鳥の翼

 いったい私はどうしたのだろう。その時ほど私自身を無力なものに感じたことはない。私には考
える力もない。話す力もない。そしてただ地虫のように這っていたのだ。それが生きている唯一の
証拠のように――。
 足がだるかった。手も腰も鉛のように重たい。時折途切れそうになる意識からはっと気がつくと、
やはり歩いているのだった。それは際限もない時間。そして際限もなく遠い遠い夜の道――。
 夜眼にうっすらと白く伸びた道は誰も通らない。ただ大型トラックのこうこうと輝く前燈が何度
か私に向って近づき、私の横を幾度も走り過ぎ、その度ごとに道筋のポプラの大木がなぎたおされ
るかのようにばらばらと、その影を私の足元に落した。
 遠くから近づいて来る前燈は何か得体の知れない動物の眼を思わせ、見ている内に大きく拡大し
てくるその光が、今日会った叔父の眼を一瞬思いださせた。                  
 あの澄んだばら色の眼。自分を見据えた冷たい眼の光は今でも心に残っている。(だがあのこと 
はあれぎり二度ともう叔父に会うこともあるまい)あの男は断ったのだ。私の不具の足に。それも
当然な理由だ。あの労働に耐えないことは私も分っていた。誰にしたってそう思うだろう。右足は
幼い遊びの最中に成長を止めそれ以後は時のたつまま、不具の名にふさわしく短かく曲った右足は
普通のように真直ぐ伸びた左足の右側にまるで余計者の様にぶらさがったなりだ。(それはちょう
ど今の私のように)
 私はいつもその足には注意を払うまいと決心していたが(ああなんという事だ!)今日はうかつ
にもほんの叔父の眼前で知らず知らずの内にそこへ眼がいってしまっていたのだ。
 ――あれは今思ってもいいようのない屈辱だった。叔父はその時半透明な眼で見るともかく私と
その右足を等分に見、静かに言葉を濁して話題を転じると、それからはもう二度と私の就職の話な
どしようとはしなかった。
(結局なにも得るところはなかった)暗くなった心を抱えて叔父の家に別れを告げた私はバスに乗
らず、ただあてもなく歩いて――あれからどの位の時間を私は歩いたろう――今という時を忘れ、
明日家族に向って云わねばならない無益な真実(やがてそれは私の無益な生への弁解を必至とする
のだが)――それさえも忘れ呆け、いつか全身にいきわたる疲れの中へ、そして冷え切った心が再
び自分一人だけのいつもの暗みに沈んでいくまで。
 ――私はいつのまにか一人ぼっちで対岸のポプラを眺めて立っていた。黒い木の影が何かを語り
かけるかのように突ったったまま私を見下ろし、その間を光りながら流れる川、そのちょろちょろ
いう澄んだ流れの音が聞え、私はいつのまにか腰を下ろしていた。すると青い草の匂いが私のまわ
りに立ち上り、遠い過去が眼覚めて私に向って舞い戻って来た。すでに現在を忘れた私か、やがて
次第にその甘美な世界におちこむとしはしの時の経つのも忘れた!
