倦怠(下)

 いつのまにか迷ってしまったらしい。今まで歩いてきた道は急にせまくなり、私のまわりには、
夜眼に白い葉うらを舌のように動かして、ただ一面の菖蒲の原がひろがっていた。街のあかりはも
う見えず、なまぬるい風が無数の蛙の鳴き声を運んでいた。
 その時足元を冷たい感触のものが通りすぎ、むこうの草の間にちらちらする白い光が動いた。沼
だった。ふいに身震いが私を襲った。眼の前の陥没した道の先に半ば水中に隠れた自動車が見え、
その屋根の上には無数の蛇がうごめいているのだった。沢山の空瓶や空缶の浮いている間をぬって
最前の小さな蛇が水面を悠々と泳いでいた。
 私は別の道を探そうと沼の岸を迂回した。広い泥濘が沼をうめてひろがっている場所に出た時、
眼の前に黒い切株のようなものがいくっも立っているのが見えた。それらはわずかにぶるぶると身
をゆるがせているようだったが、私か近づくと、いっせいに、叫びとも呻きともつかない声をあげ
泥をはね上げてもぐってしまった。またそのほかにも、泥土の上を滑っている小さなはぜに似た生
物の姿が見えたが、彼等は私が近づいてもすぐには逃げず、うす赤い口をあけて夜の大気を静かに
呼吸している様子だった。
 歩きつづけるうち、沼は次第にその深い水面をみせはじめた。河骨に似た形の藻を浮べ、その紫
色の花がところどころに開いていた。私は地面も固く草丈も低い場所を選んで腰を下ろした。星明
りすらない闇たった。闇の中から、誰かが歌う声が聞えてきた。引きちぎられるような悲鳴に似た
女の声だった。いや、あまりに澄きとおった高い調子の声だったのでそんな風に聞えたのかも知れ
ない。私はしばらく耳を冷ましていた。すると沼の中心のあたりから、柔かい水音が近づいてくる
ようだった。
 やがて、ぽっかりと白い舟が視野に現れ、小さな娘が乗っているのが見えた。見知らぬ娘だが、
何故かその両眼は痛々しく白い布で覆われていた。長い竿で舟を進めながら、娘は私の方へ顔を向
けていた。
「こんなところにいたのね」娘は私に呼びかけた。
「さあみんなお待ちかねよ、早く帰らなくちゃ」
 まだ子供に近いようなあどけない顔に、私は思わず微笑んだ。
「君は――まるで看護婦みたいな口の利き方をするんだね。この僕が逃げだした患者かなにかのよ
うに」
「そうかしら」少女は頬をふくらませ、思い直したように廻りを指さした。
「ここは不潔で厭な匂いがするわ。ここは都市の廃棄汚物が集まる場所よ。こんな所が居心地がい
いのかしら」
「舟があるとは思わなかったよ。僕も街へ行く方法を考えていたんだ」
「街?」彼女は首をかしげた。
「どの街のことかしら」
「無意味って名の街さ」
「聞いたことないわね。でもいいわ。兄さんに尋ねたら判るかも知れない。とにかくそっち側には
街なんて全然ないわ」
「じゃあ、ともかくそのガラスの舟に乗せてもらおう。実のところ歩くのはあきあきしてね」
 私が舟に移ると、半透明の舟底をとおして黒い水紋が揺れた。少女が竿を渡した。沼の底はかな
り浅く、竿を突きたてるとメタンガスの泡が立ち昇り、かすかに腐臭が鼻をついた。しかし何とい
う舟だろう。ちようど不透明なクリスタルガラスのような感じだが、それよりも薄いガラス繊維の
紙の舟に似て軽々と水の上を進んだ。涼しい風が吹き、膝を抱いた少女が艫の方で歌った。
  やっぱり欺したのね
  でもいい
  私だってあなたを欺して
  そのうち思いがけない出来事が
  私達の間を裂いて
  それからずっと
  私達はここで死んでいるのね
 行手に聳える暗い森から、何故かぞっとするような冷気が私を包んだ。木の板を渡しただけの舟
着場に舟を止めると、私は少女の手をとって湿った土に上った。曲りくねった枝をひろげた巨大な
楠の木の下を通り、森の中の道にはいると、かなりの数の樹木が立ったまま枯れていた。
「ここは風が吹かないから、樹はみんな立ったまま枯れるのよ」少女の淋しげな声がする。
「それにしても静かな森だ。何の音も聞えない。まるで死人の森だ。ここには鳥なんか住んでいる
のかな」周りを見廻して尋くと、
「ええ、にせものは沢山いるわ、でもほんものは一羽だけ」と意外な返事。
「ほんものは一羽?」思わず問い返すと、
「すぐ分るわよ]とくすりと笑う。
 それにしても何という少女だ。透き徹るような絹の短かいネグリジェを身につけて、一体誰と暮
