黒いマント(前)

 何かものを眺めるとき、たいていいつも、その眺めている視点のことも一緒に考えてしまう――
これは、私の永い習慣になっていた。そんなことをしてなんになるのか考えてみたこともない。た
だ自然とそうなってしまうのだ。眺めているのが私ならば、その私を見ているもう一つの眼、それ
は他人。正確に云えば私に意識された他人の眼だ。少し前まではそれは価値の観念だった。しかし
それは今は違う。何の普遍的な価値もない他の存在の意識そのものに過ぎない。平たく云えば世間
の常識という奴。それが私の意識に影響を与える。
 兄に話せば笑われるだろう。私と違って気位も高く思惟的な兄。常識など頭から軽蔑しきった兄
には。だから兄は旧制高校の黒いマントを着る。あのごわごわした黒いマントでどこにでも出かけ
る。その頃まだ幼かった私はそんな兄の後姿にどんなに憧憬を感じたことだろう。あの黒いマント 
に象徴された高遠な思想も、その誇りも! 私には同じことだった。今にいたるまで、兄のあの不
可解な自殺すらも、黒いマントにその隠れた意味を読みとってしまうのはそのためかも知れない。
 あの頃、兄はよくうず高く書籍の積まれた部屋に閉じこもり、一日中食事にも出てこないことが
あった。時折、そんな兄を二、三の友人が訪れ、外語まじりの言葉で何やら話してはそそくさと帰
っていった。あれはいつだったか、常になく甲高い声が兄の部屋から聞えてきたことがあった。不
明瞭ながら、友人の言葉に対して兄が懸命に抗弁している様子だった。私はその時初めて、兄が私
など想像も及ばぬ世界にはいりこんでしまったのだなという感じを抱いたのだった。
 兄は決して優しい兄ではなかった。むしろ意地の悪いところのある酷薄な性格の持主だったかも
知れない。しかし、私はそんな偏屈などこか変った所のある兄を見るのが好きだった。兄の傍にい
ると何故か心が温まり私には欠けた勇気も自然と湧いてくるのだった。
 自殺した兄の遺した黒いマントは、今は私のものになったこの部屋の壁にある。無言に、しかし
何か物云いたげにぶら下っている黒いマント。
 今夜はひどく冷える。
 私は、そっとマントを釘からはずし、私の体を覆ってみる。ごわごわした温かい感じか全身をし
めつける。私は次第に暗くなる部屋の中で、マントを着たまま頭をかかえる。そして、痺れたよう
な頭の中で考えつづける。兄は何故、死んだのか……。
 
 黒いマントを着て、そのかぼそい梢を空に拡げている樹の幹に倚りかかり、眼を閉じたその男の
頬に灰色の空の光が落ちる。死んだような午後の曇り空を映して、前方には動かぬ湖水、その向う
は赤茶けた森だ。
 男は草の生えてない土手の斜面を降りると枝につかまり黒い水を覗きこんだ。
 〈この水には、まだ魚が住んでいるだろうか〉
 男は一瞬とまどい、それから手を放した。暗黄金色の波斑が幾重にも乱れ、男はせつなげな苦し
い息を吐きだし、間もなく水面から消えた。
 やがて――とき色の光が男の横わっている石の上に漂い、無数のこまかな泡が黒マントの間から
立ち昇っている。男は夢見るような半眼でそれを眺め、物憂そうにしていた。
 ひらめのような形の魚が、男の前をふわふわ泳いできて不意にそいつが歌うように喋った。
 〈To be or not to be……〉
 身をえびのように曲げると、男の鼻先に立ち止って訊く。
 〈何をしてるんです〉
 〈別に何もしてないさ〉
 男は肩をゆすって答える。
 〈To be or……〉
 来た時と同じようにひらめは泳ぎ去った。
 男はあくびをして立ち上ると、驚いたようにあたりを見廻した。とき色の光がうっすらと漂うあ
たり、男の影がゆれ、不定形に崩れたまま逃げまどっていた。
 男はゆっくりと足を踏みだした。そして宣教師の足どりで歩む。
〈とき色の光はどこから来るのか〉
 汚れたナプキンのような庭草と、穴だらけのいまにもぐらりと倒れそうな岩の間を通り、
〈その光はどこからくるのか〉
 不意に眩暈が男を襲った。男は新しいとき色の光の中でよろめきつつ立ち止っていた。眼の前に
立ち塞がった黒い巨岩の割れ目からこんこんと流れでる光の滝、湧き拡がるとき色の光の虹。男は
罪人のように肩幅をせばめ、そこから這いこんでいった――。
 雲。ああ金色の雲。夕立ちの後の晴れた空にちぎり投げられた、勇ましい輝きを放つその雲。果
てしない空を見上げつつ、男は歩いてとある川に出た。白い蒸気を絶えまなく吐きだしている川。
露に濡れた緑草がつややかに輝き、柔かい葉ずれの音を立てていた。
 男は腹這いになり、鼻先を川に突きだして水の匂いを嗅いだ。
