物体(3)

 何やら、いやに狭い所で眠っている様な気がしていたが――眼が覚めてみると、死んだ蛇のよう
なへんにしらじらしい光が枕元に漂っていて、私の寝かされている部屋の模様をぼんやりと見せて
いた。
(しかし、まあなんと奇体に狭い部屋だ)人が一人、やっと坐ることが出来る程の天井、やっと寝
ることが出来る程の奥行、もっと狭い両側の幅、小さな長方形の内側を覆っているものは、うす赤
い古びた緞帳に似た代物で、それは私の寝ている体の下まで及んでいる。眼を近づけてよく見ると、
半透明の油紙のようにキラキラした一種の艶があり、手をふれると、ゴムのような柔かい感じもす
るのである。何とも妙な部屋というよりは、油紙の袋の中に、ありふれた毛布が一枚、私はその上
に寝かされている。
 一体、昨夜はあれからどうしたのだろうか。多分、私は動けなかったに違いない、とすると、こ
こまで運んで来たのは砂男だろうか。私はちらと、前夜ここへ来る途中の数多くの部屋を思い浮べ
た。あの番号札を張られた無数の部屋。その内の一つに私は今こうして寝かされているのだろうか。
外を見ようと思い体を起しかかると、何故か急にめまいがして、私は又寝床の中に倒れてしまった。
(一体どうしたことだ!)こんな筈はないがと尚も起きようとすると、こんどは休全体が萎えてし
まった様な感じで、筋肉に力が入らず、どうしても寝床から立ち上ることが出来ないのだ。
「もし、もし」
 その時、呼ぶ者がいる。
 誰も私の他に居る筈のない、物音一つしない小さな部屋だったのだが――とあたりを見廻すと、
もうはっきり眼も覚めているというのに、部屋全体がぐらぐら揺れているような気持がするではな
いか。うす闇をすかして見ると、先刻の油紙が、ちょうど人間の皮膚のように伸び縮みし、しかも
声が聞えるのは、私のちょうど真上の天井の部分で、よく見ると、そこに黒いものが二つすこし離
れて並んでおり、それよりいくらかずれた所にある赤いものが、際立ってわなわなと動いているの
だ。もはや、疑う余地もない。そこには人の顔が見えるのだ。ひどく拡がった上、押し潰された様
に平たいので、ぼんやりと見分けのつくのは、まばらに毛の生えた眉の部分に眼と唇ぐらいだ。鼻
もない下の方で赤い唇がぴくぴく動く。
「もしもし、私が分りますか……アア分ったと見えますね」
 そこで彼が重い溜息をついたので、部屋の中の空気はビリビリと震え、生温かい空気が私の顔に
つき当った。
「いいですか、私の云う事をよく聞いて下さい」殆んど囁くような低い声が続く。
「あなたは今、危険な場所にいるのですよ。まずこのことを良く分って下さい。そして出来るだけ
早く、ここをお逃げなさい。でないと、あなたは血を取られた上、最後は私のような袋にされてし
まいます。いいですか。袋にされるのですよ。私は生きながら袋にされているのです」
 彼はぎゅっと唇を結ぶと、らんらんと見開いた眼は、今にも飛びつかんばかりの有様を示した。
「あなたは一体誰ですか」
 云い知れぬ恐怖から叫ぶようにいうと、天井の眼はしばらく私を黙って見詰めていたが、再び口
を開いた。
「あなたは今恐ろしそうに私を見ているが、私も最初はあなたと同じ胴体の円みをもった人間だっ
たのです。そして、やっぱりあなたと同じように歩いてここへ来たんです」
 やがて、彼は自分のことを話し始めた。
「もともと狩猟が好きだった私は、その日も銃を持って、子鴨ぐらいしか獲物はなかったのだが、
遅いから帰ろうと思って、もう足元の暗い野原を歩いていたんです。すると突然、私の前を行
く犬が何を見付けたのか、恐しく吠えながら駈けだしていくんです。躊躇なく私もその後を追いま
した。駈けながら、犬の前の方を見ると、白いものがすっすっとまるで草の上を滑るように走って
行くのです。眼を見張るような生き生きとした動きで、最初は夢でも見ているのではないかと思い
ました。しかし、それは果てしない追っかけっこでした。とうとう、私は犬についていけず草臥れ
