セレーネーの馬

 俺は、この街のはずれに十年住んでいる。
 がらくたの寄せ集めみたいな処で、どこといってとりえはない。曲りくねった暗い小路の両側に
は倒れかかった軒並が続き、ペンペン草の生えた瓦屋根の上では、雀がしたり顔に跳びはねている。
 この地方の自治体の職員として、俺は書記の椅子に八年間坐ってきた。何か特別、人生上のめあ
てがあるでなし、殊更思い切ったことをやるのでもなく、ただ漠然と日々の仕事に追われて過ごし
たにすぎない。
 人付合が悪いので友達もなく、三十にもなるのに気のきいた色恋の昧一つ知らない。
 二、三年前、どうした事か、いきつけの安食堂のはあさんと話をするようになったが、半年位で
えげつない口論をして、それっきり会いもしない。                        
 それというのが、お互いとるに足りない個人生活にくちばしを突っ込みすぎたためで、時がくる
と、やはり振り出しから、気まずい相手に過ぎないことが分ってしまったというだけの話である。
 ばあさんも、何かを求めようとしたのだが、それ以上に自分の生活が大切だったのだろうし、俺
は俺で、ばあさんより若い自分を気負っていたので、ばあさんごときにうつつを抜かすのは世間体
のことを考えても恥かしく、実はおっかなびっくりだったのだ。
 以来、以前にも増して口の重くなった俺は、ばあさんの毒気をかぶったまま、何か街自身の汚点
のように、特別そこにしみついた具合に暮している。
 街の人は俺を見て顔をそむけて通る。まるで俺を見ることによって汚されたかのように――つま
り、これは俺の病気のせいだろう。
 メフィスト・フェレスの云い草ではないが、全く人間という奴は妙だ。ことにこの生き物の病気
ときたらそれこそ千差万別、千の病人がいたら、そこに千の病気があるんだ。
 俺の病気はその中の一つ、気の弱さから来る不治の病だろう。
 俺はある古びた門を知っている。すこし前まで旧陸軍の士官達がくぐった門だ。恐ろしく頑丈な
造りで、四方の巨大な角材には鋲が打ってある。ある夕刻、仕事帰りの俺は、その前にぼんやり立
っていた。(断っておくが、俺はしばしば歩行中に立ち止って、物をじっと見詰めるくせがあった
のである)
 ちょうど雨でも降ってきそうな空模様だった。真黒にすすけ、――いや、真黒にコールタールか
なんかを塗りたくったものの上に埃が付着したのだろう、――いかにもすばらしい重量感をもって
聳えたっているその門を見上げているうち、俺は、一種特別な気分になっていた。
 それは、この門の意味や歴史への考慮でも、俺自身の或る種の感慨でもない。
 一種特別な気分――何かこの門自体に生命があって、この俺に語りかけているような感じ、こっ
ちの心の動きをとめ、彼自体の生命の中に吸収しようとする感じなのだ。
 ――今でも思うのだが、あの時、もうしばらくでもあのまま立ち止まっていたら、何か重要なこ
とが起ったかも知れないと思っている。
 最初は殆んど目には見えない位の腫瘍が、当の本人が何も知らずあたりまえの暮しを続けている
内に、どんどん見えない皮膚の下であたりの肉を食いあさって広がり、遂には片足を、また片手を
切断しなければならなくなってから初めて気付くといった種類の病気はままあるものだ。
 現実が耐えがたいものに思える時、俺はときおり本屋に立ち寄って表題の文字を眺め、コーヒー
の匂いのする喫茶店の一隅に坐り、音楽に聴き入ることがあった。
 音楽の律動が、或いは書物の表題からくるイメージが、街の圧力を克服する勇気を与えないまで
も、それらは俺に、安らぎの場所を暗示しているような錯覚を起させた。
 現実的な快楽を欲していないわけではなかったが、ただ俺のような臆病な心をもつ人間は、不意
の生々しい現実に立ち向うと、全くどうしてよいか分らないほど狼狽して、自分でもわけのわから
ない衝動からふいと身をそむけてしまうのだ。

 或る朝、俺が下宿で新開を読んでいたときだった。妙に含んだような低い笑い声が聞えるので、
何気なく窓の方へ眼をやると、そこに茶色の毛を全身に生やしたいきものが窓枠一杯に立ち上り、
歯を剥き出してこっちを見ているんだ。
