マイク(94)

kuromura2009-09-27

 私は口下手だ。沢山の人が集まったところで、何かを話そうとすると、頭の中で色んな観念が勝手に暴れだし、いっぺんに口の外に出ようとする。聞いている人は、何をわけが分からないことを言ってるのだろうと思うに違いない。その場の状況を見ながら、あるいは、その場の雰囲気により、順序だてて話すことができないのだ。
 そんな私が講演を頼まれた。困った。困った。どうしよう。
 講演の日、私が会場に着くと、入り口に立っていた知らないおばあさんが言った。「お待ちしてました、どうぞ」。がにまたで歩くおばあさんの後から、建物の中に入って行くと、突然、おばあさんが振り向いて、私の口に飴玉のようなものを押し込んだ。「気分が落ち着く薬だよ」。
 エレベーターには乗らず、おばあさんの後から階段を上っていった。階段は上るにつれだんだん狭くなる。おばあさんの尻が雄大に揺れる。最後の五階に着くときは、人一人がやっと通れる幅しかなかった。天井も低く、まるで下水管の中を潜り抜けていくようだった。思わず口に出た。「どうしてこんなところを行かなきゃならんのか、まるでおれは芋虫だよ」。「ゆっくり、ゆっくりね」。おばあさんの顔がにたりと笑って消えた。とたんに広い場所に出た。
「みなさん、見えられました」美人の司会者が声を張り上げた。
 私は話し始めた。どうやらどもりもせずに、私は話していた。理路整然と。音声朗々と。かねがねこう言いたいと思っていたことを、そのままはっきりと、大勢の聴衆の前で口にしていた。不思議なことだった。
 このような名演説がどうしてこの頭の中に入っていたのだろうか。また、うるさい野次にもめげず、一つ一つの論点を明確に指摘して、ついには全会場を納得させた、押しの強さと政治力はどうだ。まるでこの私が他人の夢を見ていたような案配ではないか。そのときやっと、私は、ここに来るまでの狭い階段のことを思い出した。入り口で会ったおばあさんのことを思った。そういえば、あのおばあさん何処に行ったんだろう。