チーコと私の病床日誌(13)


平成27年2月16日、 妻がホームに入ってから、布団箪笥の中に押し込んであった衣類は、昔の父母の箪笥の中へも整理したが、以前から、妻が貯めこんだ物(切手、はがき、写真、領収書、カタログ、年金通知、手紙、はがき…等々)は、皆、その時々に、沢山の菓子箱の中に入れてあって、その一つ一つを開けて、不要なものは捨て、必要と思われる物を分類し、保存するのは大変な作業だ。
 まだ、箪笥の中の写真、ネガ類、押入れの引き出物や焼き物。私自身の古い雑誌書籍もある。でもこれは、私たちの死後、子供たちの負担になることだから絶対にしておかねばならない。妻が絶対に触らせなかった妻の物を今、私かふうふういいながら整理しなければならないとは、なんとも皮肉なことだ。 
2月18日。やっぱり諦めないといけないのだろうか。妻の認知症が進んでいるようだ。ココナッツオイルは効果がないのか。 リハビリヘの意欲は無いし、会っても、食べることだけにしか関心がない。昨日はパソコン持参で昔の写真のスライドショウをしたが、関連するような話も出なかった。「また来るからね」の別れ際にもいつもの生き生きした表情がみられなかった。哀しい。 
2月19日、 考えてみれば、一昨日の「Mさんから風呂に入れてもらった」はどういう意味を持つのだろうか。Mさんは男の管理者だ。いつもは看護婦から入れてもらうのだが、忙しかったのだろう。…女にとって、男から風呂に入れてもらうというのは、リハビリなどとは違い特別な意味をもつのだろう。妻は、私の気持ちを確かめたのかも知れない。 あなたはこれでいいのかと。チ−コ、ごめんね。 
2月20日、 ホームに電話。ちょうどMさんが出たので、妻の状態を聞く。今朝も私と冗談を言ったりして元気だ。 とのこと。風呂はこれまでも何度か入れているということだ。私の思い過ごしのようだ。 。
2月22日、ホームに電話してから、すこし気が楽になった。妻が、悲しく淋しい思いをしていないことを知り、ホームで第二の我が家のように過ごしていると思うと、これまでの、張り詰めていた気持ちに余裕が出てきた。これからはいつも、妻のことばかりを考えることはないのだ。 
2月23日、 妻は、もう元のようにはならないだろう。私には、リハビリしていると言うが、ペットの手摺を握らせて立たせても、すぐ座ってしまう。人の介護に甘え、自分では努力せず、楽に暮らしたほうがいいのだ。考えてみれば、家に居る時も、ほとんどなにもせず、テレビばかりを観て過ごしていた。やはり、K病院の院長が言っていたように、その頃から、認知症が進んでいたのだろう。冬の長い夜、若い頃の妻の写真の整理をしながら。 
3月1日、テレビを観てもいらいらする。スーパーのおかずはうまくないし、天気は悪いし。妻に会いたいが、会えばがっかりするのは目に見えている。今は、半分ほど済んだ妻の写真の整理だけが苦しい生きがいになっている。妻は、過去は過去、自分は未来のことだけを考えると言うが、私は、そう簡単に、割り切ることはできそうもない。
3月5日、昼過ぎから、山椒とそけいの花、写真集を持ってホームへ。食べるものが無くなったところで、朗読のCDをかけ、説明しながら写真集を見せる。記憶は弱くなってはいるが、まだ有る。 
3月10日、年記の書いてない年の記録を見るため、妻の日記を探していたら、押入れの中から、また、写真とフイルムが沢山出てきた。旅行の案内やカタログはあるが、当の日記は見付らからない。 
3月11日、妻の日記が、次男の部屋のユーパックの箱の中から見付かった。ただし、2002年と2003年の分か無い。 
3月16日。 部屋に掃除機をかけた。このところ悪天候が続いて、布団干しもできないが、掃除と洗濯は定期的にするようにしている。妹に電話した。また、病院に入院でもしてないか、気がかりだった。 
3月18日、朝起きて顔を洗い、それから仏さんの水を替える。仏壇の前に座り手を合わせる。急に、妻のことを思い、涙が出て止まらなくなった。甘い、感傷の涙。昨日は、久し振りの暖かい好天気で、一日植木の剪定をした。その疲れもあるだろう。レンジでパンを焼き、コーヒーを飲みながら、パンを食べる。煙草を吸う。もうあらかた、写真や日記、妻の物の整理は済んだ。まだ、押し入れの中があるが、それは、ゆっくりやろう。 
3月19日。妻のところに行った。例によって、物を押し込むように食べるのに、いくらか余裕がでてきた感じがした。ココナツオイルのせいだろうか。色々話してもろくに受け応えしなかったのが、ちゃんとこっちの話に乗っている様子もある。いらいらした気持ちが無くなってきた感じもした。 ミモザや利休梅、椿など花も替え、気持ち良く帰れた。嬉しい。 
