チーコと私の病床日誌(100)

8月30日〔水)晴、気温33度。今日も暑い。
9月3日、近頃は、大抵夜8時に寝るが、今朝はまた役所の夢を見た。課長になったが、席を部下に譲り、廊下に出る。挨拶。昔の同僚の名が思い出せない。県の美術館のような建物。自分が帰る部屋が分からず、ぐるぐる探して歩く。8時半〜9時、NHKの日本百名山利尻山」を見る。山に行きたいが、一人で、淋しいだろうな。
9月7日(木)昼から、テレビで、中国=殷と周の甲骨文字に記された、当時の歴史を見る。太公望ってほんとに居たんだな。
9月12日(火)詩誌「扉」の詩は、全般、中身が薄い印象。前はもっと言葉の一つ一つが生きていたような気がする。Mさんの満州からの引揚げ記録「お父さん、ありがとう」は怖くて重い。人間は、大宇宙を小さくした小宇宙だから、雑念を払って素直な気持ちになることで、大宇宙の根源に触れることができる。詩を創るということは宇宙のリズムと同化すること。宇宙の隠れた意志を言葉で表現することではなかろうか。
 
宇宙の思念
宇宙はすべての原因だ。物を生成、崩壊しながら、自己増殖する生命も育てる。生命は進化して、知性を持つ人間が、宇宙の仕組みに知的好奇心抱くようになる。宇宙の思念の中に、この知性が想定されていたのだろうか。
この世界に、初めに存在したものが物質ならば、その物質を何が生んだのだろう。
物質というものは形の存在で、生まれては壊れる有限のものだ。まだ形にならないものこそがこの世界の本質で、この宇宙は無限の世界だ。宇宙は可能性を秘めた存在で、常にある形を生成する。私たちは、形ある有限の世界に生きているので、形ある物しか認識できないし、宇宙の永遠の時間を想像することもできない。
宇宙を創ったものは何か。そもそも何も無いところに何かを創ることなど出来ろものなのか。私たちは変化し、進化する世界に生きているので、そのきっかけとなるものを想像してしまうのだが、この宇宙は、有為転変を繰り返す存在として、始めから在るものと思うしかないのではなかろうか。
この宇宙に果てがあると思うのは、物質の世界の常識に囚われた考え方と言える。宇宙の果てを考えれば、きりがないので、この宇宙には果てはないと思うほかはない、としたら、ここは、物質が支配する世界ではないということになる。
在ると言えばあり、無いと言えば在る。この宇宙は「在る」「無い」とか言う概念そのものを超えた存在なのだろう。

伊勢花火