しているのか。
 丈の高い樹木が途切れると、密生した樫の林が低い枝をさしのべていた。
「今晩は!」不意に頭上から甲高い声が落ちて来た。見上げると同じなりの少女が、樹の枝に腰か
けて笑っている。
「今晩は」 「今晩は」次々と同じような声がした。
「今晩は!」
 私の傍の少女も手をあげた。
「どこへいくの?」 「どこへいくの?」
「うん、ちょっと兄さんの所まで!」
「お化け鳥に気をつけるのよ」
「烏に用心するのよ」
 樹の上の少女遠のおしゃべりは次第に遠のき、しばらくは私達の足元でこわれる落葉の音が続い
た。
「あれはこういうことよ」私の腕に体を預けながら少女は深い溜息をついた。
「お化け鳥は、この森の主なのよ。それはね、いったいいつからここに住んでいるか分らない
ぐらい。私達はもちろん、森の一番古い樹だって知らないのよ。ずっと昔、ここが砂漠だった頃に
居ついたらしいけど、それ以来ずっと森の一番奥まった暗闇の樹にじっととまったまま、灰色の翼
をこすり合せ、ずるそうに笑った眼でちらりちらりとあたりを見廻していたのよ。勿論鳥だから寿
命はあるわけよ。でもあの烏はいつも卵を一つあたためているの。それも自分の羽の色に似かよっ
た灰色の卵を。でその卵がかえった時には親が死ぬんだけど、そこが化物といわれるわけね。親の
記憶はそっくりそのまま子供にうけつがれるのよ。化物の巣は森の真中にある一番高いけやきの木
だという人もいるけど、ほんとうは誰も知らない。ただ年に何回か私達の所へ飛んでくるのよ。一
体なにをしに来ると思う? 私達を食べによ! 私達の一人をつかまえるとその場でがつがつ食べ
ることもあるし、足でひっかけて持って帰ることもあるわ。逃げたいと何度も思ったわ。でも私達
には何も出来ない。こんな生れながらの盲ですもの」
「戦おうとしないの?」
「戦うって、相手は私達の体の数倍もあるのよ。それに羽をもってるし、いつどこから襲ってくる
か分りゃしないわ」
 私は少女の手をとったまま、森の下草の上に坐った。そうしてかなり長い間、黙りこくって坐っ
ていた。
「怒ってるの」少女は尋ねた。
「いや、――」
 私は慰めの言葉を探していた。しかしいつのまにか、私は盲目の少女の運命と私自身の運命とを
重ね合わせて考えていたのだった。私がこうして自分で招いたこととはいえ、このような不条理で
恐ろしい場所をさまよっている間、私の家族――妻や子――はどうしているだろうか。きっと私の
姿を探し求めていることだろう。ああ早く帰って安心させてやりたい。しかし、どうしたらここか
ら帰れるのだろう。
 まるで異次元のこの世界から、あの通常の現実の世界へ戻る道があるのだろうか。
「ああ、どうしたらいいんだ」       
 いつか私は、少女の肩を抱いて揺さぶっていた。少女は背をまるめ、見えない眼を向けて私を見 
上げていた。その開いた唇がぴくぴく動いている。ふいに、いっそけものでありたいという思いが 
涙とともにつき上げて――私は少女をしっかり抱きよせた……。
 私は、長いこと眠っていたらしい。眼をあけると、私はなかば木の葉に埋まっていた。眠ってい
る間に枯葉が体の上に降り積ったのか、それとも誰かが落葉の布団をかけてくれたのか、傍には、
前夜のあの少女の姿は見えなかった。頭上の樹木の梢から幾条もの光が音もなく降っていた。ああ
やはりここは小鳥の住まない淋しい森だったのか。私は前の夜の少女の話を思いだして、改めてま
わりを見廻した。立ち枯れたメタセコイア、赤茶けた葉のひのきや杉、曲りくねった幹から細い枝
をひろげたえのき、垂れ下るねむのきの葉、遠くかすむヒマラヤ杉。そのはるか上空に円をかいて
何か光るものが見えた。それは半透明のガラスのような輝きを放ちながら悠々と空を飛ぶ一羽の巨
鳥だった。
 私は起き上ると、少女の姿を求めて森の中を歩きまわった。夜の間に通った樫の林の下も通って
みた。しかし、そこには嘘のように誰も居なかった。私は歩き歩いてとうとう森のはずれに出てし
まった。燦然と輝く太陽の光が私の眼を眩ませた。まぶしい輝きの中に一軒の小屋が建っているの
が見えた。
 それは四本の柱に支えられた銀色のうろこ屋根、粗末な薄板が形ばかりぐるりを囲んでいる影の
