キャンバス(90)

 妻が、庭に水を撒くときれいな虹が架かった。子供が歓声をあげて庭を駈け回る。犬がけたたましく吠えて後を追う。
「おいおい、濡れちゃうぞ」
「暑いから平気だもん」
 洗濯物が干してあるので、そこらじゅう清潔ないい匂いがする。
 私はキャンバスに向って絵を描いている。
「何を描いているの」
 傍に寄って来た子供はまだはあはあ云いながら、その目はどこか遠くを見ている。
「山だよ」
 ごみごみした都会を離れて、私たちは二年ほど、山が見える高原で暮らしている。ここは白樺の林の中。すぐ傍に小さな湖がある。 ここで私は、ずっと山の景色ばかりを描いている。 目に映るのは、うすい色合いの錐形が連なる山々。白い雲が円く取り巻いて、あそこはまるで神の国のよう‥‥。 
 私はふと、キャンバスから目を離し、絵筆を置いて、あたりを見回した。なんだかへんに静かだ。
 洗濯物を干したまま、妻はどこに行ったのだろう。傍にいた子供や、あんなに吠えていた犬もどこに行ったのか‥‥。
 どこか遠くでピアノの音。白い蝶が一羽迷いこんできてキャンバスに止まった。
 しかし、妻はどこに行ったのだろう。子供は、犬は‥‥。 
 家族の姿がないキャンバス、青い山の向こうはやはり青い空。水色の絵具が溶けていく空のかなた。かすかに氷の稜角が見えるが、それは山の冷たい氷壁
 突然思った。
(私は何のために生きてきたのだろう)
 これまで私は山ばかりを描いていた。ここは、私の終の住処なのに、ついさっきまでいた家族の姿はなく、一人ぽっちだ。私がここに住んでいるのは何のためだろう。
「ぼくたちも描いてよ」
 その時、遠くから子供の声がした。温かさが戻ってきた。