て草の上に腰をおろしたのです。私の犬も、こんなに長く追わねばならない様では追いつけないか
も知れません。私は口笛を吹きました。普段は口笛を吹きさえしたらすぐ戻ってくる筈なのが、お
かしな事に、その時に限って何度吹いても戻って来ないのです。私はまた立ち上ってのろのろ、こ
んどは私の犬を探しに歩きだしました。小一時間も歩いたでしょうか。ふいに眼の前にあの奇妙な
恰好をした家が立ちふさがっているのです。犬のことも気懸りだったのですが、もう時間も遅かっ
たし、これから帰っても乗物がない事は分っていたので、私は一晩そこに泊めてもらおうと思い、
決心してはいったのです。それから後は、あなたもご存じの通り、並んだ部屋、飲屋、あの飲屋の
主人、主人はすぐに泊ることを許してくれました。しかし、一晩泊るともう一晩泊りたくなりました。
酒が生来の酒好きの私を引きつけて離さなかったのです。とうとう私はずるずるべったりに泊
りこみ、起きては酒を飲み、酒を飲んでは寝るという暮しの中に溺れこんでしまったのです。反省
のない快楽だけが生きた一と月でした。はっと気がついて、私が、自分の心に立ち返った時はもう
後の祭りでした。ゴム風船の様に軽く、すき透ってしまった私の体は、壁にくっついたまま、どう
しても離れないのです。離れようとして懸命にもがいている時、あの主人がやって来て、重々しい
口調で云ったのです。『お前は、一と月の間楽をしたのだから、そういう風に壁にくっつくのも仕
方がない』彼は、みるまに大きくなった私の口から、私の体内におどりこむと、さっさと私をこの
部屋に張りつけて、そのまま行ってしまったのです」 
「あなたの犬が追ったという白いものは、猫ではありませんか」
 私は思い出して口をはさんだ。袋はちょっと考える風であったが、
「そうかも知れません。私の犬があんなに吠えたつことは普通の場合ありませんからな」
「で、あなたは、何故目方が軽くなったか自分では全然分らないのですか」
「そう、ずっと酔いつぶれていましたからな、ただ毎夜、あの酒を飲むたびに、ひどくめまいがす
ることは知っていましたが、それもただの酔いだと思って……きっと酒に正体を失ったあと、あい
つが私の血を取っていたのでしょうね」
 彼はそのまま黙りこむと、部屋の一隅をみつめていたが、やがて思いなおした様にぽつりと、
「まあ、でも当然の酬いかも知れません。何しろ一と月もの間、自分を失っていたのだから」
「そんなことはない。あなたも快楽に溺れたかも知れないが、それ以前に、あのバーテンに深い企
みがあったのではないでしょうか。猫を使ってあなたをおびき寄せ、酒であなたを眠らせた上で、
血を採ってしまう。すっかり骨抜きになったら、こんどはこんな部屋の壁紙代りに……」
「しっ、黙って、誰か来ます。では後ほど。私か話すということは誰も知らないのです」
 彼は急いで、それだけの事を云うと眼を閉じた。皮膚は張りを失い、すぐにだらんとたるんだま
ま動かなくなった。
 ことことと軽い足音がして、部屋の外でとまった。私が頭をねじ曲げて入口の方へ眼をやると、
そこには一匹の黒い猫が浮かび上っている。
「眼が覚められた様じゃな。すぐに燈りと御食事を運ばせますからな」
 咽喉にからまった様な声で伝えると、そのまま遠ざかっていった。しばらくすると、こんどはい
やに黄色っぽい声がした。
「今日は、はいお食事と燈り」
 すんなりとした体付きの白い若猫が盆と燭台を持って嬌然と立っている。
「はいっていいですかあ」
 語尾に甘い調子を乗せていうと、休をくねらせ、燈と盆を差し出しながら、
「ね、あんた。夕べは面白かった? お酒を飲んだのでしょう! 私も飲みたいんだけど飲ませて
くれないのよ」
 と、人の意も構わずぺたりと坐る。
「うちのお母さんね、とてもうるさいのよ、ミイ子は駄目だって、もう少し女らしくしっとりとし
なくてはいけないって、いつもお説教するのよ。もう本当に、小言ばっかり、あたいがあまり外を
飛びまわるので怒ってるのよ。苦労性だわ。この間なんか、あたいが屋根の上で流行歌を歌ってい