ようなバラックで、いくらか傾いて朝もやの中にうっそりと立ち上っていた。入口らしいものは見
えず、近づいて傾斜した窓から覗くと、意外に内部は広く、ただがらんとした埃っぽい部屋には何
の道具もないが壁は四面これすべて鏡である。こちらからは見えない部屋の隅には、小さなべッド
が置いてあるらしく、何度も折れ曲った鏡の奥で、虫けらのように動いているものが見えた。かす
かな溜息がして、ついでぶっぶつ独言をいっているのが聞えた。
「……俺はいったい馬鹿か気狂いか、このごろすっかり神経をやられてしまったらしい。いや、こ
の破壊されつつある神経の全部をあれがしめつける。あの女が澄んだ声をたてて笑う、あの邪気の
ない声に俺はびくついているんだ。俺はあのよくとおる声が聞えるたびにぎくりとする。ああ、い
っそ耳を塞いでしまいたい位だ。そのくせ心は甘い思いに満だされ、その声の意味のすべてを聞き
とろうと懸命だ。俺ぼそっとさりげなく顔をあげて彼女の顔を盗み見る。ああすばらしい顔だ。優
しく雄弁な表情だ! 今にも折れそうな細いうなじ。熱意に満ち前に垂れ落ちた黒い巻毛。血色の
いい顔。可愛いいとがった顎。きらきら輝いている賢こそうな二つの眼。高く細い鼻梁。両端に引
きしまった赤い唇。とりわけ人を見る時の上眼づかい。じっと眺めるあの眼はいい。何も知らない
子供が警戒するような、同時に慈母が悪戯をたしなめるようなあの眼! すばらしく演劇的な眼だ
が、あれはしかし、無意識につくられた天然の媚だ! 女の天性そのものだ。……、ああそれから
細くてきゃしゃな首につづく清らかな胸のふくらみ、その下の引き締まった腹。豊かな尻!……」
「ごめん下さい!」
 私は、その場から声をかけた。
「今日は! ごめん下さい!」    

「ああ、俺はいつからこんな情けない男になったんだ! たかだか女一人のために気狂い同様にな
るなんて、ちょっと頭を切りかえれば分る筈なのに。亭主待ちの女に惚れるなんて鞭で打たれるの 
も当然の事だ。ああ情けない。……それもこれもあの一角獣。畜生! すべてはあいつのせいだ」
 鏡の奥で毛布がはねのけられ、白くふやけた男の顔が現れた。伸びたあごひげ、前に垂れた汚れ
た髪、男は身を起すと、暗い顔付で鏡に眼をやった。
「先生!」私は叫ぼうとして口をつぐんだ。ふいに鏡の面がぐねぐねと動き始めた。まるで生き物
のように、しかも、急にその面に現れたしみのようなうす茶色の斑紋が開いたり閉じたりしている
のだった。
「どうしたんです。困ってしまうな」
 変にのっぺりとした声がすると、忽ちそこに茶色い水玉模様のぬいぐるみをきた男が現れた。
「どうしたんです。今日は休むんじゃないでしょうね。今日こそはあのお芝居に出ないと、それこ
そほんとうにあの座頭は怒ってしまいますよ。猛獣使いの奥さんとのことで、あの人は大分腹を立
てていたのですからね」
「ああ、きさまか、やっぱり」
「ああ、きさまか、じゃないですよ。実際困ってしまうな。ねえ頼むから起きて下さいよ。そして
動いて下さいよ。私も体がなまってしまってなんだか死にそうな気分なんてすから」
「ほっといてくれ。起きようと起きまいと俺の勝手だ。お前の体がなまって死にそうな気分になろ
うと、そんなことは知ったことか。だいいち、どうしてお前はそううるさく俺の前に姿をみせるん
だ」
「これはこれはお言葉ですね。そもそもあなたと私は同じ一つのものじゃないですか。本来なら、
私はあなたの中にいてしかるべき筈ですよ。それをあなたはけだもの扱いして追い出してしまった。
あなたの理屈によれば私はひどく曖昧で、混沌としてわけがわからず、ただもう、馬鹿々々しい程
突飛で盲めっぽうで、全くあてにならない気狂いじみた存在なんです。そりゃあもう、私はただの
影のような一角獣に過ぎません。しかし、これでもあなたの為を思って傍にいて上げるのですよ」
「ああ、いやだ。いやだ」
 先生は耳をおおって叫び始めた。
「なんだってお前は、そんなに厭らしい声で喋るんだ。ほんとに以前は啼き声さえ出さない大人し
い獣だったのに、このごろは人間の言葉で俺に説教するのか。ああ畜生! 言葉、言葉、言葉だ。
きっとお前は俺を気狂いにする気だな。ああ、あんまり疲れたので頭のしんがぼーっとなってしま
った。ああ、あの女。とにかくどうでもいいんだ。とうにかなれば! どうにかなりさえすれば!
