鷲の城(下)

 眼が覚めると爽快な気分だった。あらためて昨夜のことを思いだして窓を見たが、そこには清ら
かな朝日が射しこんでいるばかりで、なめくじたちは影も形もなかった。すぐ外に「希望ホテル」
と書かれた四角な塔が立っていたが、そのテッペンには小さな蛇が日なたぼっこでもしているのか、
口をぱくぱくさせているだけだった。
 僕は飛び起きて洋服を着ると、急いで鏡の前に立ち、髪を撫で付けた。老人の話だと面接が今朝
九時から行われる筈だった。そこでどんなことを聞かれるかは分らない。ただ、どんなことをして
でも街の居住権だけはもらわないことには、いけないことは確かだった。
 下へ下りていくと、食堂では私のような連中があっちこっちに四、五人づつ固まって賑やかに談
笑していた。かっぽう着を着た従業員のおばさんが仕切りの向うから顔をだして叫んだ。
「皆さん、セルフサービスですよ」
 仕切りの向うからどんどん出される盆を、自分でテーブルに運ぶと、味噌汁と生卵と海苔だけの
簡単な食事だが、みんな黙って食べている。僕も残さず食べた。済んだ人達はぞろぞろ出口の方へ
向って歩いて行く。やがて僕もその流れに加わった。食堂を出て前の坂をまっすぐ登っていくと、
そこには大型バスが停まっていた。僕等はせかせかとバスに乗った。そしてバスはゆれる急カーブ
の坂道を幾度も曲りながら、木漏れ日の中を下っていった。
 ものの一時間も経っただろうか、車内で流れる蜂の羽音のような音楽と、バスの震動でいい加減
眠くなっていた僕だったが、どうやら着いたらしい。バスが止ったのでみんなの後から下りていく
と、そこは広場になっていて、白い円錐筒状の途方もなく大きい建物が眼の前に聳えていた。
 突然拡声器が叫んだ。
「集合して下さい。集合して下さい」
 人員の点呼が始まった。
「中里さん、中里さん」
 僕の名が呼ばれ、「はあい」と返事をして前に出ていった。
 暗い入口に看護婦のような恰好をした女の人が立っていて、僕に向って手招きをした。僕は頭を 
ぴょこりと下げると、女の人の傍を通って中へ入っていった。入口から長くて暗い廊下が続いてお 
り、僕より先にはいった人達が長い列をつくっていた。前の方はかなり待たされている様子で、時
々軽いあくびや、ぶつぶついう会話がかわされていた。両側の暗い壁が光るのでよく見ると、古め
かしい油性の肖像画が奥までずっと並んでいる。恐らく長い年月の間ここにこうして掛っているの
だろう。まだ冷たい光は失せていないがかなりひからびている。列が進むにつれ、僕はその一つ一
つを仔細に調べ、人物の表情から何かを読み取ろうとした。だが、そのどれも、僕には未知な思想
と感情にひたりこんでいるようだった。
「つきあたりの部屋ですから」
 後ろで声が聞えた。いつのまにか僕の順番になっていた。ドアの取手を引いて中にはいると、四
人の男が、一つの広いテーブルの向うに腰を下ろしたまま僕を注視していた。窓際の男達の顔は暗
くて分らなかったが、みんな黄色のゆったりした洋服を着ている。
「中里さんですね」
 入口に近い男が僕の坐るべき椅子を指し示した。僕は椅子に坐り、相手の次の言葉を待った。
「あなたは、通報によると昨日この地区に来られたということですが、ほんとうですか」
 左側の男が声をかけた。
「そうです。まちがいありません」
「ここに来られる前の職業は」
「デパートの会計係でした」
「独身だということですが」
「結婚はまだしておりません」
「三十三で独身だということは、何か特別な理由でも」
「別にありません。機会に恵まれないだけのことです」
 右側の男が尋ねた。
「あなたの趣味についてお聞きしたいのですが、どんなことに興味をおもちですか」
「音楽は好きです。それから詩を時々書いたりします」
「ほうそうするとあなたは詩人ですか」
詩人というわけではありませんが、他に好んですることがないものですから」
「音楽はどんなものをお好きですか」
ドボルザークです」
 右側の男は紙に「ドボルザーク」と記入した。
「詩を書かれるといわれたが」
 さっきから黙って僕の顔を眺めているだけだった正面の男が口を開いた。
「言葉の力についてはどうお考えですかな、例えば、旧約の神光あれと云いたまいければ光ありき、
 また日本の言霊など、神の発した予告詞章はそのまま実現したということで、言葉そのものに 