3月23日夜。妻を自転車の後に乗せて、泥道を走っている夢を見た。私たちはそれぞれの職場に向かう途中なのだ。 しかし、何故自転車なんだろう。何故車じゃないんだ。滑らないように、倒れないように。凸凹の砂利道を懸命に走っている。私たちの自転車に、並ぶように走る自転車があって、まるで競争でもするのか、ちらちら男がこっちを見ている。
3月29日、庭の松の木の剪定。車検に出していた車が戻る。
3月30日。朝、妻がしていたように花を活ける。今の花は、利休梅、そけい、海案など。玄関の机の上と台所のテーブル。コーヒーを飲みながら、花を見る。妻もいつまでもこんな風に毎年、元気に咲いてくれたらと思う。今度の木曜日、外出の申請を出した。予報では、いい天気ではなさそうだ。桜の季節。どうか晴れますように。
4月2日。今日の外出は良かった。予報の曇り空が奇跡的に晴れ、昼からのドライブは、嘉瀬川べりの満開の桜の花が歌っているようだった。家で車椅子に移り、久し振りの庭を散歩できたのも良かった。相変わらず食べるものを欲しがるが、週に一回だけだ。菓子や苺。それから川上を上り、熊の川の昔の家のあたりを回った。帰りに淀姫神社に寄り、白玉饅頭を食べ、4時ごろホームに帰った。 20個入りの白玉は、いつもお世話になっているMさんに渡した。私も、多少風邪気味で薬を飲んでいる。 
4月5日。 朝8時半にホームから電話があり、妻が左足が痛いと言っている。骨折しているかもしれない。病院で検査してもらう、という、今日はちょうど日曜日で病院は休みだ。ホームに行ってみると、妻はベッドに寝たまま、足を縮めている。向こう向きに、いかにも孤独で寒々とした感じだ。私か来たと分かると、例によって、お菓子をねだる。出掛けに、ポケットに入れてきた菓子を食べさせ、左足の付け根を揉む。痛いと言う。起きて車椅子に乗りたいというので、大丈夫かなと思ったが、ベッドの枠をはずし、起こして、私の首に右手を回し、しっかり抱えあげて、車椅子に乗せた。多分、我がままで、起きなかったのが、今度は淋しくなって、のことだろう。明日また来るね、と言って帰る。何事も無く良かった。
4月7日。 今日は布団を干し、部屋に掃除機をかけた。仏壇の花を替える。それから妻の好きな花を活ける。庭の里桜や、水仙。有難うね。毎年、いつも忘れずに咲いてくれて。 
4月16日。 ホームヘ、石楠花を持って行く。入院者の「石楠花よ」という声が聞こえる。食堂の洗面の前と、部屋に活け、病院で、自分の診断を受け、その後、小城まで、妻が食べたいと言う饅頭を買いに行った。今、妻は、元どうり車椅子を使っている。先生に聞くと、別に骨折などの異常はないそうだ。
4月19日。妻が、菓子箱に保管している古いレシートなどは処分したが、中には、旅館の領収書や電車の特急券などもあって、何時、どこに行ったということが判然と思い出せる懐かしい資料だ。 日時を裏付けるものとして、写真帳に添付することにした。今日の川掃除は雨で中止になった。自治会費9千600円を班長に渡す。 
4月30日。今日は、1週間目の妻の見舞いの日だが、2週間ぶりの私の診療日と重なっている。血圧表を持って、車で高橋の交差点へ向かう。近くに県病院が来てから、相変わらず車が多い。ここの信号は、自動では変わらない押しボタン式だ。ボタンを押さないと、西からの車の流れは止まらない。幸い、今日は押さないで渡れた。
 嘉瀬元町の信号から左折。9時半、三階建てのS病院に着く。車を駐車スペースに置き、受付に行き、しばらく待つ。ここは、入院の患者が主で、通院の患者は、たまに、リハビリに来る人ぐらいだ。待合室のテレビを見ていると、事務室の若い男が傍に来て、今、診療医が忙しく、あと、小一時間掛かると言う。
 仕方がない。妻のところに持っていく菓子も、昼から行く積もりで、家に置いてある。車に戻って、鍋島駅南のスーパーに行き、おはぎと自分用の弁当を買って、家に戻った。また、写真の整理をする。写真に目付けがあるもので、場所が特定できないものがある。妻の日記と照合して、判ったものは、シールに書いて張る。写真の中の妻が笑っている。この作業は、面倒だが楽しい。
 気がつくと、11時。もう行かねば。S病院に行くと、血圧測定、診療の後、先生から話があった。あんたは連れて帰りたいのだろうが、それは無理。共倒れになる。足も手も固まっていて、リハビリしようにも本人が痛がってできない。これはすべて認知症から来るもので、今は、トイレにも自分で行こうとしない。食欲はあるが、体は回復する見込みはない、と。
 昼から、妻のところへ行き、部屋で、金子みすずの朗読CDを掛け、大好きなおはぎやもみじ饅頭を食べさせながら、涙が出て止まらなかった。何故?とも言わず、ただ、食べ物を催促する妻が哀れだった。