世界は壊れろ。渦まいて流れろ。ああ、すべてを忘れたい。没我だ。自己滅却だ。……しかし俺は
何故、こんなところにいるんだ。何故、何故、ここにいて、あそこにいないんだ……」
 私は、一角獣が今にも泣きだしそうな表情で突っ立っているのを見て、そっとその場所を離れた。
かたい雑草がはびこった原野の中の道をしばらく行くと、次第にだらだらの坂になり、それを登り
きると、突然広い道路に出た。                               
 なめらかに舗装された高い道路の上に立って、今来た方を振り返ると、私があんなに迷い歩いた 

森や沼は、深いもやの中に沈んで、もうぼんやりとしか見えなかった。
 道路のすこし向うに長い陸橋が架っていて、そのはるか下方に奇妙な外観の街が雲のようなあぶ
くを浮べて拡がっていた。一面の水晶の群生に似て、林立する建造物の全体は、四方にまき散らさ
れた絹糸のすだれに包まれ、そのすだれの上方はよれたように、空をびっしり覆ったシャボン玉の
あたりまで燃え上っていた。
 橋のてすりに、帽子をまぶかにかぶった男達が眠ったようによりかかっていた。私か通り過ぎよ
うとすると、その男達が不意に喋った。
「おい、あんた、あっちに行ってもなにもありゃあしないよ。ありゃあ、嘘の街。影でこね上げら
れた街なのさ」
 車が真黒い風のように私の傍を走り過ぎた。長ったらしい橋の先は、また長く薄暗いトンネルに
なっていて、つんと鼻を刺す乾いた匂いがしていた。地下道の壁にしみついた影のように、レイン
コートを着た男達が歩いていく私を見守っていた。低くかすかな笑い声が私を追い、私は急ぎ足で
その場所をかけ抜けた。
 突然、まわりが広くなり、前方に輝く光環がいくつも現れた。それは明るい外の光だった。しか
し光環の一つに飛びこんだ私は、外に出たわけではなかった。気がつくと私は別なトンネルの中に
いた。透明なビニールパイプ。私はその中に立っていた。パイプをとおして、同じように上下左右
に重なり、からみあいながら上昇する透明なパイプの林が見えていた。が、その時ふと、奇妙に軽
い風が足もとをすくった。私の体は持ち上げられ、奇跡のような流れに乗ってパイプの中を上昇し
ていた。
 私は管の中を滑っていた。なんにもしないでその中に寝そべっていても、まるで何かの圧力か、
吸引力のようなものが私に作用してでもいるかのように、何の抵抗もなく前へと進み、パイプの分
岐点では分れまた合一し、どこかこの街の中心部へ向っているようだった。まわりのパイプの中に
は、私の見知った人達の顔が見えたが、みな当然のような表情で、ちょっと手を挙げるとか、軽く
うなずくといった簡単なしぐさで遠ざかっていった。
 パイプの中を滑りながら、私はいつか虹色のシャボン玉の群の中にはいりこんでいた。近づくと
その中には、悲しげな顔をした人間が一人づつはいっていて、ただ黙って坐っていたり、空を仰い
で立っていたり、寝ころんで本を読んでいたりしているのだった。シャボン玉の一つ一つには、そ
れだけではあまり意味をなさない文字が浮び出ていた。例えば、平仮名の「ろ」とか、数字の「2」
とか、漢字の「在」と「族」とかである。私を運んでいるパイプが、そうしたシャボン玉の群の中
を上ったり下ったり、巻きついたりしながら続いているので、私は玉の中に閉じこめられた人間達
の様子をよく見ることができた。彼等はこざっぱりしたなりをしているものの一様にやせ衰えた体
格をしていて、囚人特有の気狂いじみた眼付で私をみつめ、中には口を開いて呼びかける者もいた
が、もちろん、その言葉は聞えなかった。恐らく、強じんな弾力性をもつゴムのような材質で密閉
された玉は、その下部のパイプだけに正式に連結されており、玉どおしまたは他のパイプとつなが
