いのち(論考A)(22)

 死後の世界を見た者はいない。生きている誰もが最後に行くところなのに、誰もがその世界を想像するだけで、ほんとうのところを知る者はいない。考えられることは、そこが物質というものがまったくない国ということだ。物質のない世界、それはどんな世界だろう。ものの存在によって起こるさまざまな現象ーたとえば空間とか時間、引力などもそこにはないだろう。過去も未来も、大きさも広さも重さもそこにはないのだ。としたらあとは何が残るのか。記憶あるいは感情は残るのだろうか。
 それは眠っているとき見るあの夢に似ているのだろうか。それは物質=肉体から解き放たれた精神の世界なのだろうか。夢の中で拾った宝石を持ち帰ることができないように、ひとはこの世で得た富や権力や地位をあの世まで持っていくことはできない。それらはすべて物質=肉体を維持し、発展させる過程で産み出されたものだから、すべての活動の原動力となった肉体が滅びた後は、なにもかも意味を失い、生まれたときのように、裸で、物質のない世界へ戻っていくのだ。
 仏教ではいのちは不滅とされ、死後、物質=肉体の中のいのちは外に出て、あの世では生まれ変わるまで空の状態で存在するという。いのちというものは不思議な働きだ。いのちがあってはじめて肉体も生きる。いのちのない肉体はばらばらに崩れて単なる物質になつてしまう。単なる物質をまとまりある肉体に変えるいのちはどこからくるのだろう。
 それはこの地上の物質が有機的に結び付いて最初の生命体が生まれたときに、発現された力と同じものだ。物質そのものは原子としてある結合の仕方をするが、それが自己増殖を行なう生物に変わるためには、いのちの働きが必要であり、そこにはある肯定的な目的をもった一つの意思が隠されている。
 「いのち」は意思をもつ力であり、物質を有機的に制御する企画であり、無限に生きようとする願いでもある。