蛙(89)

 その山の奥深くで、大きな蛙を見たという老人がいる。
 ーありゃあ、恐ろしゅう太かったよ。あの蛙は‥‥えすかったあー
 真顔で話すその人は、義一という土地の古老。きのこ取りの名人と云われたその老人は、秋になると朝早くから、その山のきまった秘密の場所に松茸を取りにいくのを楽しみとしていたが、その日は一本もとれない。
 それで新しい場所を探して、赤松の林が続く急傾斜を、蔦葛を頼りに伝い登っていくうちに、とうとう山の頂きに近い開けた場所に出たそうな。
 あたりは、つぎつぎと谷間から吹き上がる白い霧がたちこめて見通しが利かない。
 傍の石に腰を下ろして、霧の晴れるのを待っていたその時、誰かが老人の名を呼んだそうな。
「ぎいち、ぎいち、義一‥‥」
 はて、と思いながら、あたりを見回すと、ちょうど霧が途切れたあたり、前に突き出た崖の上から、巨大な蛙がこちらを見下ろしてのどを動かしている。
 それは鯨ぐらい大きく、人間をひとのみにするほどだったそうで、肝をつぶして、あわてて逃げ出した老人が、もう一度確かめようとこわごわ振り返ったとき、蛙が口を開けてにやっと笑ったそうだ。
 もともとその老人はひょんきんな性格で、過去にも熊や狼に出会ったとかいうほら話をしたこともあり、また例のでたらめだろうと、地元ではまともに扱われていない。
 老人のことだから、眼の錯覚ということもあるかも知れないし、老耄による幻覚とも考えられるが、その附近の山々に昔からある巨石群のことを、考えあわせたら、大蛙の化物の話も巨石の一つではなかったかと納得がいくことかも知れない。
 話の真偽はともかく、春になったらその山に登ってみて、自分の眼で、蛙に似た大きな石に巡り会いたいものと思っている。