る連絡はなかにはあっても、途中で切れていたり、切れないまでも黒く変色し、ねじくれしわがれ

ていた。そんなわけで玉の中の孤独な囚人達の声は私には届かなかったが、無数の黒く輝く瞳は異
様な熱気で私を息苦しくさせ、私は一刻も早くこの場所を通り抜けたいと願ったのだった。
 私のパイプは次第に下降しているようだった。やがてシャボン玉の数は減りはじめ、透明なパイ
プの群がすだれのように集まってきた。その時、それまで完全に無音の世界を行く私の耳に微かな
信号音が聞えた。ふいにパイプの群が揺れて浮き上り、眼の前に巨大なスポーツカーが現れ、傾い
たまま後方へ飛び去った。きらきら光るパイプの林の間を縫って、黒い鞭のようなベルトが何本も
流れ、車はその上を動いていた。小さな蝿の羽音をたてて、まわりをモーターバイクが飛びかって
いた。信号音はますます強く絶えまなく鳴り、下界に白いビルが幾層も重なって見えた。絹糸のよ
うなパイプがその廻りをめぐって、雲のように取り巻き、私はパイプを通って、次第にその建造物
の一つに吸いこまれていくようだった。行手にぽっかりと開いた窓が現れ、無数のメーターや計算
器がはめこまれた壁面に囲われ、沢山の書類の積まれた机の間で、人々が忙しく立ち働いていた。
私はいつの間にか大きな机を前にして、ゆったりした椅子に腰かけているのだった。
 一人の白いYシャツの男が私の方に近づいてきた。
「係長――」その男が私を呼んだ。
「係長――」
 私はぼんやりと眼を開けてその男の顔を眺めていた。
「係長、面会人です」
 その男は、手に待った書類を入口の方へ振ると机の上に置いた。
 一人の妙な男が入口に立っていた。
「おや、これは」
 それは、先生の所にいた一角獣のあの男だった。いが栗頭の長い首を、開襟シャツの上からぬっ
と突きだして、男は部屋の中を見廻していた。
「どうぞ、こっちに」
 血が顔に昇るのを感じながら、私は傍の椅子を指さした。
「実はあなたに相談したいことがあって」
 彼は少し斑点の見える首の下のあたりを襟で隠しながら私を上眼使いに見あげた。
「実はあなたも御存知の先生から私は追いだされまして、それが私には理由がさっぱり分らないの
ですが、ただもうやみくもに出ていけと怒鳴るばかりで、私も困ってしまって出たことは出たもの
の、さしあたりどこにいったらいいものやら、ちょうどその時、あなたのことを思いだして、つい
ふらふらと足がこっちの方へ向いてしまったんです。まことに厚かましいお願いですが、しばらく
こちらに置いて戴けないでしょうか、私に向くような仕事があればどんなことでもしますが」
 私は彼をさえぎって云った。
「まあ君、そう急に云われても、第一ここに君に向くポストかあるかどうか――」
「なんでも結構です、給仕でもいいんです」
「ああ君」私は煙草に火をつけると、最前書類をもってきた男を呼んだ。
「たしか、病気で休んでいる守衛がいただろう」

「はい、それがどうかしましたか」
「実は、この人は僕の田舎から上京して来たんだけど、早急に仕事を見つけなければならないわけ 
があってね。保証人には僕が立つから、その守衛の仕事を与えてやってはくれまいか」
 私は一刻も早くこの気味の悪い男から逃げたかった。一角獣は太い眼玉をぐるぐる廻しながら、
私と事務員とのやりとりを聞いていたが、事務員にうながされて、急に椅子から飛び上ると、その
後を追って部屋から出ていった。
「ああ、困ったものだ」私は聞えよがしに云った。
「最近に限ったことではないが、ああいう風な連中の気持はどういうものだろう。折角健康な田舎
の空気を吸いながら、古い習慣や正しい労働を放りだし、期待と好気心にそそられて、この騒々し
い都会へやってくる。その結果、ここはもの欲しげな軽佻浮薄な人閲共で一杯だ。もっともこうし