 いったい何だか訳が分らないまま、ぼんやりそいつを見詰めていると、みるみるそのぶ厚い唇が
まくれ上り、汚い柔毛の垂れ下った頸と思われるあたりが走るようにひくひく動くと、不意にそこ
から最前の笑い声が低く聞えてきた。
 はっと息をのむと同時に、とてつもない恐怖の念が俺をとらえ、いっとき俺はそのいきものの頚
のあたりから眼をそらすことが出来なかった。
 (笑っている! 咽喉を震わせて)
 ぽかんと口を開けたまま、まじまじとそのいきものを見ている内、次第に空恐ろしい気持に全身
を縛りつけられていくのをどうすることも出来ず、俺は急いで窓から眼をそらすと、一心に目の前
の新聞を読もうとしたんだ。口には呪文のように、(いったい、このいきものは何だ。このいきも
のは何だ。何だって人が新聞を読んでいる所をぎょうぎょうしく窓に立ち上って見るんだ)と呟き
ながら。
 しかしなんと、窓を塞がれて、暗い部屋の中で新聞を読んでいるというのに、早く立ち去って貰
いたいと思っているのに、そいつはいっかな窓を離れようとしない。
 俺がなるべくそのいきものと眼を合わせないように気をつけながら横眼で見ると、そいつはまだ
太い眼玉をぎょろつかせながら、俺や、俺の読んでいる新聞や、部屋の中を物珍しげに見廻わして
いるんだ。
 気味の悪い奴だ。全くうんざりする。そういつまでも立ち止っていられてはかなわない。何とか
追っぱらう算段はないものか。俺が窓枠に近づいて、この新聞をパッと振ったらびっくりして逃げ
はしないだろうか。全くこのままでは落ちついて部屋にいることも出来ない。新聞さえ読めやしな
いじゃないか。
 俺はそう思ったから、そっと立ち上ると窓際へ歩いていって、横を向いたまま新聞をぱっと振っ
てみた。
 すると、どたりとそのいきものが下へ落ちる音がして、続いて、去っていくかつかつというひず
めの音が聞えた。不思議に思って見送ると、それはなんと馬さ。それもごくありふりた馬車引きが
尻尾を蹴立ててとっとと道の向う側を走っている。

 そのことがあってから、あまり窓から外を見なくなった。俺の意識の中で窓というものに対する
観念が変ってきたんだ。
 それまでは、四角な枠の中の街の風景をガラス越しに眺めることによって安心していたんだ。
 ガラス越しに見るものは、単に眼にとまる存在の影に過ぎぬので、例えば、暗黒の中で声だけを
聞くのとではすこし違った心理的なニューアンスがある。
 色彩にしても、音にしても、ただ単にそれだけを感覚することは純粋状態でしかあり得ないが、 
それにしても、音が殆んど聞えない、或いは眼にはいるものが殆んどないという状態は普通ではな 
いのだ。                                          
 眼を失う、或いは聴覚を失くすということは確かに損失ではあるが、残された感覚はそれだけ砥
ぎすまされ、失われた感覚をおぎなおうとするに違いない。そのためには、これまでの自己の体験
がすべて動員され、口をあのように開けばどのような音が出るかということに想像の力が及ぶに違
いない。
 主観的な感覚、受け取られた感覚そのものでなく、考えられた、想像された感覚が余儀なく起り、
存在自体は多分――主観的な観念として受けいれられるに違いない。
 それが自己にとっては(もともと自分の生んだものだから)安心が出来るということになるのだ
ろう。
 だが、俺は生々しい現実に対する様々な期待を、全く失ったわけではない。とぎすまされた剃刀
のような神経をもって現実の中に分け入り、血みどろの戦いの中で己れも他もずたずたに切り裂か
れた状態を夢見ることもある。
 しかし、ほんとうはそんなものはみんな嘘だ。俺はもっと臆病で、卑劣で、虫ずの走るような自
己愛着で一杯の人間なのだ。
 だから、日当りでうつらうつらしている年寄りのように、実際の行動はたった一人で部屋に閉じ
こもり、レコードでも聴いていた方がいいと考えてしまう。
 音楽に飽きれば、窓の中の間伸びしか風景を眺めればよい。そこには、俺にとって丁度いい位の
刺戟を与える現実がある。俺は同じ場所に坐ったまま、何一つ傷を負うことなしに人生という奴を
体験できるのだ。
 俺は間違っていたのだろうか?
