこんなにこしらえた。
そのことを考えると俺はたまらない。おまえは楽しんでいるかも知れないが、俺はどの位そのこと
で屈辱感を味わったか知れない。じっさい、おまえが物をあつかっているやり方を見ていると、ひ
とりでに腹が立ってくるんだ」
「お前の考え方はおかしいよ」
 私は、なだめる必要を感じながらも続けた。
「どだい、君を含めて物はそうした考えをもたぬ筈だよ。物質が生きるのは、それを利用する人間が
あってこそじゃないか。‘人間の意志と精神が働いてこそ物の中の性質が立派に発揮される。それ以
外の物の性質なんて、在ったとしても、人間が知りたくなければ意味がまるでないし、まして、物の
本質なんてあるのかないのか。とにかく、石ころや宇宙だけで自分の存在を証明するなんて考えるだ
けでも頭がおかしくなってくる」
「ちきしょう。ではおまえは、物がそれ自体生命を持っていることを信じないのだな。おまえが作
 った人形と思いこんで、外形はともあれ、物そのものである俺が実際には居ないとでも思っている
 のか」
「いないとは思っていないさ。しかし、物はそんな風に自分で歩いたり、喋ったり、自主的な行動
をとるわけがない」
「では俺を幻と思っているんだな」
「あるいは」
「馬鹿だな、おまえは」
 何を思ったのか、人形は急にケラケラ笑いだした。
「馬鹿だよ、お前なんか、自分の罠にかかっているじゃないか。じゃあこっちから聞くが、どうし
て物の性質を、みきわめ、物を利用するほど頭のいい人間が、実際に在りもしない幻を見たりする
のかな。……それに、さっきの……そうだ、やっと分ったぞ、俺がお前を見るとむかむかするわけ
が、……感傷、そうだ、いつもそうだ。おまえは人間として何の役にも立たないことを考えては閑
をつぶしているのだ。まったく、ごくつぶしさ。だから、おまえは進学にも……なにをする、なに
をする、降りて来い!」
 私がその時小枝を投げたので、人形は、今にも飛び出しそうな眼で睨むと、蛙のように飛び跳ねて
私の足を掴もうとした。
 「とどくものか、来たければここまで登ってこい」
 私は面白がって小枝を次々と投げた。人形は木の周りを走りながら、□から泡を吹いて、わけの
わからないことを叫んでいる。
 が、突然動かなくなってしまった。上から見ると、墨で塗った頭が幹にもたれている。木の実を
 一つ、その上に落すと、澄んだ音は高々と林中に鳴り渡った。
 少々、気になった私は、木から滑り下りると死んだようにびくりともしない人形にさうろうとし
た。と、眼の前で黄いろい布が翻ったとたん、私は草の上に倒れてしまった。あっけにとられたま
ま転かっている私の顔の上で、砂男は息を切らし、歯をむきだして笑っている。
「これを見ろ」
 と差し出した本はすでに散々引裂かれた『ベルグソンの直観哲学』。その一枚をとって読みだし
た。
 「誠や、既存概念を使って、固定から運動へと進む表徴的認識は、相対的認識である。然し流動の
中にはいって、物そのものの生命と一つになった直観は、決して相対に止まるものではない。この直
観こそ正しく絶対に到達するのである」
 はっと我にかえり、手を伸ばして掴もうとすると、それをするりと抜けた人形は、すごい速力で
林の外へ逃げだしていく。その後から、
 「憶えておけ、あした、お前なんかバラバラに壊してしまうからな!」
 と怒鳴ると、人形は遠くから唄うようなふざけた調子で云い返すのだ。
 「髪子を殺してやるぞ、白い胸の真中にぐさりと鋏を立ててやる!」
 人形の笑い声は、鋭くそこら一帯にこだまして、暗闇の中で途方もなく大きく聞えた。すると私
の耳の中でも、ざわざわと耳鳴りのように「殺すぞ」とか「死ぬぞ」とか云う反響が繰り返すので
ある。
 いつか、月が高く昇っていた。しかし、私は草に寝そべったまま、砂男のことを考えていた。
(一体、どうして人形が髪子の事を知っているのか。それからして奇妙だ。それに、髪子を殺す?