た入間がいるからこそ、当情報センターの商売も成り立っていくわけだが――ところで今日は何日
だっけ」
「今日は月末の三十一日ですよ」つんつんした声をヒステリックに張り上げながら、髪をアップに
した小生意気な女事務員が、私の机の上に言類を投げだして去った。
「あの……例の公園買収の件ですが」
 私のすぐ前の席で、Yシャツのそでを捲りあげて仕事に没頭していた中年の男が振り向いた。
「あそこはご存知の通り、一時代前のプラネタリウムとか博物館などが手入れもしないまま放置さ
れているのに、最近では得体の知れないジプシーの見世物小屋まではいりこんできまして。かてて
加えて近所の住民からは、やれ遊地保存だの環境整備だのと、買収計画にしつっこい反対運動なん
かもありましてね」
「ほう、反対運動というと」
「要するになんていうんでしょう。ああ云えばこう云う、こう云えばああ云う。つまりことごとく
こっちの計画が気に食わんのですな。どうも、そのはっきりした理由が分らないんですが……おや、
どうしたんでしょう」
 急に廊下の方が騒がしくなって、人が駈けていく足音がした。同時に扉が開き、緊張した面持の
事務員が、眼の上にあざをこしらえた顔を突きだした。
「あの、さっき採用した守衛ですが、どうも乱暴な男で、いうことを聞かないんですよ。いえ、守
衛の服に着換えさせようと思ったら、あんまりシャツが汚れているもんで、つい引っぱったんです
よ。するととたんに、私を殴って逃げだしたんです。ところが、勝手が分らないものだから、女子
の更衣室に飛びこんだり、展示ケースのガラスを割ったりで、ええ、今はエレベーターの中に閉じ
こもって、ありったけのボタンを押していますよ」
 とたんに卓上ホーンから課長の怒鳴る声が聞えた。
「君! あの男はぜんたい何者だね。事務員の話では君が保証人になっているということだが、私
の眼鏡はどうしてくれるんだね」
「いったいどうしたんですか」
「どうしたもこうしたも、私が便所にはいろうとすると、出会い頭に飛び出して俺の眼鏡を吹っ飛

ばしたんだ」
「すぐ行って捕えます」
 私はあきれて返事をすると、そのまま部屋を出た。エレベーターの前にいくと、なるほど沢山の
人が集まってガヤガヤ云いながら表示ランプを見上げていた。私は傍の電話を取り上げると電源室
の電話番号を廻した。
「すぐ電源をストップさせてくれ、それから五分後にまた入れてくれ」
「分りました」相手は答えた。
 急にすっとまわりが暗くなった。
「みんな静かに、今電源を切ったところだ。電気がなければ奴はなにも出来ない。奴はあきらめて
床に坐りこむさ。もちろん扉もあかないわけだが、また五分後に電源を戻し、外側からエレベータ
ーを呼ぶことにしよう」
「しかし真暗ですね。このビルの機能が何もかも停止したようだ」誰かが云った。
「なんだか、せいせいするわ。こんなこと始めてよ」囁くような女事務員の声が聞えた。
 五分間が過ぎ、電気がつくと、私は傍の呼び戻しボタンを押した。エレベーターは戻ってきて、
すぐ前で停り、そして開いた。人々の間に驚きの声が伝わった。エレベーターの中には誰もいなか
った。
「きっと箱からしみ出したんですね」さっきの事務員が私にいった。エレベーターに乗って一緒に
一階へ降りる途中だった。
「電源を切る前に降りていたのかも分らん」
「でも確かに動いていたんですよ。その直前まで」
「とすると最初から誰も乗っていなかったのか。――それは考えられる。とにかく妙な話さ」
 私は事務員と別れ、玄関から外へ出た。外の広場は明るい陽光でいっぱいだった。陽の光を浴び
ながら、一人の老人が何事もないようにゆっくり歩いていた。車ですらいやに平べったく眠ってい
るように停っていた。広場の中央に噴水がしぶきを上げ、傍の広いゆるやかな石段には若者たちが
