鬼はそと福はうち

   鬼は外(ほ)きや
   福は内、福は内
   寿老人じんけんのすけ
   毘沙門天の悪魔ばらい
   えびす三郎左工門どのが
   金の釣竿五色の糸で
   鯛のべえべえ釣りあげた
 このわらべ唄は、佐賀の子どもたちが七福神に扮して、一月七日の夜家々を廻りながら唱えたものだそうです。
 佐賀市内の旧長崎街道筋の辻々には、今でも多くのえびす像がまつられています。この石造えびすは、そのほとんどが鯛を小脇にかかえた半伽像ですが、なかには鯛を釣り上げた形の釣りあげえびすや、仲良く二人坐った双体えびす、はては大福帳をひろげたもの、ソロバンを持ったもの、または、単に「西の宮」とかかれた文字えびすなど、さまざまな形のものがあります。えびすさんは今でも大切にされていて、その家のおばあさんが掃除してお花をあげている姿をよく見かけます。それにしても、佐賀にはなぜこんなに沢山のえびすさんがあるのでしょうか。
 さだかではありませんが、もともと信濃国の武士であった本田昭雲という人が、保元・平治の乱の折、佐賀の肥前山口の里に亡命仮寓中に、佐賀の川副荘に摂津国兵庫県)の西の宮を勧請したのが起りだそうです。現在の北川副町には西の宮という郷社かあり、そこにも古いえびす半伽像が坐っています。えびす信仰はこの西の宮にはじまり、江戸期の商家の福運と商売繁盛をになって、長崎街道筋にひろがっていったのでしょう。当時ただ一つの海外貿易港だった長崎、そこに至る街道ぞいで、石のえびすさんは忙しそうに往き来する人々を見守っていたのです。
 えびすは普通、恵比寿(須)と書きますが、もともとは蛭子、また夷、戎とも書きます。蛭子は、いざなぎ、いざなみの最初の子で、伝えられるところでは、足の悪い不具の神だったそうです。その神がなぜ福の神、商売の神様になったのか、考えると不思議な気もします。
 七日正月七福神の行事は各地によって異なり、青年が顔に鍋ずみを塗って変装したり、有田町でのように、七福神が各自唱え言を諜ったり、また千代田町のように、「七福神のご入来」と叫んで家にあがり接待をうけたり、いろいろですが、今は一部を除き殆んど昔の語り草になってしまったようです。
 同じ一月七日、現在でも広く行われているものに、ホンゲンギョウという鬼火焚きの行事があります。竹とわらでつくった小屋を正月七日の早朝、燃やして鬼を追い払う行事です。しめかざりや門松、それに書き初めの半紙なども火にくべ、子供達はその火で餅を焼いて食べます。こうすると、一年間病気にかからないそうです。燃え残った竹は鬼の目鬼の手といい、三角に折りまげて玄関先に立てておけば鬼除け、泥棒よけになるといいます。
 小正月の十四日の夜はもぐら打ちです。竹や棒の先にわらや縄を巻きつけ、主に男児達が各家の庭先で唱え言をはやしながら土を打ってまわりますが、これは豊作祈願や、悪霊を払う儀式として今なお行われています。
 同じ十四日に、蓮池町でカセドリの行事があります。夜半、白布で顔をかくした二人の青年が、蓑と笠をつけてカセドリになります。カセドリは先を細く割った青竹を持ち、土足のまま家に上がりこむと、両ひざをつき腰をまげて、青竹で激しく床を叩きます。酒が差し出されると飲み干して、カセドリは走り去りますが、他に提灯持ち、天狗面持ち、御幣持ちの青年が同行して「大福帳七福神」の帳簿を配り、餅や祝儀を受けとります。この行事は本来は小正月の行事だったのが、近年は二月十四日の夜行われているようです。
 この行事の由来ははっきりしませんが、カセドリの役になったものは他人に知られぬよう更衣し、またその者の顔を見ると縁起がよいというところから、カセドリは一種の神と考えられているようです。
 冬が終り、背振山や天山の雪どけ水が、佐賀平野の川に流れこんでくるころになる三月から五月にかけて、水神まつり(ヒヤーランサン祭)が行われます。川や堤、クリークの岸に四本の笹竹をたてて柵をつくり、ウナギやナマズ等の川魚の絵をかいた白紙をそえます。また藁で直径五十センチほどの舟を作り、供物をのせて流すところもあります。水神は農業の神でもありますが、クリークの多い佐賀平野では、子供を水に引きこむ神として恐れられています。現代のようなしらけた時代になる前は、佐賀平野の数多くの河童の話は子供たちをこわがらせたものです。こわいものを想像できなくなった今の子供達が可哀そうですね。