ミルクの海(19)

雨はもう一週間も降り続いて、見渡す限りの水田が乳白色の水を冠り、一帯が湖水のようになっている。
 ここらは、海や河岸を堤防で囲った低平地だ。もともとは海であったところにできた沖積平野なので、いったん、大雨と高潮が重なると、田んぼと水路との境がまったく分らなくなってしまう。道路も見えないので、車も走れないし、人も出歩けない。
 それにしても、出水から、あれあれと言う間に、畳が浮き、床上にまで水が来てしまった。家具も障子も流された。今は、雨は止んでいるが、相変わらず水が増えてくるのは、多分、上流で河の堤防が決壊してしまったためだろう。
 以来、私は大きな桶の中に座って、靄が立つ広い湖水を漂っている。今、私がいるところが、もともと陸地の場所なのか、それとも海にいるのか分らないが、このような状況下では、大した違いはない。雨はもう止んで、時折薄日が射しているが、ずっと、飲まず食わずなので気力が出ない。
 その時、ふと、どこかで牛の鳴き声を聞いたような気がした。靄を透かして見ると、はるか向こうの水上に建つ小屋から、数十頭の牛が首を出していて、こっちを見て鳴いているのだ。
 穏やかな流れは、ゆっくりと、私の乗った桶をその煤けた小屋に近付けていく。かっては、そこにあった牧場の牛小屋だろう。近付くにつれ、牛の鳴き声が激しくなり、牝牛たちのつぶらな目が私に注がれる。
 牛小屋も水に浸かっていた。私は桶に乗ったまま、牛たちを一頭ずつ見ていった。長いこと構って貰えなかった牝牛たちの乳房ははち切れるように膨らんでいて、その尖った乳頭はほとんど水に達しようとしていた。そのバナナのような乳首から、私はすぐにミルクをたっぷりと飲むことができるだろう。