 その時、私かどんなにその世界からひき離されることを恐れていたか。だが所詮(現実というも
のは)別のもっときびしい在り方を同時に用意しておくものだ。それはいついかなる場所、どんな
風に私があろうと変らない。(そしてその時もそうだった)
 ちょうどその時、私は頬を強く何者かに打たれたような気持がしてはっと立ち上ると、私の全身
は明るい車のヘッドライトに隈なく照らしだされていたのだった。ごとごととモーターの廻転する
音が止まり、トラックの中から何やら大声でわめく男の声が聞えると、つづいてドアを開けて飛び
だした女の姿が眼に映った……。
「窓を明けるなといったじゃないか!」と怒鳴る男の声を背に、やせた洋装の女が私に向い、ばた
ばたと走り寄ると、私の身体のすぐ傍に落ちていた何やら赤いものを拾い上げてしっかりと胸に抱
いた。今まで気がつかなかったが、それは私の頬にあたってから、夜眼が利かずそのまましゃがみ
こんだらしい一羽の鳥であった。
「どうしたんです」その声は、男が窓から首を出して私に向って尋ねているのだった。(どうもし
ない)、私はまぶしいあかりに向って手を振ると、そのままのろのろ歩きだした。しかしすぐに、
ひたひたと追ってくる足音がして、ぐいと私の肩に手をかけると、その男は酒臭い息を吹きかけな
がら、荒々しく囁いたのだった。
「あんたは足が疲れているようだ。俺の車に乗っていきなさい。どうせA町だろう」
 私は思わず相手の眼をみつめたが、他意のない明るい眼付に誘いこまれるようにうなずくと、そ
の男はもう私の手をひっぱるように車の方へ連れていき、女の隣に押し上げたのだった。
「そいつはやせてるから大丈夫ですよ」男はゆかいそうに笑うと、そのまま反対側から運転台にの
ぼり、ハンドルをぐいとひっぱった。
(運転台の中は温かだった)私の傍に坐っている女はよほど変っているのか、新しくはいって来た
私には全く無関心に、じっと前の闇をみつめていたが、そうと知ると、私の眼はいつか、その女の
膝に死んだようにとまっている先刻の鳥に落ちるのだった。
 車は夜の中心をびゅんびゅんと走り、その振動で、鳥の薄桃色のとさかはぶるぶる震えていたが、
鳥の胴体をささえる女の白い手はかたく動かない。
「こいつは変った女でね」
 運転手は前を向いたまま大声で話しかけて来た。
「俺の妹ですよ。世間ではこいつのことを気狂いだといってますけどね。なあにそんなことは俺も
妹も信じてはいない」
 そこでいったん声を落した男は、運転台の下から酒瓶をつまみあげて、ぐいと呑みあおると吐き
だすようにつけ加える。
「世間の奴等の云うことなんか!」
(世間の奴等の云うことなんか)その強い語調は人をぎくりとさせるような響きがあった。
 ――世間の奴等の云うことなんか――(ではこの兄妹もやはり世間に容れられない人達なのか)
 私は女の抱いている柔かそうな鳥の羽根にそっと手を触れてみた。一瞬、女は無表情な眼をくる
りと私へ向けたが、また前を向くと拒むように鳥をかたくひきつけた。くるくるっと小さく鳥が鳴
いた。
 私が女の硬くかさかさした横顔を見ていると、男がせせら笑うように、
「へっ、これがこの女のマスコッ卜でね。これさえあれば、こいつめなんにも欲しくないんだか
ら!」と後は荒々しく云うと、女はその蒼白い程の額にちらっといらだたしげなしわを寄せたが、
別になにを云うでもなかった。
 温気でいくらか曇ったガラスは、車の震動のため、かたかたとかすかな音をたてて、その外側に
は夜がどこまでも拡がっていた。あのどこか人間じみたポプラの並木はいつか終り、車の前燈に照
らし出された前方の白い動く道のほかに、見えるものといっては遠くの方にちらつくまばらな人家
の燈ばかり、それさえ赤い螢火のように、一瞬暗いガラスの上ににじみ出てはくるくると踊り、走
り過ぎ、または中途で消えてしまう微細な光影に過ぎない。
(私はしばらく眠っていたらしい)その浅い眠りの中で見た夢の私も、やはりこのように小さな車
に乗って、果てしない夜の底の迷路のような小さな道をがたがた揺れながら辿っているのだった。
 変に熱っぼい夢だったが、気がつくと、私の手足は冷えきっていた。気のふれた女がじっと私の
顔をのぞきこんでいた。運転手は相変らず酒瓶を取り出しては呑んでいた。
 私は相変らずうとうとしていた。少しまえから連続した警笛が後の方でけたたましく響いていた