 最初の不安がそれだった。
 窓に対する観念、俺自体への評価、更に現実というものの可変性への誤った認識、狂っているの
は世界ではなく俺そのものではなかったか。
 馬の出現以来、これまでの自分にわずかながら反感を覚えるのだった。
 そんな時、誰かに見透かされている感じが起り、窓に眼をやると、たいてい馬の黒い影が外を通
っているのだった。
 或る晩のこと、ドアの外でゴホンゴホンと喘息のようにつまった咳音がして、ここを開けて下さ
いと小さくいう声が聞えた。
 俺の部屋には訪問者はめったに来ない。
 俺は例の馬だなと思ったので、尚一層鍵を堅くつめた。
 馬は、こんどは、風邪を引いていますので火にあたらせて下さいという。
 新開も読みたいんで――頼むような調子だ。
 変った馬さ。                                         
俺は、ふと開けてやる気になった。こういう奇抜な仲間を持って見ることも面白いかも知れない 
し、それに、新聞を読める馬を連れて街の中を歩いたら、さぞ愉快だろうと考えたのだ。
 俺は、静かに這入るんだぞといいながら鍵をまわし、戸を開けた。
 多分――俺にはその時、自分に対する加虐的な気持もあったのだろう。――
 馬は、一と月前からみると、毛も艶々と身綺麗になり、その上、礼儀も知っているらしく、今晩
はおそく上りましてと口上を述べたてた。
 机の前に連れていき、椅子をすすめると、馬は最初のうちはどうしてよいか分らぬ様子だったが、
やがて、机の上に前足をカッチリとあて、後足を折り曲げると、出来るだけ尻を突き出してどうや
らおさまった様子だ。
 しかも、失笑を禁じ得ないのはその恰好ばかりではなかった。
 彼は、新聞をその大きな左右の眼を交互に使用して読み、時々面白い写真かなにかが出ていると、
その度ごとに紙を吹きとばさんばかりの勢いで溜息をつくのだ。
 一方、俺は彼の付添役然と傍に腰かけて、新聞を裏返したり、別な新聞を下ろして来たりしてい
た。
 彼は、いかにも満足げに、その黒いまつげをしばたいて云った。
 まあ、なんて凄いんだろう、人間というのは。こんなに毎日多種類の事件を起したり、計画した
り、何かを作ったり、また、それを批評したりするんだものね。けれど……。
 彼はそれに弱々しくつけ加えた。
 馬なんていうのは、何て仕方のない屈従的な哺乳類なんだろう。これじゃあ人間に鞭で使われて
も文句は云えない。
 でも、そう悲しむことはないさ。
 慰めてやるべきだと判断して、俺はいった。
 君等は鞭で使われることに不満を抱くことがあるかも知れぬが、こっちから見れば、それはかえ
って羨ましいみたいなものだ。自分の意志で行動するというのは案外難事だぜ。
 しかも、馬だって、君のように向上心に富んだ馬がいるんだ。今に、馬の方が人間より賢くなっ
て人間を支配するようになるかも知れんさ。もしそうなったら……。
 もし、そうなったら!