一種の魔力が宿っていると信じられていますが、私は今でも言葉は物事を変えたり、あり得ないも
のを実現したりする力を持っていると考えています。あなたはその点についてはどんなにお考えで
すか」
「それについては僕も同感です。実際、自然は人を模倣するといいますか、現実に生きていて、そ
の人生が言葉によって左右されるのは恐ろしい程です。僕達は他人の言葉によって一喜一憂する一
方、他人を暗示にかけてたやすく白を黒といいくるめることさえします。だから、僕はそんな言葉
の魔力が恐ろしくて、再々言葉が勝手に独走するのを警戒して、むしろ一度はそれを抹殺し、自分
を透明なものにしたあとで、生の本源の事実に耳を傾けようとします。僕が詩を創る時は必ずこの
方法で創るんです」
「なるほど、それでは、あなたはポエットリ、日本語でいう詩魂にあたるものを生命そのものに求
めているわけですな」
「そういうことになります。その点では僕はあなた方と異るかも知れません。あなた方は言葉その
ものに霊力をみいだそうとしているのですから」
「でもやはりあなたは詩をかくとき言葉の力によってしか自分を表現できない筈ですよ」
「そうは思いません。僕は実の所言葉というものをあまり信用していないのですよ。それは、一つ
一つの言葉にはそれ相応の効用はありますよ。しかしそれはその使われる場所によって一定してい
ません。言葉そのものの与える観念は、存在の現象面に即応しただけの分量であって、何も本質を
ついていません。大切なのはその言葉と言葉をつないでいる存在の流れです」
「分りませんな私には、あなたのおっしゃっていることが、あなたは存在の流れといいますが、そ
れは眼に見えるものでしょうか。また手で触れ、感覚で確かめることのできるものですか。さっき
あなたは人生は言葉によって左右されるものだといわれた。それ以外の人生、存在の仕方などある
んでしょうかね。例えば、私が誰かに向って、ユダヤは敵だといいます、するとその人は私の言葉
に打たれ憎悪にみちて駈けだしていきます。あなたはその人の存在が真ではないというのですか。
私にいわせれば、その人は私の言葉によってはじめて自分を具体的に実現したということで、それ
まではまるで何でもない石ころに等しいと思うのですが」
「そうですか、私にとってはその石ころこそ、何ものにも代えがたいものに思えるのですがね」
「一つあなたが忘れていることがありますよ。それは、あなたが何者にも代えがたいという存在を
表現するためにも、言葉が、言葉の魔力が必要だということです。私はあなたのいう『存在』はあ
なたの一つの夢に過ぎないという見方をしますね。あなたの現実への不適応性、それが……」
 僕は、面接官に反駁しようとしながら、ふと、彼の背後の窓に眼をやって、あっと叫びそうに
なった。そこにはぴったりと窓にかじりついて覗くように背伸びしている「蛙」が見えたのだった。
 僕は急に早口に喋りはじめた。
「僕は冊子を見たんですよ。そうだ、すっかり忘れてしまって、あの表紙には鷲の他に蛙とか蛇と
かなめくじが印刷されてありましたが、あれは一体どういう意味なんてすか」
「え、なめくじや蛇? それはどんなことですか、あなたのいうのはこの本のことでしょう」
 正面の面接官はそういうと、一冊の本を僕の眼の前に投げだした。みると、「戦旗」と題字だけ
が印刷された表紙は、あとはただまっしろで何の絵柄もなくなっている。
「……でも見て下さい。あそこに、表紙そっくりの蛙がいますよ」
「どこに居るんです。何もいないじゃないか」
 四人の面接官は振り返っていっせいにくすくす笑いだした。
「なにを笑うんです。現にあそこに、あの窓の向うにいるじゃありませんか」
 急に四人の面接官は黙りこむと、奇妙ないきものでも眺めるように僕を眺めはじめた。僕は彼等
を睨みつけていたが、じっとりとこめかみが濡れ、まつげがぴくぴく動くのを感じた。
「まあ、いいでしょう。行ってよろしいです」
 正面の男が眼をそらしていった。僕は立ち上って、震える足で出口まで歩いていくと戸を開けた。
すると、どっという笑い声が僕を迎えた。
 僕が開けた扉、それは廊下への出口ではなくてもう一つのかなり広い部屋の人口になっていたの
だった。殆んど転びそうになって部屋に駈けこんだ僕は、結局転んでしまってそのまますべりなが
