物体(6)

 私の傍らには、黒々と楼門が聳えたっており、はるか下に、うす白く流れているものがある。ひ
どい霧のためによくは見えないが、それは一筋の河のようである。下の方から吹き上げて来る風が、
何やら生臭い匂いを運んでいる。それとともに、多数の人間のどよめきも聞えて来る。
 眼をこらして、霧の下をすかし見ると、襤褸をまとい手に手に棒切れに似たものを持って、河の
あたりを駈けまわっている人間達がいる。その中に、河の方へ向う一つの集団があり、何か黒い塊
を引きずっている。それはみるからにいやらしい巨大な蜘蛛で、河原の石に突き当る震動で、時々、
その六本の手が力無く広がるのだが、青白く光る液体が流れだし、後ヘ一本の筋をひいている。
 私は、それから眼を放すと、楼門に凭れ掛かった。蜘蛛の死骸が放つ生臭い匂いがここまで漂っ
てくるので、眼を閉じて、苦しい息をついていると、またしてもあのどよめきが上って来る。
 上を見ると、そこに星空はなくて、ただ黒い天井が一面に続いており、そこから垂れ下った蜘蛛
の巣が、ふわふわと漂いながら、向うの峰、こちらの峰を走り、その間からいくつもぶら下った、
巨大な蜘蛛の手足を縮めている形が、丁度、鬼の面を見る様だ。
 その時、ばたばたと坂の上から駆け下って来る足音が聞えた。黒い人影が現れ、私の方へ走って
来たが、私に眼をとめると、
「おや、新入りか]
 と呟いて、そのまま駈け抜けていく。思わず見送ると、その男は、坂の中途で立ち止まって、振
り返った。
 「おい、君、手が空いていたら手伝わないか」
 明るい声である。
「何をかね」
 私は、彼の様子に何となく惹かれるものを感じたので、男に追いつきながら云った。
「蜘蛛退治かい」
「蜘蛛退治? ヘッ」
 男は軽蔑したように叫ぶと、立ち止って、下を指さした。
「あいつらは結局反動さ!」
 肩をすくめて、また走り出した。私もその後に続いた。
「おい、上の世界はどうだい」
 彼は息を切らしながら叫んだ。
「馬鹿々々しい所さ、働いている奴等、埃で見えなくなって、人形の天下さ!」
「人形!」
 彼は痛快そうに笑った。
「おい、アナキズム万歳だな」
 彼はそう云うと、私の手をギュツと握りしめた。
 私達はひた走りに走り、低い山の麓にぽっかりと口を開いている洞窟の前に着いた。
「おい、みんな、いいか」
 男は洞窟の奥へ向って叫んだ。
「おお」
 応える声がして、眼をギラギラ輝かした逞しい群衆がぞろぞろと出て来た。みんな手にナイフと
棍棒を下げている。
「俺は、ダイナマイトを植えつけて来た。あの山のテッペンだ」
 男は今、下りて来た山の方を指さした。
「これから、一時間後に爆破が始まる。これから、一時間後に、天井に穴があく。このおっ被さっ
た天井に」
 彼は大きく喘いだ。
「これから先は、行動あるのみだ」
 やがて、群衆は動きだした。
「やれよ!」
 男は、その行進する一団の後から、呼びかけた。男達の中で手を振ったものもいたが、その多く
は黙々と歩きつづけた。
「お前もやれよ!」
 誰かが云った。
 男はしばらく、その遠ざかっていく一群を食いいる様にみつめていたが、やがて、さも疲れたよ
うに、その場にゴロリと横たわった。私も横になった。
 私達の寝ころがっている上方には、蜘蛛の巣が雲のようにふわふわゆれている。男は気持良さそ
うに眼を細めていたが、やがてそのままの姿勢で私に聞いた。
 「今、何を考えている」
 しばらく考えて、私は答えた。
「愛」
「愛か!」
 男は大きく息をついて、眼をつぶっていたが、それについては何も云わなかった。
「君は?」
 と尋ねると、
「自分が生きることさ、高くて青い空を見て暮すことさ」
 とすぐ答えた。
 私達はしばらく黙りこんだ。またひとしきり、地獄の叫びにも似た、例のどよめきが伝わって来
た。
 男は、ポケットをまさぐると、眉をひそめて立ち上った。私も立ち上ると、
「これを」といって掌に押しつけたものを見ると拳銃である。
「僕はもう一つのがある」と彼は自分のものを示した。
「気をつけて、時間だ」
 男は低くそう云うと、山の方へ向って駈けだした。私もその後を追った。
 山の頂上で赤い閃光が輝いた。黄色い亀裂が、山の頂点から四方の黒い天井に伸び、見る間に傾
いた天井が崩れ落ちて来た。なだれる砂煙が私のまわりに渦まき、そして再び、あのシュウシュウ
という鋭い叫び声が私の頭上で聞えた。見上げると、大きく開いた上方から舞い落ちて来た数百数
千の、青い上っぱりの人形達が、あわてふためき、鳥のように、宙を走り頭上に散らばっている。
 私は、山の頂上へ駈けのぼっていき、そこから壊れた天井を足がかりにして、上へよじ登ってい
つた。後から、ぼろをまとった一人の男が旗を振りたてて、私を追い抜いていった。彼は興奮して
独言とも歌ともつかない文句を叫んでいた。

愛と幸福の契約により
悪夢の時がやって来た
貪婪な咽喉へと
人々はなだれこむ
もう笑うまい
どの道
真実などありはせぬ
胃袋に住まう裏切者よ
失なってしまった君のみか
あれに歯むかう俺さえも
すでに俺のものではない
からみ合い
激しくきしむ
歯車の夢よ!

