電鉄みどり号(72)

 とにかく忙しい日々だった。そこは四方の山々に、白い崖が切り立つ新開地。
 ある朝のこと寝坊して、駅の改札口から電車に飛び乗った。
 慌てて駆け込んで、はて、入口を間違えたか。青天井の車内はさんさんと降る日光。緑したたる若葉の間を爽やかな風吹き抜ける。これではまるで花電車。これで会社に行けるのか。その時、ベルが鳴り渡り、やおら鼻声で告げるアナウンス。
「この電車間もなく発車します。つぎは思い出駅、つぎは思い出駅」
 ーそれにしても、あの声どこか聞き覚えあるような。椅子の縁台から伸び上がれば、揺れる藤の花すだれの向こう、ドアのそばの車掌が敬礼する。
 ーおお、あれは幼なじみのくにおくん
 あの無口でおとなしいくにおくんがと、思わず吹きだした。 
 ああ懐かしい。今を押し流す思い出の洪水に呑まれ、目を閉じると、つむじ風どどつと巻き上がり、草花一緒にぐるぐる回って電車が走る。 
 それまで後ろ姿しか見せなかった運転手が振り返って、にたり。あれは同級生のけんちゃん。やっと 間にあったねと席の向かいで、しげちゃんも笑っている。田中君、佐藤君、中溝君みんな揃って笑っている。
 電車が走る。走る。億万光年の世界へ向って。花の電車が走り続ける。裏返しになった、記憶の風景の中をまっしぐらに。

「亘」「亘」誰かが揺すっている。その声は妻なのか。亡くなった母なのか。会社に遅れますよと、揺すってる。揺り起されている今の自分は果たして誰なのか。どこにいるのか。どこにいるのか。どうにも分らない。