自画像(23)

 冬のある日、アトリエの前のベンチに腰掛けて、一人の老人が、向うのひときわ高い山を眺めている。もう一時間にもなるだろうか。老人は動かない。
 山は鋭く尖っていて、ところどころに積った雪が白い筋になって見えるが、あとは凍りつき、切り立った岸壁で、折からの朝日を受けて紫色に染まっている。
 岩山の全体が宝石をちりばめたように輝いているので、向こうの空は‥‥実際は明るい紺色なのだが、ずいぶん暗く見える。
 老人は‥‥八十歳を過ぎているだろうか。ベンチに掛けたまま動こうとしない。いったい何を考えているのだろうか。
 老人はこのアトリエで何十年も暮らしている。パンや日用品を仕入れるために、時折麓の街に下りていく時のほかは、誰とも会おうともせず、黙々と山の絵だけを描くといった暮らしを続けてきたのだ。
 やっと、老人が立上がった。彼はそのままアトリエに入っていく。
 老人は画架の前に腰掛け、絵筆を取って何か描きはじめた。
 老画家は夕方までかかって一枚のキャンバスを塗り上げたが、これが彼のこの世での最後の作品になった。
 というのは、彼はその次の日から、外のベンチに姿を見せなくなってしまったから。
 彼の乾涸びた肉体が、遠い親戚によって発見されたのはかなり後のことである。
 老画家は、最後に何を描いたのだろう。
 キャンバスを覗いてみると、そこには山羊革のチロリアンハットをかぶった少年の顔が描かれている。
 利発そうな顔立ち。角張ったあご。二つの大きな耳。いっぱいに見開いた双眼。おやおや、これは幼い頃の自分じゃないか。
 それにしても‥‥‥この目‥‥。虫眼鏡でよく見ると、二つの青い瞳孔には夏と冬の岩山が小さく描かれていた。