が、その時横手の窓がパッと明るくなり、賑やかな笑い声とともに一台の乗用車が傍を走り過ぎた。
あかあかと燈のついたその車の中には、花見帰りらしい陽気に立ちさわぐ男女を混えた数名のあか
ら顔が笑っていた。
 ようようと冷やかすような声と一緒に開いた窓から二人の男の首が出、投げつけた桜の枝がトラ
ックの前窓に当ると、パッと花びらが飛び散った。
 私か夢でも見るようにその状景を見ていると、ぶつぶつ呟く声が聞えた。見ると運転手が何か云
っているのたった。乗用車の人間に対しての何か罵しりらしく、かなり酒もまわっている様子だっ
た。ひどく前かがみの姿勢をとっている。一方、私はまたうとうとし始めていた。何故か眠くて仕
方がなかったのだ。そして後から考えても、その時起った出来事が全く夢の中でのようにぼんやり
と思いだされるのだが――。
 激しい車の振動に眼を開いてみると、物凄い速さで車が飛んでいるのだ。運転手はまるで何かに
取り憑かれたように髪を振り乱して前方をみっめている。前方の闇に――ニつの赤い尾燈がゆれ動
き、のろのろと橋の上にさしかかると急にぐっと近寄った。私は低く押えつけた声で叫び、男の手
を掴もうとしたが、不意に大きく眼の前に迫った乗用車の向うの窓からわいわい云っている男の顔
が急に暗く傾いだ。喘ぐような女の声を押しつぶすように金属がきしみ、ぐらりと車体がゆがと、
乗用車の黒い影が窓をかすめて斜めに飛び、同時に私と女は激しい衝撃に前へ転げ落ちたのだった。
そしてガラスのかけらが降りかかり、ばりばりと木材の折れる音がして、風がさっと吹きこんで来
ると、後は急に静かになったのだが。
 ――眼を上げて見ると、車の右側がはがれたように、はるか下方の河へ向って開いており、運転
手の姿は見えなかった。
 左側から転がり出た私は、半ば橋げたを壊して止まっているトラックの後ろを廻って河の中をの
ぞきこんだが、そこにはただ黒い水が流れているだけで何も見えるものもなかった。
 女が車の後部に顔を伏せて何か叫ぶように云っていた。
「おおい、おおい」私は橋の上から川下の方へ向って二、三度呼んで見た。しかしそこにも応える
ものはなく、ただ真黒い水が渦をなして流れている。

 さらさらとよしの葉ずれの音が絶えず聞えていた。丈の高いそのすきまからは小さな流れが白く
光って見え、その間を縫ってどこまでも続いていた。よしきりの鳴く鋭い声が、不意にその中をつ
き通り、また突然闇に消えた。
 歩いている私達――(それは何と奇妙な同志だ)――気のふれた女と、ちんばの男と、それにも
う一羽、さっきからずっと女の腕の中で眠つている赤い羽根の鳥。歩きながら女は時々それを腕の
中からとり落しそうになり、そのたびにあーあーと泣き叫ぶような荒い溜息をついた。
(それにしてもなんということだ)――と私は思った。あの黒い水が一瞬の内に人間を呑みこみ、
そして後はただの黒い水の渦……眼を放してあたりを見まわした時の私の眼に、ただ茫々と連なっ
たよしの白い穂先の群が見え、その上に一点かすかに浮んでいるあかり……私ははっきりした理由
もなくその方へ向って歩きだした。すると、女が何やらはっきりしない発音で叫ぶと、私の腕を懸
命に引っぱった。(女は私について来たがったのだ)それから私はこの女と一緒に歩いている。あ
の道の上から見えていたが、今はよしの陰になって見えない燈りに向って。
(運転手は恐らく溺れ死んだのだろう。でなければドアがはがれた時には死んでいたのだ。どの道、
この気のふれた女の兄はこの世に居ない。あの燈のついた家まで行って、そこの人にそう言おう。
そしたら後は警察に連絡するなり、死体をひき上げるための便宜なり、何か方法を教えて呉れるだ
ろう)
 鳥は相変らず女の腕の中で、羽根の下に首をつっこんで眠っていた。女ははっきりしない暗い顔
をすこしうつむかせ私の後を歩いていた。じめじめと湿った道だった。黒い沢がにが大きな手を振
り上げて私達の数歩先に立ち止まり、それからさらさらとよしの茎の問に滑りこんだ。すると水音
がやおらかく耳をくすぐった。
 私は女の手をとった。その手はしなやかでひどく冷たかった。女は不思議そうな顔をして私を見
上げた。
「なんでもない」………私は云った。
 女は納得したようにまたうつむくと、そっと鳥の柔毛に頬をすりよせた。