たら、『これ、そんな所でそんな歌を歌ってはいけません』ていうの、だったらどこで歌えばいい
のって尋いたら、どこでもいけませんのよだって。ヘヘんだ。若い娘が歌うのは自然だと思うわ。
あんた、砂男さん知ってて? 知ってる? あの人、とてもいい人ね。私の事賞めて呉れたわ。い
い女の子だって。お母さんには出来すぎたいい子だってお母さんの前でいったら、お母さん何とも
云えない顔をしていたわ、お母さん、うちのミイ子は仕様のないお転婆だからほとほと手を焼いて 
いますと云ったら、砂男さんは、そんな事を心配することはない。ちゃんとその年になればおとな
しくなるんだから、あまりしつけの事なんか厳しくしない方がいいっていったの。私あんまり嬉し 
かったもんだから、砂男さんの首っ玉に抱きついて、砂男さん話せるわねっていったら、砂男さん、
私の事、ギョロリと凄い眼で見たわ。案外、恐い所もあるのね。その時も、後でお母さんに叱られ
たけど、……でも、私、近頃はお母さんに逆らわないことにしたの、だって、お母さん近頃すっか
り老けて、可哀そうみたいだもの……」
 不意にその時、バタバタと走り過ぎる足音と、けたたましい悲鳴がいり混って、廊下を風の様に
通り過ぎていった。
「ミイ子! 砂男が私に酔いざましを飲ませるよ!」
 ミイ子の母親の声がIきわ高く問えた。
「待ってお母さん!」
 ミイ子は、廊下に飛びだすと、その声を追って駈けだした。
「酔いざましか!」
 天井の声が呻いた。
「砂男め、また、毒を」
「え!」
 私は驚いて立ち上った。いつの間にか体の自由が戻っている。天井がぶかっと私の前に垂れて、
「早く、わたしを引きはがして……」
「でも……」
「いや、破れてもいい、機会を逃がしたくないんだ」
 私は、袋をはがすと、ボケットに突っこんで廊下に飛びだした。
 瓶の山を走り抜けようとした時、すすり泣きの声が私を止めた。見るとその陰に、さっきの白猫
がもう硬直してしまった黒猫に取縋っている。
「可哀そうに」
 白猫の肩に手を触れると、そのまま酒場の方へ歩きだした。
 酒場の黒い扉を押して中へはいると、砂男の姿は見当らなかった。
「そのカウンターの後に、地下室へ行く道がある筈だが」
 ポケットの中から皮が囁く。
 「地下室? なるほど」
 私はカウンターを廻って見た。下の方の戸棚を開けると、その奥にぽっかりと開いた穴が見えた。
湿った冷たい空気が中から吹き上げてくる。低い戸棚に這いこんで、下を覗くと、繩梯子が一本か
かって、それが揺れている。その下に、――私は思わず息を呑んだ。
 縄梯子のぶら下ったすぐ下に、べッドが一つだけ据えられてあり、その上でもっれ合っている一
組の男女の姿が、傍の燈りに照らされて、ありありと見えるのだ。蠢いている二匹の白い芋虫のよ
うにからみ合って……。
 男は砂男。女は――私はその顔を何度も見なおした。そして絶望して呻いた。気の迷いではない、
女は髪子なのだ。
 髪子は、キャッと叫ぶと、顔を覆って覗いている私を指さし、砂男が私を見た。と突然、その時
ポケットから飛びだした皮が、下へ舞い下りるや、砂男の顔に吸いついた。砂男は眼が見えないの
だろう。必死になって、自分の顔に張りついた皮をはがそうとひきむしりながら、穴蔵の奥の方へ
と、キリキリ舞いして消えていく。髪子はベッドの上に立ち上り、取り乱したように叫んでいる。
それを見ている内、次第に自分が分らなくなり、私は、穴倉の中へ落ちていった。……
 どの位後だろう。気がついた時には、私はベッドの中に俯伏していた。そして傍らの土間には、
髪子が、これは仰向けになったまま気を失っているのだった。
 私はベッドから下りると、なじみの顔をみつめた。――白いすなおな顔、美しい歯並が少し覗い
て笑ってでもいるような。
 私は髪子を抱き上げると、そのまま静かにベッドの上に横たえた。眠ったままの髪子を残して私
はよろよろと穴蔵の奥へと進んだ。すると、地下の曲りくねった道を辿った私は、まもなくA市の
はずれにある廃坑の入口から出たのだった。