ら、部屋の真中で突ったったままわいわい騒いでいる群衆の真只中に到着したのだった。
「君はチーズが好きかね」
 一人が、寝そべっている僕の頭の上で尋いた。
「まあね」
 僕は起き上りながらまわりを見廻わし、そこでは誰も僕に注意を払っているものがいないことを
確かめた。僕の傍の巨大な楕円形のテーブルにはビールが林立し、皿に盛ったサラダや果物が輝き、
肉類や焼魚がおいしそうな匂いをたてていた。何やら、宴会の席にまぎれこんだような様子だが、
ここにいる連中ときたら、私の存在など全く気にしていない様子で、いとも無邪気にこの騒がしい
雰囲気を楽しんでいる様子だ。
「全く、君は不幸な奴だよ」
 呂律のまわらなくなった声がして、一人の男が近寄ってくると、手を壁の方に振って云った。
「君は不幸で幸せな奴さ。とにかくどっちかに片がついたわけだからな。あれを見てみな。連中ま
だやってるぜ」
 みると、その壁は半透明のガラスのように向うの部屋の模様をぼんやりと見せており、やはり四
人の面接官は恐ろしい影のように椅子に坐ったまま、眼の前の哀れな子羊を裁いてはこの部屋に送
りこんでいるのだった。
「さあ、呑みたまえ、食いたまえ、果報は寝て待てさ」
 彼は僕の肩を叩くと、部屋の隅までいって、そこにある椅子にどしんと身を沈めて眠ってしまっ
た。
 音楽が急に高くなった。僕はテーブルの方へ歩いていくと、酒をコップに注いではあおった。部
屋の中央では、三人の男が腰をひねり尻を振って狂気のように踊っていた。一人の男が部屋の一方
の側で何やら叫んでいた。僕はその前の集団に近づいていった。
「自分は、どうせ落第組だと思うのでこんな話をするんですが」
 まわりからくすくす笑い声が巻き起った。
「ここの面接官はどうして人間を分類したがるんかね……]
「それは、きっと、奴等がもう分類されてしまっているからだよ」
 一人の男が云ったので、また笑い声が起った。
「オーイ、水割り!」
 さき程の酔いどれの声が遠くでした。
「その時さ、俺は百二十キロで飛ばしていたんだ。それで仕方がないからお巡りにいってやったよ。
助けてくれ、追いかけられているんだ、女房に」
 二人の若者が話しながら僕のうしろを通り過ぎていくところだった。
「オーイ、水割り」
「うるさいな、ここはバーじゃないんだぞ!」
 頭に手拭いを巻いた男が怒鳴った。
「ちょっと、ちょっとどいて下さい。ここらに私の財布落ちていなかったかしら」
「集まれ! 憂国の青年!」
「そこんとこがおかしいですね。そうそう薔薇幾度花というところは、ソービハイクタビカハナサ
キシと読まなくちや」
 もうかなり酔いが廻っているようだった。互いに抱き合いもつれそのまま床に倒れこんでいる人、
人の間を行きながら、存在これこそ存在と呟いているうち、僕は、次第に意識が朦朧となり、その
まますっと力が抜けてしまった。
 ふと、気が付くと僕は長椅子の上に寝かされていた。倒れる時打ったらしい腰の痛みに顔をしか
めて立ち上ると、部屋の中には誰も居ず静まりかえっている。時計を見るともう夜になっていた。
「やっと気が付いたね」
 その声に振り返ると、一人の面接官があくびを噛み殺したように僕を見詰めていた。
「ああ、あなたですか、僕をここに寝かせてくれたのは。それにしてもみんなどこへ行ったのでし
ょうね」
「それだったら、みんな体操していますよ」
「体操?」
「ええ、別な部屋でね、見てみますか」
 男は立ち上った僕の手をとると、部屋の隅に置いてあるのぞき眼鏡の方へ連れていった。
「これでその部屋の模様がよく分る」
 眼を当てると、闇のかなり遠くに雨天体操場が浮び上り、その中で白いトレーニングを着た四、
五十人がいっせいに手足を伸縮させているのが見えた。
「うまい仕掛けだ」
 というと男はスイッチをかちりと廻して元に戻した。
「すると、あれは」
 僕は神経質に訊いた。
「あの人達は合格者なんですね。この街居住の、で、僕はどうなったんです]
「気の毒だが、保留です」                       
「保留というと、どっちにもまだ決っていない……」           
「そう」
 男は簡単に云うと歩きだした。
「まあ、しばらく屋上の塔で待っていて下さい」
 僕は男の後から部屋を出ると、長ったらしい階段を昇っていった。