 一面に立ちこめる砂煙をくぐり抜けて進んでいくと、耳元を弾が唸り過ぎた。打ち倒れるものの
悲鳴がそこここで聞え、どよめきが八方の埃の中から巻き上っている。私の眼の前を、黒い人影が
何度も走り過ぎ、動物的にゆがんだ顔が、不意に私の前に現れては消えた。土砂にまみれ、一塊と
なって転がっている敵と味方、ぼろきれのように、土砂に半分埋まったまま息絶えている者、そし
て、うっすらとした、工場の輪郭が行手に見えていた。工場に走りよると、私はその回りをぐるぐ
る廻った。入口が見付からなかった。入口のない工場の中で労働歌が唱われ、人々の壁を叩く物音
がしていた。私はその建物を迂回すると、円蓋の方へ向って走っていった。
(こんどこそ、砂男と話し合わなければならない。ゆっくり時間をかけて、納得のいくまでお互い
の立場を理解し合うのだ)
 円蓋の下では、群衆がそれを取り囲むようにして口々に騒ぎたてていた。円蓋の天窓越しに、赤
い服がちらちら動くのが見えており、開いた天窓から首を出して外を眺めている者もいる。
 何とか、あそこまで行く方法はないものだろうかと、あたりを見廻した私の眼に、思いがけず妙
なものが映った。向うの方から、大きな赤い気球が近づいて来るのだ。何の変哲もない上空観測用
のもので、あたり一面の砂埃の渦の上に抜きん出て、いかにも奇抜な感じでポッカリと漂っている。
埃の渦のために、その気球をひきとめる綱を掴んでいる者が誰か最初は分らなかったが、近寄って
来たのを見ると、それはまぎれもない。埃にまみれ、随分とやつれてはいるが、私の妖精髪子であ
る。髪子は白い歯を見せて笑うと、
「星男、その後、元気!」
 と、手を振って快活に叫んだ。
 一方、私の方はといえば、こんな所で出合った髪子がひどく眩しくて、
「髪子!」
 と、一声、後は唖然と見守るばかりだが、髪子はあっさりと、
「あたし、あなたを手伝いに来たの」
 というと、ぐいぐい私を引っぱって円蓋の方へ連れていく。
「また、どうして」
 としきりに訊く私に向い、
「私、砂男の家を飛びだして来たのよ」
 と笑いながらいうと、そこはもう円蓋の真下である。
 髪子は、気球を下に引っ張り下ろすと、そこにつけてある重りの結び目をほどきながら、口早に
私の耳に囁いた。
「私、随分、砂男に悩まされたから、今、すごく目方が軽いの。この重りを取れば、私の体は宙に
浮んであの円蓋の窓まで飛んでいくわ。さあ星男! この綱の端っこをしっかり掴んでいるのよ!」
 みるみる髪子の体は浮き上り、建物にそって滑って行った。赤いタイツの髪子が、青い空中で魚
のように一跳び躍ると、もうその姿は円蓋の向うにかくれて見えなくなり、代りに綱を二、三度引
く合図が私の掌に伝わって来た。
「おおい」
 と呼ぶ髪子の声が空から聞える。
 綱を伝わって、登っていくと、髪子は円蓋の上に立っていて、にこにこ笑いながら、すぐ傍のも
のを指さした。
 妙な恰好の砂男だった。今、私がそれに伝わって登って来た綱の元に、円蓋からつき出た砂男の
首がギリギリと締めつけられて、当惑げに眼をしばたいていた。
 私は、円蓋の傾斜に立ち上ると、下の群衆に向って叫んだ。
「おーい、登って来いよ」
 ふとその時、円蓋から伸びている灰色の工場の一つの屋根を、這い伝わっている一人の男が、眼
についた。地下で会ったあの指導者らしい男が、私の声に振り向くと、立ち上って、手を打ち消す
ように大きく振りながら、何か叫んだ。
 すると、突然、底強い爆音がしたと思うと、私の立っている円蓋を取り巻いて、その下から激し
く火花が飛び散った。思わず円蓋に身を伏せると、円蓋は一度、びくりと震えただけで、後は何事
も起らなかったが、下の屋根の方に眼を移すと、おやと思った。屋根の上に立ち上った男が両手を
広げ、酔っ払った様に後へ倒れ、そのまま、滑りだしたと思うと、アッと叫ぶ間もなく、転がり落
ちていったが、同時に、私は彼の転落を結果したその灰色の屋根の異常な動きを見て、思わず息を