 励ましが利いたのだろう。みるみる生気をとり戻した馬が、尻尾を振り立てながら叫んだ。
 うん、そうだ、馬が世界の支配者になったら、きっとそれは愉快な国に違いないよ。
 俺は、心の中で、こいつめ何てのはせようだと、おかしくてならなかったが、とにかく人間の社
会はつまらんとけなし、未来の馬の国の実現を心から期待していると云ってやったら、その時は自
分は大統領だろうから、お前は必ず自分の秘書にしてやるうと、滑稽にも約束すると、その晩はそ
のまま帰っていった。
 一方、残された俺の気持は妙な工合だった。なまじっか冗談半分に調子を合せ、はい、有難くお
受けしますなどと云っているうちに、どうやら彼のペースに巻きこまれ、馬の野性の清新さに惹か
れる反面、人間国家に対する不信、嫌悪の念が一層深まったようだ。
 側面からいって、例えば、都会では年々子供の数が少くなっているという。またフランスでは女
は子供をもちたがらないといわれる。
 そうすると、文化が発達し、人間が進歩する程、人類の内部でそれ自身を滅亡に導く何者かが育
って来るということがいえるのではないだろうか。
 機械文明の喧騒と多忙から、人間の自己分裂的傾向は広がり、年々、自殺者や、精神病患者の数
を増大させているといえるではないか。
 更に、原水爆の実験によって惹起されるまだ知られない影響、止まるを知らぬ資本の利潤追求か
ら誘発される戦争、社会と個人との間に今までになく深まっている溝、その他さまざまの、人類に
とっては存亡の危機に係わる問題が、未だ徹底的な解決の方策を見出せぬまま放置されていること
――果して、これらの事柄を考慮にいれても、まだ人類は安全だと云えるだろうか。
 爬虫類が第二氷河期の波に押し流されたとすれば、その後に出現した哺乳類の支配者である人類
は、次の第三氷河期を迎えるや否や氷の下に閉じこめられ、すべての交通は遮断され、いかなる量
の燃料も焼石に水で、そのまま倒壊した建物の地下室で、枕を並べて飢死するようなことになるか
も知れない。
 人類は万物の霊長といい、他の動物を我物のようにあつかっているが、最後はやはり彼等と運命
を共にするようになるだろう。
 もの云わぬ彼等のまなざしは、いつも語っているではないか、――お前も、やはり我々と変らぬ
動物だ。動物の域を脱し、神への昇化を願うお前も、やはり食べて、交って、最後は死なねばなら
ぬ儚いものの一族ではないか――と。
 かような事をとりとめもなく考えているうちに、俺は憂うつな気分に陥ちこんでいくのだった。
 自分のことを考えても、俺は人間社会を嫌って孤独の内に身を落し、必要な用事がないかぎり外
へも出ず、音楽を聞いたり、文学書を読み耽って暮しているが、いったい、こんなことが何になろ
う。単なる時間潰しに過ぎないのではないか。
 或る朝、熟睡の眠りが日か高く昇っても覚めず、いつまでも覚めず、そのまま永遠の無感覚な眠
りの世界へいってしまったらどうしよう。
 眠っている内に、体がだるくてならず、起きようといくら努力しても体がいうことをきかず、ず
るずると死の蒙昧の内に引きずりこまれてしまうようなことがあったら、取返しがつかないような
気がするではないか。こうして考えているうちにも、死は突然足元をすくいとるかも知れぬ。その
時、詩や、音楽が俺を救ってくれるというのだろうか。
 俺は、すでに暗くなっていた道を街の方へ下りていった。じっとしているのが不安でならず、絶
えず騒がしく動き廻っているものの中で、自分も、自分の考えている事柄も忘れてしまいたかった。
 街は深い霧に包まれていた。
 霧の底で、各々さそりの眼玉のようなライトを点した自動車が不気味に蠢いていた。霧の中から、
突然電車が現れ、ごうごうと俺の傍を走り過ぎた。
 大通りを折れて暗い小路を通り抜ける時、危く黒い塊にぶっつかろうとした。抱擁し合っている
一組の男女だった。
 俺は野良犬のようにあてどもなく歩いた。暗い軒並から明るい軒並へ、明るい通りから暗い通り
へと。不意に横合いから、俺の肩を掴んだ者がいた。彼は酒臭い息を吐きかけて俺を覗きこむと、
大丈夫かと何度もしきりにきいた。
 俺はあかりの消えた飾窓の前に立ち、自分の顔を探して見た。臆病な猿のような顔が暗い表情を
浮べてこちらを見ていた。
 その晩、俺は酒に酔って帰った。