たむろしていた。幾組かの男女は互いによりかかって噴水を眺めていた。池の傍には何本かの樹木
が立ちならび、その下に立った一人の子供が母親の方へ笑顔をに向けていた。若い母親は石段に坐っ
たまま笑いながら子供に何か叫んでいた。
 噴水の後に黒いドームが立ち、その屋根には矢をつがえている男の彫像が逆光にぼやけて見えた。
彫像の上に輝く太陽は緑色だった。中心部はほとんど黒に近く、次第に明るむ縁の周辺部はまばゆ
い光輝となって大空にまき散らされたパイプにつながっていた。
 私は広場を横切って病院の方へ歩いていった。そこは神経科の病院で、先生の勤務先でもあった。
先生が今居るかどうかははっきりしなかったが、とにかく行ってみようと思った。私は、どこかギ
リシャの神殿を思わせるその建物をくぐるのが好きだった。白い階段をのぼると、両側に太い花崗
岩の柱が二本あり、その奥の回転ドアを押すと天井の高いロビーかある。ここが待合室で、その正
面の受付には顔見知りの美しい看護婦がいた。私か来意を告げると、どうぞ、光生は今研究室にお
いでですからと云った。

 私は階段の下、右手の廊下を五十歩ほど歩き、突き当りの部屋をノックした。すぐには返事がな 
かった。もう一度ノックすると、扉がすこし開き先生の顔が現れた。気むずかしい顔に驚きの表情
が浮び、すぐに扉は大きく開いた。
 部屋の中は何か妙な工合だった。施術台には何かがベルトでしっかり結わえられていた。それは
一角獣のあの男だった。麻酔でもかけられたのか、白い貝殻のようなまぶたを閉じ、だらしなく裸
の手足を仲ばしている。
「いったい、いつここに紛れこんだんだね」私は尋ねた。
「ほんのちょっと前さ」卓上のメスを取り上げ、施術台の方へ向き直りながら、先生は答えた。
クロロホルムで眠らせてあるから、しばらくは大丈夫だろう。なにちょっと、こいつの皮膚の断
 片を戴こうと思ってね」
「それより、レントゲンの方がよくないかい」私は注意した。
「不思議だ!」
 一角獣の腕にかがみこんで慎重にメスを動かしていた彼が叫んだ。
「こいつの血は緑色だぜ、まるで無脊椎動物だよ。まず血から調べにゃあ」
「どれどれ」
 私は先生の背後から覗きこんだ。草の汁のような液体が、一角獣の二の腕から一筋糸を引いてい
た。その腕がぴくりと動き、一角獣が顔をしかめた。すると、その顔の輪郭がぼやけたように私は
 感じた。
「おい見給え」
 私は先生の注意を促した。
「おや」先生は叫んだ。先生と私の見守る前で、男は以前の一角獣の姿に変貌しつつあった。それ
ばかりか、かばとさいのあいの子のようなその体躯は、急に内部増殖でも始めたかのように力強く
ふくれ上っていくようだった。ベルトがぱちんと撥け飛び、一角獣が風船のように浮き上った。
「大変だ、押えてくれ!」先生が尻尾に飛びつきながら叫んだ。私は後足に飛びついたが、どうや
らファロスを掴んでしまったようだ。めりめり、その瞬間モルタルの天井が飛び散り、私は上に引
っぱられた。病院の屋根が裂けたのはその直後だった。一角獣の体は私達をぶらさげたまま、ぐん
ぐん上空に飛び上っていくようだった。茶色のの斑紋が渦まく雲のように、私の頭上に拡がっていた。
小さな爆発音をたてて、千切れたパイプが雨のように降りそそぎ、ビルの上にかぶさった絹の糸は、
次第に街の全体を繭のように押し包みながら、小さく小さく縮まっていった。
「おおい、いったい我々は、どこへ行くんだね!」
 私は飛びながら、同じように後を飛んでいる先生に向って叫んだ。
「我々は帰るということを、忘れたみたいだな!」
 先生は怒鳴り返したが、その声は、さほど機嫌の悪い調子ではなかった。私達の前や後に、この
冒険旅行中に出会った男や、女の姿が見えたが、彼等は、まるで自分自身がたんぽぽの胞子ででも
あるように、喜々として一角獣のまわりを飛んでいるのだった。