冗談じみた言葉だったが、あれに何か別な意味があるのではなかろうか)
 思えば、私か知合いの人形師の所へ飾り人形の代金を納めに行った時のことだ。私はそこでさま
ざまの人形を見せてもらった。とりわけ、人形師は指人形を実際に動かして見せてくれたが、その
動く手や首の表現と、動かない眼や唇の表情の間の一種の不均衡から来るぎこちなさ、非現実の不
思議な感じが、何故か強く心をとらえた。うす暗い工房の中で私は他の人形も見て廻った。足で立
っている者、釘にかけられてぶら下がっている者、胴体のない首だけの者、かびの匂いのする冷えた
空気の中で、それら人形が皆奇妙に押し黙ったまま、もの思かしげな眼で、前に居るる何者かを見詰
めている有様は、私にこの世のものではない異質の世界への入口を示しているかのようであった。
 「人形というのは悲しいものさ」
 その時、立ち去れないでいる私の後から、人形師が囁いた。
 振り向くと、意外に陽気な人形師の顔があった。
 「まあ、気になるなら、自分でも一つ拵えて見るんだね」
 私か立ち去る時、人形師は材料を少しだけ呉れたので、私は家で丹念に作りはじめた。
 しかし、初めて自分の手で作ったものを前に、私はすっかり当惑してしまった。
 めっぽう広い額から下へ仲びた鼻は鸞曲しつつ恐ろしい程に高まり、その先の方は乾きすぎて横
にねじ曲っているし、鼻の両脇、頬のところは斧で切ったようにそげて顎まで落ちているが、その
顎ときては、ないも同然で、鼻から下は急に落ちこんだように極端に細い首にくっついていた。
 また全体の顔の色は、茶色を塗った上に白を塗り重ねたので、汚れた斑らになっており、唇は赤 
すぎたがまあまあとして、青い眉は何とも云えずお互いに飛びはなれてしまったので、額の部分が 
妙に抜けて見えた。最後に、眼は額の下の窪んだところを、簡単に黒く塗り潰しただけで済ませた
のだが、張りついたように円味のない眼が殊更気味悪く思えるのだ。
 さて、この首に黄色い布を巻きつけ、厚紙を切った小さな手も取りつけたが、どうもこれでは不
細工だし、またもう一度作りなおさればなるまいと思って、そのまま布切れや鋏と一緒に箱の中に
放りこんで置いた。
 一体、そのあわれな人形が、この一と月のうちに箱の中から飛びだして、気ちがいのようにあっ
ちこっち歩き廻り、つまらないことを喋っているのはどうしたわけだろう。つくりものの人形にも
いつかは魂のようなものが具わってしまうのだろうか。それとも何者とも知れない理解しがたい無
気味な力が何処からかあの人形をあやつっているのだろうか。それは、いつも林の奥や、草の陰に
計りがたくじっとひそんでいる異質の精神や意識であり、真黒い蜘蛛のように華やかな生命を憎悪
し、機会あるごとに飛びかかり、その動きを奪いつづけ、いつかはその白い死の棺の中にすべての
生命を閉じこめてしまうのではなかろうか。
 悪感に襲われたように何故か全身の力が抜け落ちていく感じが不安だった。岡の上の小さな星が
今にも落ちそうに点っている。
「髪子よ……」
 私は祈るように囁いてみる。そして、(ああ、何故だろうか、あの顔を隠した妖精が何故こんな
に俺の心を惹きつけるのか。もし、隠れたすべてが分ってしまったら、女一人のためにこうまで気
を狂わせることもあるまいに)
 と心に考えた。
 すると、急に息苦しい思いが胸に拡がって来た。昨日、訪問した時の髪子の父の様子を思いだし
たのだ。――父親はあの時、ずっと私から眼をそらしていた。
(なにかある)
 私は今日一日それを思い続けた。
 (あんな風だと髪子の家へも行けない)
 私はそれも思い続けた。
 (まさか髪子の気持が変りはすまい、しかし……)