 〈まるで故郷のように優しい匂いだ〉
 追憶が男の胸を甘ずっぱく満たし、男は酔ったように眼を閉じた。
 耳を擽る葉ずれの音が次第に高まり、いつか聞きなれない話し声に変る。男はふと薄眼を開けた。
 互いにからまった白い腕、白い足、胴体、今にも透きとおるかのように絹糸の光を放ち、眼の前
にかぶさっている正体不明のもの。
 男はそっと手を伸ばしそれに触れようとした。するとパッと飛び散ったそれ。こんどははるか遠
くの方で、今は一人ずつ離れたまま取巻いている精霊たち、子供。
 男は顔をもたげて叫んだ。
 〈おおい、何故逃げるんだ。俺だって、ほれこんなに〉
 身軽いぞと飛び上ろうとしたが、無様に黒いマントは広がり、まるで呪われた悪魔の申し子のよ
うに、大こうもりのように男は醜いのだ。
 〈ハハハハ〉
 はじけるような軽い爽やかな笑い声をたてて、透通る精霊たちは空を舞い、男のまわりを飛びま
わる。一方男は、のたうつような低い姿勢で草原を駈けずりながら独りごちる。
 〈ああ、この鬼ごっこには、こたえられない面白さがある!〉
 〈おい、ぶら下がれ〉
 その時、別のあくどい声がして、光った爪が男の前に降りてきた。上で、トンボの擬態をしたヘ
リコプターが唸っている。
〈よし、こんどは俺も飛ぶぞ〉
 男が爪に手をかけると、ヘリコプターは男をぶら下げたまま、いくつもの山や川や森を越えて飛
んだ。
〈ああ、俺は落ちる、落ちる〉
 そして男はほんとに落ちた。茂った草むらの中に、パラシュートの役割をしたマントとともに。
 草むらの中から伸び上ると、ダムが美しい半眼のように切り立つ山の間に沈みこんでいる。岩山

の上を先刻のヘリコプターが虫のように小さく震えながら動き、やがて向う側に吸いこまれた。す
ると恐ろしい音がダムの向う岸からとどろいた。
 いつのまにか、鳥のくちばしのような月が白くかかっている。黒いマントは茂った草の間に身を
沈め、青ざめつつ眠った――。
 時を刻むかすかな☆音がして、円い八ツトをかぶった男の黒い影がじっと覗きこんでいた。背後
に月の光を背負っている。
 〈落ちたんだよ、ヘリコプターが、幸いにな、俺はパラシュートで降りた。俺は刑事さ〉
 やにわに手を伸ばし、光る輪を男の手にはめた。
 歩いているうちに夜が明けた。街の建物が黒々と薄明にそびえ、労務者の一群が固まって傍を通
り過ぎた。刑事の円いハットが眠そうに傾ぎ、黒いマントは朝風にバタバタとあおられた。
 前方に街はふくれ上り、上空にこまかなゴミが舞い上っていた。街角で一隊の白シャツが駈けよ
り、カメラの砲列をしいた。刑事は不機嫌に手を振り、黒マントは馬鹿々々しく笑った。いつのま
にか、二人は白いむく犬のような顔付の群衆に囲まれて歩いていた。雑踏の中で、刑事の円いハッ
トが、突然空へ引っぱられたかのように飛び立った。燦然たろ禿頭が朝日に浮かび上り、刑事は急 
に陽気に囲りの人達と挨拶をかわし、勇躍として歩いていった。
 さまざまの疑いが、暗い留置場にいる間中黒マントの頭を支配していた。何故生きているのか、
死んだ筈ではなかったか。何故捕えられているのか、何の罪でだろうか。汚れた壁のしみは、奇妙
な暗号のように、夜になるとやせた人の形で踊り出すのだった。
 時折、冷たく鳴る鍵の音と共に少量の食物が差し入れられ、或る時は尋問のために呼びだされた
が、それも何のことを聞かれているか少しも分らなかった。そして眠られぬ夜の明け方には犬の遠
吠を聞いた。
 或る日、円いハットの人物がやって来て、突然扉が開いた。
 〈疑いは晴れた。君は青天白日の身だ〉
 そして黒マントはやたらと明るい街に出た。見知らぬ街だった。途方に暮れていると、八方から
車が飛んできた。乱暴な言葉を投げつける運転手。旋回しながら飛びまわるスクーター。電車は一
直線に道の真中を突走り、道の両側のビルのどの窓にも、白いむく犬のような顔が見えた。
 高い塔の上で、気球を上げようとしている男か下へ向って叫んでいた。
 〈もっと水素を、もっと水素を〉
 また、空中で自転車のペダルを踏んでいる男がいた。その男は、あまり前に進むことにとり憑か
れたため、空中に舞いよってしまっていた。また、コンクリートミキサー車の上で演説をしている
男がいた。かと思うと、交通巡査をトランペットで脅かしている男もいた。
 不意に背中を叩かれて振り向くと、見知らぬ女が太鼓の形のハンドバッグを肩にぶら下げて無意
味な笑いを浮べていた。
 〈何です〉
 黒マントはかすかに眉を震わせて聞いた。

 〈何ですとは何さ!〉
 女は仰山にそり返って笑いだした。
 黒マントは走りだした。正体不明の腹立たしさで眼の前が暗くなっていた。白いむく大のような