 その時、私は何故かこの女と、心の一番奥の所で妙に通じあっているような気持があるのを感じ
ていた。それは気のふれた者固有のぎらぎらとすさんだような光り方をする眼もそれから子供っぽ
い態度や不完全な表現、そんな外に表れたものによってではなく、どこか心の暗い一点に――その
暗さはこの夜の闇のようにどこまでも底深くつかみようがなかったが――どこかその一点に切れな
い糸のようなものでかたく繋がれていて、そのつながれた二人がどうにもならない暗みから、明る
みに這いでようと盲らめっぽうに手をさまよわせている人間の形がお互いなのだという意識にもと
づくもののようだった。
 いつか私達はへんに白っぽくて拓けた場所に出ていた。そこは一面のすすきの原であった。向う
の方に黒く小高い丘が続いていて、原はその丘の麓とよしの林の間をうずめて横長に拡がっている
様子だった。細くて乾いた道が私達の眼の前に伸びていたが、それは横手に折れて、私達を燈の方
角へ導いてくれそうだった。
 私達はやはり無言のまま手を取り合い前へ進んでいった。爽やかな草の葉ずれの音ばかりが私達
の腰のあたりを流れ、今は横手に連なるよしの白い群生の間から時折、例のかん高い声が響いた。
 雲の裂け目から漂い出たぼんやりした月光が、いつか草原の上にも下りて、わずかに頬を掠め過
ぎる風がふとその上に途惑うと、すすきの群はいっせいに立ち上り、さやさやとあたかも見知らぬ
老人の白い蓬髪のようになびき乱れた。するとそれが私達の行く細い道の上にも零れて来て、道を
殆んど覆い隠してしまうのであった。
 私達は終始黙って歩いていたので、草ずれの音やよしきりの鳴き声の外に夜のひばりの鳴き声も
耳にした。それは突然、まるで誰かがビピーと口笛を吹いたかのように起ったので、ふと横手のよ
しの崖の方に眼をやると、そこに思いもかけぬものを見てぎくりとしたのだった。よしのはずれに
一人顔の赤い男が立って、こっちを見ている!と思ったから。(しかしそれはすぐただの鬼百合の
群生だと分ったが)気味の悪いその暗示のために、しばらく私達は追われるような足どりでよたよ
たと走りつづけたのだった。

 突然、橋の上から見えた燈がすぐ間近に現れた。それはよしの林の中からぬっと突き出、一方が 
河に向って立つ一軒家であった。(燈りは裏手の格子窓から漏れていたのだ)私達が家にそってま 
わっていくと、河の方へ降りていくやや広い道に出て、道に面した戸口の前には番台に似た形のも
のがしつらえられ、その枠の後ろに白い袷を着だ男が坐っているのが見えた。百姓らしいイガグリ
頭で、その頑丈そうな首は眠たげに前に傾いていた。
 私達がその方へ近寄っていくと、眠っているとばかり思ったその男が不意に喋った。
「一人、十円」
 ごろごろした年寄り臭い声だった。
 思わず立ち止ると、
「渡し賃」
 ヌッと油ぎった掌を突きだし、じれったげに、
「渡るんだろ、さ」とあごを突きだした。
 見れは夜眼にぼっと白い河の上に、四、五艘の川舟が縦に繋がれ、舟と舟の間に渡板がのせてあ
る。ここを通る人は舟と渡板の上を歩いて向う岸に渡るものらしい。
「違いますよ」私は男をみつめていった。
「私達は頼みたいことがあってここへ来たんですよ」
「違う? 頼みたいこと? じゃあんたがたはここを渡らないのかね」
 男はわけがわからなそうに腰をおとすと、改めて私達をじろじろ眺めた。
 ここに電話はないでしょうね、私が訊いた。
「電話? そんなものはないよ」
「河上で人が死んだんです。六人の人が橋から落ちたんです」
「人が死んだ?」
 男は坐ったまま眼を落した無表情な顔付でぼそりと呟いた。しばらく黙っていたが、やがて喉を
動かして私を見上げた。
「俺にそれを云ってどうしようというのだね」
 と意外な返事だ。
「分ってるじゃありませんか、死体を引き上げねば……」
「迷惑だ」
 男は低いが、あっさりと断ち切るような調子で云った。
「いいかね。私にはそんな事の手伝いをする暇はないんだ。ここに坐っていなければならないし、
それに死人に関り合うのはごめんだよ」
 河岸のよしが、ひそやかにこすれ合う音をたてていた。いつの間にか風が強くなっていたらしい。
打たれた棒くいの様に、私遥がその家の前に突ったっていると、やがて雨粒がぱらぱらと落ちかか
って来た。