 私は髪子の父親のことを思い、また、ひるがえって砂男のことを思った。
 父親は私か大学に行かなくても、良い就職をすれば私を見直すだろう。しかし砂男は……砂男は
確かに私の拵えた人形だろうか。もしそうだとしても今はまるで違う。いつのまにか人形が化物的
な要素を取入れてしまった。
 私の頭に、中が空になった人形の箱がありありと映った。砂男は単純ではない。
(一度ゆっくり話し合わねば……)
 突然、前方の暗い茂みがガサガサと揺れると、そこから白いネマキ姿の女の子がふらりと現れた。
「髪子!」
 私がなかば疑いながらも近寄ると、髪子は何故か私に気づかない様子で、そのまま通り過ぎて行 
こうとする。慌てて引戻そうと把えた私の手の中で小さい手がびくりと震えた。髪子は振り向いて 
私にぼんやりした眼をとめた。雲が懸ったように光のない眼である。
「髪子! 僕だよ」
 私が手を強く振って、しきりとこの得体の分らない状態から呼び醒そうとすると、そのうちやっ
と気づいたのか、
「あ、星男」
 というが、その声には何としても気力がないように思えるのだ。
 髪子はしきりと口を動かそうとして、あ、あ、と繰り返すが、ふと、私の胸に顔を埋めると、
「こわい」
 と震え声でいう。
 私は思わず周囲を見廻した。
 林の中は無気味に静まり返ってカサとも音を立てない。高い松の梢が、静かに首を振りながら私
達を見下ろしている。
「一体……さ、しっかりして、何かあったか話して……」となだめるように云うと、
「ちがうのよ、なんともない、ただ……」
 不意に泣きじゃくると、同じ言葉を何度も繰り返す。
「なんともない? そうか、僕はまた……」
 私はわけが分らぬままに、悪夢にでも魘されたのだろうと考えて肩をさするようにすると、髪子
はふと私の胸から顔を離して、怪訝な表情できいた。
「星男、さっき私を呼んだ?」
「ああ聞いていたのか」と笑うと、髪子はしばらく私の顔を見守っていたが、むこうの潅木が寄り
茂った方を向くと、
「いいえ」と低く答えた、
「変だな」というと、しばらくしてから、いやにペラペラした□調でいった。
「あのね、隣町の砂男ね、あの子が教えたのよ、星男さんが呼んでるって」
「隣町の砂男だって! とんでもない」
 私は髪子の背中に向って怒鳴りたてた。
「あいつには気をつけなくちゃいけないよ、油断ならないから」
 髪子はくるりと振り返った。
「どうして」
 その眼が義眼のような光り方をしている。
「あいつは陰険だ、残忍な性質をもっている」
 髪子は急にけらけら笑いだした。
「まあ! なあぜ、まだ可愛らしい子供じゃないの」
 髪子のバラバラに乱れた髪の毛が前に被さって、乳房のあたりが動いた。
「鋏で君をつき殺すと言ったんだ」
 髪子は私をびっくりしたように見詰めたが、そのまま調子を落した声で呟いた。
「星男、変ねえ」
 暗い茂みの奥でかすかに虫が鳴いた。木の葉が金属のように輝いた。大きな月が昇っている。
「砂男はね、ただの子供じゃない。あいつはね、あいつは人間じゃない。人形の、生命のない物の
化物なんだ」
「星男、そんな、変よ、おかしいわ」
 髪子の声がこんどは離れて聞える。
「そうか、俺は変なのか」
 私は疲れて、ぼんやり呟いた。
「まあ、大きなお月様!」
 背中を見せた髪子が向うの方で高い声で言っている。
「綺麗ねえ、……あら、黄色い蝶が飛んでるわ、月のまわりで……星男、あなたは疲れているのよ。
……もう遅いからお休みなさい」
 髪子の声は次第に遠のいていき、いつか聞えなくなった。静かな林の中で眠っていた夜鳥が夢に
驚いてか一声叫ぶと、黒い影がさっと星空に飛び立っていった。