詩を創る難しさ(93)

 私は二十歳の頃から詩に携わり、長年、詩や散文詩のことを考えてきた。詩を書く、あるいは詩を鑑賞することを気持の中心に据えながら、あいまいで不安定な自分の精神生活を律してきたつもりだが、いまだにあるべき詩の形がはっきりと見えないし、詩というものが、この世の中でどんな役割を担っているかの見識すら持っているとは言えない。
 たとえば、優れた詩から与えられる、あの無上といっていいほどの精神の高揚感はどこから来るのか。さらに、作品を推敲する自分が、交互に経験する熱くて冷たい構築作業。創造の矛盾に満ちた落着かない時間などなど‥‥。詩の魅力に取りつかれた者として、これらの悩ましい課題はいつも頭を離れない。
 自明の事だが、詩は、書き手と読み手がいて初めて詩として成立する。書き手は伝えたい内容を詩の形で提示し、読み手は、書かれた章句を目で辿りながら、脳内で結ぶイメージを追って、物語りを再生していく。だから、書く側は読む側の心の動きをあらかじめ想定しながら、詩の章句の一字一句を書きつらねていかねばならない。
 若い頃は、とにかく自分の本を出したい思いだけで、まだ未熟な詩を出版してしまう人もいるが、自己満足に終ることを覚悟すべきだ。まず、身近に読んでくれる人がいるかどうかを考えなくてはいけない。詩は誰かに読まれなければ存在することもないし、誰にも読まれない詩など意味がない。
 よい詩は、書かれた内容(意味)と言葉のリズムがお互いに補完しつつ、相乗効果により、強い感動を引き起こす。日常の言葉を使いながらも、読者の共感を誘う。
 詩は誰にも分かる易しい言葉でなければと思う。作者自身にも分からないような詩は問題外だ。どんな平易な言葉を使っても、よい詩は人間や人生への深い洞察によって、読む者に喜びと生きる力を与えるものだ。
 よい詩には、必ずその中心にしっかりした思想なり情念がある。主題がない詩。詩らしさを装った詩はつまらない。真に書くべき内容がない詩、技術だけで書いた詩はつまらない。
 おうおうにして、若い詩人は自分の浅い感情や思想をそのまま詩の形にして提出する。それが自然で当然だというように。だが、私はそれはまだ詩ではないと思う。
 詩を書く上で、自分は出発点に過ぎない。自分が他者からどう見られているか。自分が他者とどう関わっているか。自分とは何か。そのような思考回路がなければ、書かれた詩はまだ、詩とは言えないと思う。
 さらにいうなら、自分がいる狭い場所にこだわる限り、詩は自由な広い空間を見つけられないだろう。他者を含めた自分。普遍的な自己。もしそのような自分を見ることができるなら、もしそのような開かれた自分であるならば、詩は、自ずと向うから訪れてくれるのではないかと思う。
 人間は、植物のように同じ根で繋がっているのではないし、蜂や蟻のような無意識の共同体の一員でもない。ひとりひとりが独自な思考回路を持って生きている存在だ。
 詩が共感を得るためには、その垣根を乗り越えなければならない。そうした意味では、詩は政治家の演説に似ていると思う。詩人の詩が人々の気持に届くかどうかは、その声が普遍性と永遠性を持つことができるかどうかに係っている。