煙(65)

 家族が囲む食卓でもし湯気が立っていなかったら、食事は寂しいものだろう。暮れかかる山里で落ち葉や草木を焼く煙が見えなかったら、そこには人が誰も住んでいないと思うだろう。煙はいつから公害と呼ばれるようになったのか。
 近年、ゴミの中に、プラスチック製品やゴム類が多く含まれるようになって、これが、燃える時に厭な臭いを出すという事情もあって、煙は、今多くの周辺住民から目の敵にされている。街のマンションに住む家庭の主婦にとっては、化学製品を燃やす時にでる黒煙は洗濯物を汚す大敵でもある。
 人間は、昔から火を扱うことによって、進化してきた動物である。火と煙は人のDNAに温もりを与える。一時の判断や大方の意見によって、落ち葉焚きや掃除焼きの煙までも公害と断定していいものだろうか。
 煙は、ものを燃やす時に当然出るものである。だから燃やしたければ、焼却場があるではないか、という意見はもっともである。
 しかし、身近なゴミのなかには、プライバシーとして人の目に触れさせたくないものもある。例えば、葉書や手紙、領収書、記録文などの紙類は単なる燃えるゴミとして、出しにくいものである。 
 また、家の周りの草や剪定した木、落ち葉などは、そのままにしておけば、やがては腐って土に帰るだろうが、その間に菌が繁殖し、虫も発生する。草木や落ち葉を焼いて、後の灰を、畑に撒けば、土壌の消毒にもなるし、作物の成長を助ける働きもする。灰は有機栽培には欠かせない物質である。
 夕暮れ時、街のあちこちから漂う落ち葉焚きの香りは、年輩の者にとっては昔懐かしい時代の香りでもある。
 落ち葉焚きの煙から、煙草の煙まで、人々の生活の中から、有害なもの、無益なものが排除され、直接人間の暮らしに役立つものだけが許される。多様な人の生活が画一化されて、味気ない世の中になってきた。