 男が突然話しかけてきた。
「君、危険なことだとは思わないかね」
「え?」
 僕はわけが分らないまま問い返した。
「いや、さっき君がいっていた『存在』のことだがね」
「存在?」
「そう存在、いわば存在というものは逆立ちした三角定規みたいなもので言葉で規定することはむ
ずかしい。他人が云ったことを、そうだ、そうでないというのは簡単だが、いざ自分で見本を示さ
なければならないとなったら、これは事さ。例えばこのバベルの塔だ、これは神のための建物だが、
すでに中身は悪魔のものになっている。神は己れの実在を証明するためには悪魔の手を借りなけれ
ばならないってわけさ」
「……」
「動いているものは動きつづけなければならない。回転しているものを急にとめるわけにはいかな
い。世の中の工合はすべてこうだ。回転し、動き、走りながらすべては変っていく、内容も外形も、
しかし、存在は別だ。存在はもっとも深いところにある。走りながら存在を見極わめることができ
るかね。僕等が存在という時、それは空想に過ぎないのだ。え、空想が何かの役に立つと思うかね。
さあ、やっと上についたようだ。では、ここでもうすこし待ってくれたまえ」
 男の去っていく足音がしばらく聞えていたが、やがてそれもふっと消えてしまった。僕の眼の前
には闇がどこまでも拡がっていた。
「言葉によって生き、言葉によって死ぬ、それが人間か」
 僕は面接官のことを思いながら呟いた。
「観念によってはじめて存在する、それが人間かも知れぬ」
 空か明るくなり始めていた。外輪の山々の青みが増し、眼の下の街は次第にその全容を現してき
ていた。僕はふと、手摺によりかかり、魅せられたようにまじまじとその「街」を見詰めた。
 それは何という「街」だったろう。街並、路地、家の一軒一軒についてすべてが僕の幼い頃育っ
たあの街、その頃の景色そのままだっだ。長いこと、眼が熱くなるほどに僕は「街」を見つめてい
た。……それは過去の街だった……。

 それで……。
 私は夢から醒めたように囁きました。
 それで結局、君はその街に住めることになったのかい。
 いや。
 彼は首を振りました。                        
 僕はしばらくその街を見詰めていたが,そのまま塔の上から背後につづいている岩山の方へ歩い
ていった。得体の知れない恐怖が足をがくがく震わせ、僕は追われるようにして岩山を下っていっ
た。あの街には「死」という観念がこびりついているような気がしたんだ。
 と、彼は最後にぽつんと投げだすようにいいました。
 ふう。
 私は溜息をつくと立ち上って冷蔵庫の方へ歩いていきました。
 冷たいジュースでも飲むか、それともビールにするかね。
 ビールがいいね。
 栓をあけると、私達はコップをあげて乾杯を重ねました。
 僕のその時の気持は分るだろう。
 そうさな、まず黄泉の国を見たような感じだろうな。
 私達はそんなことを云って笑いました。
 過去というものはいやなものかも知れない。……
 といいかけた私は、思わず息を呑んで立ち上りました。コップを掴んだ友人の指がふわっとした
羽毛に覆われているのでした。
 くう。
 友人の眼が鋭く輝きました。彼はいつの間にか鷲になっていたのです。
 友人は茶色い羽をひろげると、私の頭上を回るように飛び、それから眼に見えない力から引っ
ぱられるように開いた窓から外へ出ていきました。
 窓に駈けよって眺める私の眼には、その時しみるように鮮烈な山系へ向って悠々と飛ぶ一羽の鷲
が映ったのでした。
 その後、しばらく体調が悪かった私は、一週間程たって彼の下宿に行ってみました。すでに新し
い住人に占拠されたその部屋の押入から、下宿のおばさんの許可を得て、それが彼の持物のすべて
だった若干の本と彼の日記のたぐいを受け取りました。それらは、ほとんどが意味不明な哲学的記
述だったが、その最後に、何かの本から書きとったと思われる記号が次のようにしるされていました。

  dad a da dad a da da dad a da da da kata kai
ded o ded o ded o ded o ded o ded o da kata kai

 それを何度も繰り返し読むうちに、やがて私は、寄せてくる満潮にも似た優しい悲しみに心がやわ
らいでいくのをおぼえるのでした。