SF(エッセイ)

     SF

 いかにももっともらしいが、現実の事柄として考えると、は
て、どんな意味があるのだろうと考えこまざるを得ない考証例
がある。
 メビウスの輪は、表をたどっているものが、いつのまにか裏
の方へまわってしまうのであるが、クラインの壷(つぼ)は、
内部に存在しているものが、いつしか、外部の空間へ迷い出て
しまうという、いわばロジックの仮想世界だ。本屋の店頭に並
んでいる、三次元世界から四次元世界への通路とか、光線の進
路を曲げ、時間をとじこめてしまう中性子星ブラックホール
とか、火星と木星の間に存在したといわれる第五惑星人の話と
か、読んでみるとあまりにも興味本位の書かれかたで、なにか
大切な視点が失われているような気がしてならない。
 古典的なSF作家H・G・ウエルズの宇宙戦争に登場する
未来人にしても、「海底二万哩」ネモ艦長にしても、そこには
人類愛というべき雰囲気(ふんいき)がただよい、最後には、結
局現実の自分の生活に戻っていくことができた。もちろん当時
とは時代のきびしさがちがうといわれればそれまでの話ではあ
るが、今のノンフィクションSFは、ただひたすら時の危機感
をあおり、人類そのものの存在を軽く扱っている。やがては崩
れ去る天体の上の所詮(しょせん)は微細な有機物だろう。し
しかし、それにしても人間が、小さい世界での日々をせいいっぱ
い生きつづけていかねばならないという事実には変わりない。
 メビウスの輪は、ただひたすら表の街道をつっ走る科学を、
ちょっと裏返して皮肉ったものかも知れないし、クラインの壷は、
この行き詰った地球の姿を外側からながめて笑っている形かも知れ
ない。