 そして、その次の晩も。酔いの味を一度覚えるともう忘れられないのだった。俺は毎晩酒を飲み、
明方近い街を歩きまわった。
 酔うと、いつもは暗くどんよりと澱んだ川も、月の光を浮べてすばらしく美しかった。
 俺は橋の上から自分の影を見下ろして哄笑した。すると澄み渡った反響が答えて、馬鹿々々しい
程大きな声で笑った。
 そのようにして、飲酒と狂乱の月が一つ経った。
 俺が馬の三度目の訪問を受けたのは、最近すっかり狂ってしまった体の調子に気も滅入り、しよ
うこともなく、のろのろベッドに這いこもうとしていた時だった。
 ノックの音も何故か聞き洩らし、重い椅子を引いて振り返った時に、やっと、戸口に立っている
彼に気がついたのだ。
 俺は、ぼんやりと彼の異様な風体を見詰めたが、それが絵から抜けだしたものではなく、いつか
の馬であると信じるまではしばらくの時間がかかった。
 そこにいる彼――黒繻子のきらきら光る衣装が胴の全部を隠しているものの、得も知れぬ精気は
濡れたような体躯から舞い立ち、恥じらうかのように撫でつけられた頭上には銀色の耳輪が可憐に
輝いている。
 一方、俺の方はといえば、飲み屋の借金の払いや質屋のかたのために、古いよれよれの背広をど
うやら着こんでいるだけで、それもところどころ綻んでいたり、つぎがあたったりしているんだ。
 優しくいたわるような眼差しに射すくめられた俺の耳を、その時爽やかなバリトンがくすぐった。
 どうですか、あなた、最近は、ずい分御無沙汰致しましたが。
 え! まあなんとか。
 俺は夢から覚めたようにびっくりして叫んだ。
 えーと、そうそう、新聞はここにありますよ。それから火鉢も。
 すっかりどぎまぎしてしまい、そわそわとすすめる椅子に、彼は首を振りながら云うんだ。
 いいえ、今夜はいいのですよ。もうそんなに寒くはないし、それに私はもう新開は読んでいませ
ん。どうやら、すっかりあなたを驚かせたようですね。
 驚いたもなにも。
 俺は不意に口ごもり、まじまじと彼の顔を見守って尋ねた。
 いったい君は、あの馬なのか。
 そうですよ。
 では、どうしてそんなに変ったんだ。
 すると俺のむきになった気持が伝わったのか、馬は急に笑いだしながら云った。
 ちがいますよ、変ったのはあなたですよ。
 まさか。
 俺は馬の云う意味が掴めなかった。
 ほら、あなたは。月光のマダムを知っているでしょう。月光食堂。
 あなたはあの女主人の気持を素直に受け入れなかった。あなたの中の卑劣なエゴだけを大事がり、
それを越えることが出来なかったんだ。それからですよ。あなたが変ったのは。
 卑劣なエゴ! 
 俺はあざ笑った。
 では、誰がそれ以上のものを持っているんだね。
 誰でもですよ、ただ、あなたは動かない自分の影を見ているだけだ。自分の影で街を汚すだけ汚
し、今はその観念の影におびえている。
 まるで、自分でこしらえた罠にはまったようにかい。
 そうです――あなたは退屈なんですか。だったら何故、窓を開いて外へ出ていかないんです。私
にはあなたが分らない。
 俺は自分の城をこわしたくないのだよ。
 まさか! もうあなたの城はぼろぼろですよ。あなたは裸じゃありませんか。
 ふと、彼の声が変ったのに気付いて、振りむくと、馬は涙を目にためているのだった。
 セレーネー、セレーネー、
 窓越しにわずかに覗いている夜空へ向って彼は叫んだ。
 眼に見えない幾十もの油虫が這い上ってくる感じに俺は身震いした。
 セレーネー? いったい何だ。
 宙に在る眼に見えぬ者への感謝の眼差しを送りながら、彼は囁いた。
 私には、はっきり分るんです。あなたが私の傍に在り、私の下頸に手をかけていられることが。
あなたは或る美しい月夜、私に一つの問いを投げた。眠って生き永らえることと、生きて短かく終
ることのどちらを選ぶかと、私は、後者を選んだ。私は選んだ後もしばらく迷っていたが、いまに
して、私は自分の選んだ道が正しかったと知ったのだ。
 あなたは、また別の美しい月の夜、私に人間の肉体を与えることを約束された。今日がその日で
す。私はそろそろ約束の場所へ行かねばならない。しかし、私はまた迷っているのです。犠牲なし
になり得ないとすれば、私は他の入間の肉体を奪わねばならないのでしょうか。それならば、私は
このままでもいい。どうか私をこのままにしておいて下さい。私は人間にならなくともいいのです。
 なんだって!
