部屋(56)

 ひけしぼう男が部屋で這いつくばって本を読んでいると、不意に玄関で咳払いがして、背広姿の親戚がやってきた。なにやら手みやげを差し出し、お元気のようでと言うのでまあぼつぼつでと応え、あとは黙っていた。
 どうせこんどの選挙のことだろうと、思ってはいたが、昔のことなどしんみり話しだすのでつい話に乗ってしまった。
 結局、将来の高級サラリーマンになりたいというかの人をよろしくと云うのを、二つ返事で安請け合いし、決められた日は、約束どおり投票に出かけたが、悔しくもはがゆいおつきあいの季節であった。
 それからは人に会うのが厭になり、誰が来ても絶対に出まいと、部屋にこもっていると、だんだん、何もする気が起らない。どこにも行きたくなくなる。読書だけは苦にならないが、長いこと寝そべっていると、身体の節々が弛んで、胃や腸が重苦しい。加えてこの頃は、飛蚊症とかで、目の中に微細な黒点があっちこち浮遊しはじめている。
 静かな匂いのたちこめる梅雨の季節、あじさいの花だけが空しく美しい。男の部屋は、この世界のどこからも遠ざけられ 疎んぜられた趣きだった。
 そんなある日、白い手袋をした見知らぬおんながやつて来て、男の所在を尋ねたが、誰も居ない部屋の床には、青い影だけが静かに眠っているのだった。
 おんなは、しばらく部屋の中を子細に眺めていたが、ふふとあざけるように笑い、黒い手帳を取り出してなにやら書き付けると、そのまま帰っていった。
 街中は相変わらず積み木を並べたように、整然と区分されている。ここ二丁目五番十二号、がらんとした男の部屋で、影はゆっくり床から壁に伸び、やがて次第に透きとおり、秋も近くなったある日、誰もいない部屋の窓から、あるともないうっすらとした煙が空に立ち昇っていった。