眠りの中へ‥‥(休みの一時的中断)(36)

(音楽)どこかでゆるやかに音楽がなっている。その調べはいつか頭に刻み付けられた旋律に似てとても甘く懐かしい。わたしが生まれる前から聞いていたような音楽だ。それはどこかの風の音にも似ているし、静かな川のせせらぎにも似ている。その音楽を聞いていると、なぜだか心が安らいで眠くなる。いや眠くなるというより、まるで生まれたばかりの赤子にかえってしまって、ゆりかごの中でまどろんでいるような趣きだ。ああこのまま一生を送っても悔いはない。眠ったまま死んでもいいじゃないかと思う。
(眠くなる)本を読んでいても、日だまりにいてもすぐに眠くなる。気が緩んでいるのか、歳を取り過ぎたのか、それとも、もうすっかりこの世のことに飽きたのか。とにかく眠くて仕様がない。うつらうつらしていると、不意に横合いからドナルドダッグが現われ、いっときがあがあ騒いで通り過ぎていく。あひるが一羽と口の中で呟くと、ひょっこりまたもう一羽同じようなのがやってきて、その後からも続々やってきて、ついに賑やかなドナルドダッグの行進が始まった。
(仮面)落ち葉の中、見慣れぬ男が横になっている。もう随分以前からそこで眠っていて、顔の表面は白い陶器のようにひび割れている。こそりともしない林の中。蜥蜴がちろりと走る。乾いた落ち葉の間を、尻尾をぴりぴりさせて走る小さな蜥蜴。ああ、この小さないのち。裸樹の下のまだらな光と影を縫って‥‥彼はふとたちどまり、前をうかがう。(あれはなぜ、ここにいつまでもいるのだろう。風雨に晒された白い仮面ー眠ったままの男はどこから来たのだろう)そのことは、ここを通るたびに気にかかることだがー。蜥蜴が落葉の下に隠れたその時、迷い込んできた風のため、落ち葉が宙に舞いあがる。りりり、落ち葉の間からこおろぎがとびだし、仮面は砕けて飛び散り、その下からどこかで会ったような男(私)の顔が現われる。 
(森)ひとり氷の上を滑っていた。向こうに暗い森が見えるが、あれは私の森。私ひとりの深い森。あそこに行けば私はほんとの私になる。いま私は自分が誰だか分からないが、あそこにつけば私は自分が誰か分かる筈だ。ここは幾十年にわたり凍り付いた湖。青く透き通った氷の中に、閉じ込められた魚や水鳥が見える。かれらもまた自分を探してさまよい
森に行き着けぬまま、ここに封じ込められたのだろうか? また激しい雪になって、行く手の森が見えなくなった。
(魚)突然足の下の氷が裂けて、私の体はみるみる水の下に沈んでいく。それにしても冷たさはあまり感じない。私のまわりにはさまざまの魚たちがいる。しきりと私の腋の下にもぐりこもうとするもの、興味深そうに寄ってくるもの。細いうなぎが身をくねらせて斜め上に泳いでいった。視界がはっきりしないなかで、泡が立ち上っている。その泡の向こうで鎧魚が喋っている。ーおまえはだれなんだーどこからきたのだーじいじいと機械仕掛けのような声がする。しかしそう言われても答えようがない。その無機質な黒い目をじっとを見ていると、ああ俺はやっぱり死んだんだなと思う。
(眠り岩)絶えず波しぶきに曝されているその岩を、誰が眠り岩と名付けたのか‥‥。その白い岩は、頭上に松の樹を戴き、風の音を聞きながら、海辺を見下ろす崖の上に永いこと座っている。人の頭の形をした岩は、いまにも落ちそうに前に傾き、その下の胴にあたる岩塊が、崖上から真っ直ぐ切り立ち、その先は折り重なって泡立つ海中に没している大小の石。ここは普段から人影もなく、海はごろごろと大抵いつも荒れている。