時間(お休みの合間に)(37)

 地は東へ沈み、陽が昇る。やがて、風が吹き、海が波立つ。思えば、すべてこの地上の現象には何か因がある。しかしここに、何からも影響されず、単独で存在するもの、「時間」がある。
 「時間」はどこから生まれたのか。この疑問に答えられる者はいない。それは人の認識の外、この世界の構造そのものに関する疑問である。しかし、もし「変化」というものが無かったら、「時間」も無に等しい。「時間」は我々には、物質の変化という現象を通して認識される。「時間」は、この世界に存在するすべての物のなかに入り込んでしまった「特性」、あるいは、流れる方向が定まったある「傾向」のような趣きがある。
 ある形を保ち続けようとする「物質」のなかにあって、その形を崩し、別な形に変化させようとする役割を「時間」は担っているようだ。時間が物質に与える作用は、物質内部の生成、変化、老化、崩壊、などであり、それは、物質同士の生存をかけたたゆまぬ戦いによって具現される。
 このように見ると、時間は物質と同じ次元にあるのではなく、より高い次元から物質を支配しているように見える。我々は時間を支配できない。それどころかいつも時間に支配されている。時間は止まってくれない。我々は時間を止めることはできない。「時間」は目に見えないし、手に触れることもできない。遮ることができぬし、それから逃れることもできない。そのうえ我々は、時間を生みだした原因を知ることがない。
 時間はどこから来て、どこへ行こうとしているのか。そもそも時間とは何か。しかし振り返ってみれば、「時間」は「物質の変化」によってのみ意識されるものである。であれば、時間は、単に「物質の属性」に過ぎないとしてもよいではないか。
 空間が物質の占める「領域」にほかならぬように、「時間」は物質自体が始めから持っている性質にほかならないのではないか。
 つまり物質が無ければ「時間」も「空間」も存在しないのだ。われわれ物質は「空漠とした時間の流れと空間の広がりの中から」生まれたのではなく、物質こそがそれらを産み出してきたのではないか。
 時間も空間も、物質とともに生まれ、物質の内側と外側を満たし変化をうながし、物質とともに消滅する。有限の世界であるこの世界では、すべての物質は有限であり、時間も空間も、限りある存在でしかない。恐らくは。
 (物質と精神) 物質の成り立ちを考えるとき、いつも行き詰まるのはその起源をどこに置くか、またどこからが物質と呼べるのかということについてである。物質が他の物質を産み出すことは良く見られることだが、いちばん最初の物質を産み出したのは果たして何なのか。アインシュタインは、エネルギイ=物質と言っているが、ではエネルギイを産み出したものは何なのか。原因があってこその結果である。原因のない結果などはないはずである。何もない無から有に転化するもの。それには精神のほかに介在するものがありえようか。
 私には、この物質が支配する世界に重なって、もう一つの世界−精神が支配する世界があるような気がする。それは目にみえないがいつも私達の背後にあって私達を動かしているに違いないのだ。
 (ブラックホール)遠い銀河星団の渦巻の中心に光さえも吸い込むブラックホールが在るという。何億光年という気が遠くなるような向こうの話ではあるが、しかし周りの物質のすべてを貪欲に吸い込み続けるその引力は凄まじい。そこからは光も抜け出すことができず、そのためその中で起こっていることは誰も知ることができないという。それほどの引力を生みだす物質の密度はどれほどのものか。いったいその質量はどのくらい在るのか。考えても想像できない。
 そのブラックホールは周りの物質を吸着することでさらに引力を増し。さらにより多くの物質を吸い込むだろう。そうしてますます巨大になったそれは、最後に自らの重みに耐え切れず、爆死して幾億万の星になるという。 
 (オーラ)原子が集まって物質となる。またそれが化学的に結び付いて生命体となる。こうした働きには、それに方向を与えるある力が関与している。物質や肉体の生成・維持に関与する力とはプラスのオーラであり、その崩壊に関与するのはマイナスのオーラだ。オーラはこの宇宙に充満するある精神の波動であり、人の目には見えないが、常に物質や生命に影響を与えている。