顔が不意に現われては飛び退った。頭の中で唸っている一匹の蝿に追っかけられるように走ってい
ると、突然、スコップで足をすくわれて転んだ。「工事中」という横長の標示が斜めに眼に飛びこ
んで、歪んだアンテナの鉄骨が青い空に跳ね上った。
 〈そんなに急いでどこへ行くのです〉
 道路の真中にぼっかり開いたマンホールの穴から、低い声が響くと、円いハットの人物がゆっく
り這い上ってきた。
〈あ、あなたですか〉
 黒マントはせきこんで尋ねた。
 〈いったいどっちです。私はどこから来たんです〉
 〈ああ、そのことですか〉
 円いハットは当惑したようにうすら笑いを浮べると、
 〈そのことだったら、私も同様知らないんですよ。全く、この街ときたら、まるで偶然の要素だ
けでできている迷い小路みたいなもので。でもひょっとしたら、あのビルの屋上からでも見えるか
も知れませんね。あなたの探しているものが〉
 〈おかしなことを云う人だ。あなたは何だか主体性がないみたいですよ、でも〉
 黒マントはふと眉をひそめて尋ねた。
 〈あなたはその穴の中で何をしていたんです〉
 〈なーに、あんまり暑いから涼んでいたんですよ〉
 刑事は円い帽子をかぶるとそのまま立ち去った。
〈まるで、意味がない。意味がない〉
 黒マントはとあるビルのエレベーターに駈けこむと、もどかしく天井を見上げた。
 屋上につくと、男は四方の手すりから眼をこらして遠くを眺めた。しかし湖らしいものは見えな
い。見えるものはただ、地平線の果てまでびっしりと埋まった大小無数の積木細工、煙突とテレビ
アンテナの林だった。
〈えへへへ〉
 屋上のどこかで笑い声が間えるので見回すと、一人の男が寝そべったまま雑誌を読んでいた。
 黒マントはつかつかとその方へ歩み寄って訊いた。
〈あなたは誰なんです〉
〈え!〉
 男は驚いて本から放して眼をしばたいた。
〈私は広告屋ですが、何か〉
〈えっ、広告屋?〉
 黒マントは男の傍の手摺につながった気球を見て一礼した。黒マントはただ何となくこの男の超
越的な態度に胸をむかつかせたのだが、それもこの男の仕事からくるものなら仕方がなかった。
 気球の監視人は、また横になると本を取上げ、改めて笑いだした、
 黒マントはいらいらとコンクリートの上を歩きまわった。
 街の騒音が急に大きく立ち昇って来た。黒マントは自分の頭を叩きながら、うるさい、うるさい
と叫んでいた。しかし、うるさいと叫ぶ黒マント自身は、死んでいるのか、生きているのか。すべ
てをはっきりさせるためには、ここから飛び下りて下の舗道に頭をうちつけてみればいいのだが、
そうしてみた所で、こんな曖昧な街では思うような決着が得られず、結局、死に切れない幽霊のよ
うな存在になって、この街の得体の知れない付属物に化してしまうかも知れない。そう思うと尚更
に空恐ろしく、最初に死の決意をした例の湖のほとりが無性に恋しくなってくるのだった。
〈あなた〉
 気球の監視人が呼びかけていた。
〈すみませんが、気球を見て戴けませんか、食事にいってくるので〉
〈はあ、どうぞ〉
 黒マントはぼんやりと答えた。
〈しっかり見ていて下さいよ。綱が切れたら、どこに飛んでいくか分らないから〉
 男はそれだけ云い残すと階段から消えた。
〈どこへ飛んでいくか分らない?〉
 黒マントは独りごちた。
 〈なるほど、こりゃあ偶然だ。気球は偶然、俺は偶然にここにやってきたのだから、偶然のため
に帰れるかも知れない。そうだ、偶然!〉
 黒マントは、手摺の綱をほどくと、体に巻きつけ屋上の端から飛ぶ。
 〈偶然よ、さらば!〉
 すると、気球は屋上よりも高く、さらに高く昇り、この街の上に垂れこめた雲をつき破り、雲の
上に出て、流れ、やがて、雲の下に、あの湖か見え、その傍にうすら白い空に梢をひろげたあの樹
が見える。あの樹の下から俺は飛んだのだ。
 しかし、黒マントがそこまで考えた時、事実は落下の過程にあった。気球には、黒マントを中空
にとどめる揚力すらなかった。黒マントは屋上のはずれから、まっすぐ地面に向って落ち、結局は
地面を血で染めた。
 眼をあけると、ぎっしりと集ったむく犬のような人の顔が見えた。ふと、何やら顔に当たるもの
があった。雨が降っているのだった。雨は容赦なく口に流れこんだ。取り囲んだ群衆の後の方で、
円いハットの人物が、ゆっくりと帽子をはずし、丁重に挨拶するのが見えた。黒マントは、それが
自分の父親に似ているなと思いながらも、穏やかな微笑で礼を返した。しかし、それで最後だった。
黒マントの男は、こんどこそ確かな死の中に包みこまれたのだから。