 それまでひそかな羨望の眼差しで馬を見上げていた俺は、万雷が降りかかったような衝撃に思わ
ずよろめいたのだった。
 馬が……馬が人間になる。しかも、俺よりもけるかに優れた!
 俺の頭の内は激しい嫉妬の血が煮えたぎり、神の恩寵を受けた馬への憎悪感がこみあげてくるの
をどうすることも出来なかった。
 俺は、彼には在って私にない神を罵しりつづけ、絶望したあげく、机の上に身を伏せると、それ
からは、さまざまの愚痴とも泣言ともつかないことを長いことならべたに違いない。
 とり乱して泣きわめいている俺の首筋に、ふと冷たく当るものを感じて俺は振り向いた。
 馬が後ろに立っていて、静かに彼の湿った鼻先を押しつけているのだ。
 俺は涙をふいて彼の眼をじっと見詰めた。すると、彼の長いまつげの下の黒い眼差しは、やはり
じっと俺の眼を見ていた。
 俺は、手を伸ばして彼の長い首にとりすがった。
 そうだ。彼は俺の友達だった!
 俺は彼に頬ずりし、新たな涙で彼の黒い頬げたを濡らした。
 彼は優しく囁いた。
 いこう、僕と一緒に。……火の山へ、そこで僕は人間になる。
 
 火の山だ。
 馬は、私の傍を歩みながらいった。
 火の山?
 俺はじっとそれを振りあおいだ。
 俺達の前方に、黒い山々か峯を連ねていた。その中程に、ボッと頂上のあたりを明るく染めて、
円錐形の山が聳えていた。
 俺達の歩いていく道が、夜眼に白々とその方角へ続いている。
 俺は立ち止り、耳を澄まして、山の火が燃える音を聞こうとした。
 まだ遠い、あそこに着くのは真夜中過ぎになるかも知れない、と馬がいう。
 俺達はしばらく無言で歩いた。
 馬が思いついたように云った。
 馬は四つ足、人は二足、そうだ、僕の背に乗りたまえ、そうすればもっと早い。
 みるみる左右の山が後方へ飛び、円錐形の山が迫ると、いつか溶岩台地の上を走っていた。
 硫黄の臭気が流れ、全身の温みを感じる問もなく、俺達は火の山の頂上近くに在った。
 大きく口を開いた奈落が眼下に切り立ち、鉱漿のたぎる音が聞えてくる。
 俺の傍には、やはり彼が下をのぞきこんでいた。時折、舞い上る焔の明るみの中で、黒い彼の体
も、いまにも燃えたつかと思われるほど、赤く透きとおる。
 俺は焔を見詰めた。
 真赤に焼けただれ、崩れ落ちる巨大な岩石の下から凄まじい勢いで噴出する新しい焔を、飛び散
る火の粉を、生きもののようにうねり上ってくる輝く泥濘を。
 かっては、このようなものが世界を満たしていたのだ。輝く泥濘は海へ向ってなだれ落ち、生命
を創造した。野性の後継者として、全世界へ星のようにばらまいたのだ。
 野性、野性、俺は口の中で叫んでいた。
 おおい。
 その時、俺は馬の呼びかける声に振り返って、あっと叫んだ。
 馬の黒い影が、ひらりと火焔の中に飛びこむのが見え、瞬間に消えた。
 さようなら、エンデュミオーンよ。
 かすかな風のようなある囁きが俺の耳に残され、俺は呆然と立ちつくした。
 俺が街へ帰ったのは翌日の昼だった。
 街――それは、かつての俺が見知った街ではなかった。
 もはや、街という概念もくずれ、無秩序なまま投げだされた、卑猥と正義の雑居する物狂おしい
世界が、俺のまわりで泥海のように泡立ち、渦まいたまま無際限に拡がっているのだった。