呑んだのだ。
 ごく緩慢な動き方ではあったが、すぐ眼の下に見えるそれは、まるで生命体の臓器の一部を見る
ように、ゆっくりとした速度で縮みながら、次第に強くくくれ、その形を変えようとしていたし、
またその向う側の棟は、ぴくぴくとまるで痙攣でも起したように、小きざみに震えながら、徐々に
上へ上へと盛り上ってくるさまは、やはり生体の筋肉の一部のようなものを想起させずにはおかな
いのだ。
 ふと――その時、私は背後に、しのびやかな乾いた笑い声を間いて振り向いた。砂男である。太
陽の光の方向へキラキラ輝く小さな鋏をかざし、まるでそれを透し見てでもいるように、うっとり
とした片頬に笑みを浮べて立ち上っている人形。その首にはもう綱が掛っていなかった。
「ふふ」
 と、人形は笑った。
 ハッと私は息をつめた。
 髪子がその足元に倒れている。
「なにをする!砂男」
 私は人形を突き飛ばすと髪子を抱き上げた。
「ああ……星男」
 髪子は呻いて眼を開けた。その胸元は真赤な血で濡れていた。
「どうした! 髪子、砂男が……」
 私は、眼で人形を探したが、その姿はもう円蓋の上にはなかった。
「いいのよ、星男」
 髪子は再び眼を見開き、微笑した。
「砂男は、或る運動の系に過ぎないのよ。私ね、強いものに頼りたがったために、系にしか過ぎな
い砂男が、強者そのものであるような錯覚を起したんだわ。それは、最初から砂男はああでなかっ
だけれど、やっぱり、組織の中に組みこまれる程、砂男は独立心のない、軽はずみな、弱虫の威張
り屋だったのね。ねえ、星男には分っていたのね」
「いや、そのころはただ僕は髪子を、……僕等はいい友達だったね」
「今でも?」
「うん、もちろん」
「星男、私を強く抱いて!」
「……ねえ、人形も私を好きになるのかしら?」
「え?」
「皮肉ね……私は夫に殺されたんだわ」
 髪子の眼は大きく開かれ、唇がかすかに震えた。
「つくづく、愛想が尽きたわ、一にも二にも組織なのよ。私は、人間と結婚したつもりなのに。あ
あ遺瀬ない。私も自由が欲しいわ、そのために破滅してもいいから、もっともっと笑えるだけ笑い、
泣けるだけ泣きたい。……星男、あなたの苦しみは、分らないけど、あなたは、どこまでも地味で
真面目で、それでいて悲愴な感じがするのね。何か、自分でも手に負えない大きな物と向い合って
いる感じ。……いったいそれは何なの?………」
 髪子の眼は、次第にガラスのようにすき透り、やがて、いずれはすべての物質を包みこむ、あの
穏やかな流動の中へ、没入していった。
 不思議にも涙はこぼれなかった。
 その代り、私の心の中に、それまで漠としていた一つの思考がはっきりと形をなして浮んだ。
(髪子は勝った……系から逃れようとして、砂男に抹殺された髪子は、かえって砂男や私を飛び越
え、全く別なもっとすぐれた系に組みこまれることにより勝ったのだ。……髪子よ、お前はこれま
でになくお前そのままだ)
 一瞬、引吊るような哄笑が私の頭を支配した。
(汚れない妖精よ、おまえへの道、そして又、物本然の王国へ至る私自身への道は、この先、どん
な道だろうか)
 狂暴な衝動が、ひき返すことの出来ない情感とともに私の内部を貫いた。私は、円蓋の天窓を片
っぱしから叩き破ると、その中へ銃弾を打ちこんだ。……
 不意に眩暈が私を襲った。私は円蓋の上に打ち倒され、瞬間、私の背後には紺碧の空が燃えた。
私は、両手で天窓の縁にかじりついた姿のまま、下を見下ろしたが、もはやそこには何も見えず、
ただ渦まく埃の中に、崩れ落ちる白い土砂の崖が円蓋を取巻いて動きまわっているだけだった。
 私は、不意に振り飛ばされた。何か狂暴な力によって。

 なだれ落ちる砂塵を透して、私の見たものは、はや、一頭の巨大な獣の形をとった工場の姿だっ
た。横なぐりに倒れる壁の胴体、うねり上る塀の尾、鉄板をゆるがすような叫びに続いて、ゆらゆ
らと空高く立ち上った円蓋は、見も知らぬ巨獣の、静かに、硬い顔面だった。(完)