チーコと私の病床日誌(27)

年をとると、今の自分や妻の生活に、かっての父母の生き方と年齢を重ねて考えるようになる。
妻チーコとは、昭和38年2月、家で結婚式を挙げ、新婚旅行もなく、私の父母との同居から新婚生活が始まった。私は市役所、妻は郵便局。夫婦共稼ぎで、父母と生活のペースが違うことから、台所を分け、お互いの生活に干渉しないということで、二組の夫婦の共同生活が始まった。
私にとっては父母であるが、妻にとっては義父母でも他人。結婚して初めて知る衝撃である。妻はまだ母に甘える私が許せない。もとの家には無かった隅々の埃が気になる。父母は父母で、いつもばたばた掃除ばかりしている嫁が気になる。
中の小路の迎病院で、長男が生まれてから2年、山口の温泉へ新婚旅行に行った。その頃は、家でも、妻と、父母の気持ちの理解が進み、おかずのやりとりをするぐらいになっていた。
昭和42年4月末、次男が出生。バイクに看護婦を乗せて家まで連れてくる。当時、母は胃下垂で、入院中。大変な一日。しかし、3ヶ月の産休が終わると、妻は勤めは辞めないつもりなので、早速、子供を見てもらうための人を探さねば。幸い、妻の同級生のMさんが来てくれた。
二人の子供は、それぞれ成長していく。父は保育園の運動会にも参加してくれた。日ごろ、心労をかけている父母には、日を選んで、川上の龍登園でゆっくりしてもらった。
昭和49年の3月、母が風邪からきた肺炎で、1週間で亡くなった。妻から足をさすってもらいながらの急死で、その後の父の落ち込んだ様子は見るも哀れだった。それから、1年過ぎて、父は、妻がしてあげるからというのに、自分で年金を下ろしに行っての帰り、転倒し、その後、次第に様子がおかしくなった。
父は、近所を徘徊し、妻の悪口を言いふらして歩いた。今でいう認知症だが、当時はそんな病名は無く、自治会長などは、お父さんをもっと大事にしないからと、妻を叱りに来た。とにかく、正月から、作業着のまま、あちこち出かけ、一度は妹の職場の学校にまで行ったという。
無理やり説得して、父を神野の精神病院へ連れていったのもその頃だった。父専用の部屋を別に新たに作り、誰も居ない昼間が心配だからと、看護婦会からの派遣婦を雇うことにした。父の介護と食事が主な担当の派遣婦からは、よく職場に電話がかかってきた。足が速いので、附いていくのがやっとで、今どこそこの居るので迎えに来て欲しい、という内容だった。
しかし、病院から処方薬をもらってからは、介護婦がいる昼間は、ぐっすり寝ているものだから、夜は眼が冴えるのだろう。時に、幻覚でも見るのか、奇妙な叫び声を出して、部屋の隅で震えている。茶の間で、子供たちとテレビを見ているときに、ふすまをどんどん叩く。誰も居ないからね、静かにしてね、というと逆に大声でわめく。暴れだすと、力があるので、妻や子供には危険だし、どうしようもない。はがいじめにして帯で縛ったこともある。ともかく当時は、こっちのほうも気が狂いそうで、毎晩のように、眠れない地獄のような夜が続いていた。
昭和52年3月、父が心不全で亡くなった。妻から聞いた話だが、よく、自分の若い頃のことを話していたそうで、いくらか、正気に戻っていたのだろうか。亡くなる2〜3日前、父は、ベッドに正座して、妻に手を合わせたという。
ちなみに、妻チーコは現在81歳。妻の父は72歳で亡くなったが、晩年はリューマチを病んでいた。義母は軽い認知症だったが、92歳まで生きた。すでに亡くなった義弟に頼まれて、10日間ほど家で預かったことがあったが、風呂上りの居間で、髪を拭きながら、にこにこ笑っていた元気な姿を思い出す。