「まあ、こっちにはいりなさい」
 男はうっそりと暗い夜空を振りあおいで云った。
「その女の人の持っていろ鳥は何だね」
 男は、私につづいて軒先にはいる女を見て云った。
「まえに、わしもそれに似た鳥を飼っていたよ」
 男は思い出すようにゆっくりと喋った。
「それも一羽ではなくて何十羽もね。もっと派手な羽色で、朝晩はきれいな声でよく鳴いた」
 軒下に立っていると、男の傍らにつるされた古風なランプが風にゆらゆらと振れた。
「よく卵は生むし、大切にしていたんだが、やがてつぎつぎに病気になって死んでしまった。鳥も
あわれなもんで、死んでしまうとぼろっきれと変らない。朝行って見ると、そこらしゅういくつも
転がって、じっと動かない白い眼を閉じているんだ」
 やがて、雨の匂いがひんやりと鼻をおおった。見上げれば、真黒い空の果てから絶えまなくなだ
れ落ちてくる陰惨な水の垂れ幕。それは一時の間に、いつやむとも知れぬはい然たる豪雨になってい
た。
「これじゃあ、仏は海まで流されますなあ」 
 男は急に笑い出しながら云った。
「まあ、あんた方は、今晩はここに泊って、明日は多分雨が止むだろうから、この渡しを渡って町
に行きなさい。歩いてものの三十分だよ」
 雨水はみるみる道路一杯にひろがり、急速に河へ向って流れ下っていった。雨足に叩かれる河が
白くぼっとかずみ、女はしゃがんだまま眼を半分開いてそれを見ていた。鳥も驚いたように急に身
震いすると、首を伸ばしじっと黒眼を見開いていた。
「ふれふれ、何もかも流れるがよい」私はそう思ったが、やはり同時に(明日雨が止んだら町に帰
らなければならないようになる)
 と漠然と考えていた。
 男は時々立って、河の方へおりていき、舟の水をかい出していた。
 そして、とうとう雨は夜中じゅう降りつづき、夜が明けてあたりが白んで来ても止まなかった。
私達は土間に入れてもらい、湿った畳の上でしばらく横になった。
 眼が覚めた時、雨の音は止んでいた。閉め切った戸を開いて外へ出ると、昼近くの直射光線がき
らっと落ちて来て私の眼を眩ませた。私は女を起すと、ゆうべの内にひもで結んでおいた鳥を渡し
て表に出た。
「やあ行きますかね」
 昨夜から一睡もしなかったらしい男が番台から声をかけた。
 河は昨夜よりずっと幅も広がり、水量も増し、黄色く濁った水はごうごうと音を立てて流れてい
た。
 男が手を大きく対岸の方へ伸ばし大声で喋っていた。
「この渡しを渡ってどこまでもまっすぐ行けばすぐ町につきますよ。そこには警察もあるし、昨夜
の事を話せばすぐなんとかしてくれるでしょう。御覧のように私は勤けないんで、あなた方ご自身
で行って下さい」
 私は一晩厄介になった礼を述べると規定の渡し賃を置いた。さあと、女を促して渡板を渡り始め
た。渡板はしなり、両側でかたかたと明るい音を立てて鳴った。板の表面は昨夜の雨を吸って、黒
い色に湿っている。私はふと、足を停めた。あたりが静かだった。昼近くの陽が真向うから照らし
ていた。女は私のすぐ後ろで、私の腕をつかんで立っている。その瞬間、すべての時が停止したよ
うな奇妙な感じを受けて、私は立ち止ったのだが――黄色い水は、やはりごうごうと凄まじい速さ
で私の足元を流れていた。
 私達が三艘目の舟に飛び下りた時だった。激しい水流に押される舟を繋いで張りつめていた綱が、
ふいにぷつんと切れる音がして、急に舟がぐっと縦に流された。すると同時にもう一端の綱もたわ
いもなく千切れて――あっと思わず重心を失くして、もろともに舟底に打ち倒れると、舟はくるく
ると廻転しながら河の真中をぐんぐん流れだした。
 眼も眩むような速度と廻転だった。起き上りも出来ず、舟底に打ち倒れたままの私の眼に凄まじ
いまでに真蒼な空が大きく迫った。
「おおい」
 渡しの男の声が、その時遠くから聞えた。
 突然、さっと風を切る音がして、女の腕の中から鳥が飛び立った。それは、まるで今までこの峙
を待ちかまえていたような、ためらいのない力のこもった飛翔だった。
「………」
 女はかすかな溜息に似た嘆声で、その鳥の黒い影が次第に空の一点に吸いこまれていくのを呆然
と見送った。
(この舟は海までいくんだな)
 とりとめもない私の心のうちに、そんな考えが一瞬浮び、思わず微笑したのだが、眼は、見えな
くなった鳥の小さな影を探しているのだった。