ふなとはしくい

 子供のころから一人ぼんやり過ごしがちだった私は、よく鮒釣りをしていた。家の裏がすぐ深い堀になっていたこともあって、ごみ溜めをあさり、みみずを見付けて釣糸を垂れるには、何の雑作もいらないことだった。
 冬の朝、まだもやの立ちこめる水面の浮標をじっと見つづけるときが、一番心ときめく時間だった。霜で黒く変色した菱の葉が漂う水面には、時折かいつぶりがぽっかりと浮び、鋭い鳴き声をたてて滑走することもあった。あの充実した子供の頃の思い出の中に、いまでも佐賀のクリークは欠かせない存在である。
 佐賀平野を網の目のように埋めつくすこのクリーク。このクリークの成因については、現在では有明海澪筋(水脈)説が有力である。
 もともと有明海は底の浅い泥海である。その沿岸にひろがっていた芦の生えた湿原に、河川から運ばれる土砂が堆積し、その上に、鎌倉時代から人手による築堤、井溝堀削による干拓工事が行われ、除々に広大な面積の水田が出現した。だから佐賀平野のほぼ半分は、実は標高マイナス地帯であり、現在の北部バイパス三十四号線以南の田園地帯は、河川堤防と潮止め堤防、それに干満の差七米に及ぶ有明海の潮位を利用して、江湖から排水するための堰がこの平野の構造全体を支えているのである。
 この堰と連絡し、平野にひろがるクリークは、多分に人の手も加わってはいるが、もとは有明海の潟のみおすじが進化したものであり、冬の水落期のほかは、水田の用水に利用されるため、いつも満々と水がたたえられている。夏の季節、佐賀の子供達はここで泳ぎをおぼえ、また洗濯や炊事などの生活用水にも使われたものである。
 大人になってからは、私はよく本庄江の河口附近にはしくい(はぜの方言)を釣りにいっていた。頃は、だいたい秋で、真赤に紅葉した黄櫨の葉色が青空に照り映える堤防の道を、自転車で下っていくと小一時間で潮止め堤防についてしまう。
 潮止め堤防の外はすぐ潟である。干潮時には、干潟のひだまりでむつごろが自分の巣穴の周辺を這いまわり、時には威嚇するようにとび跳ねている。私はここで、時にむつかけというものもやった。
 むつかけには五本の束ねた釣針を使用する。竿を振り、糸先に結んだ針をうまくむつごろの向うに落すと同時に引き寄せ、むつごろを引っかける。この獲り方は残酷である。いずれにしても殺して食べるものだからとは思うが、何も知らずに遊んでいる、むつごろの脇腹に針をつきたてるのは、やはり可哀そうに思える。
 はしくい釣りの方は、その点、さして気持の上で抵抗を感じなくて済む。干潮時に海の方へ流れ下ったはしくいが、満潮とともに曲りくねったみおすじを遡ってくる。黒く濁った水の中では、ぼらやはしくいが興奮ぎみに泳ぎ走っている。釣針にごかいかあさり貝、時にははしくい自体の切身をつけ、竿を上下に動かして探り釣りする。はしくい釣りは潮の濁っていない、したがって晴天の続いたあとのからまの時がよいといわれている。
 当時の私の釣りは、まだ金のかからないほんの遊びに過ぎなかった。竿もつぎ竿、網てぼを下げた作業着姿で、近ごろの子供達のアノラックにクーラー、リール竿の本格的な装備には遠く及ばない。しかし、そのころはまだよく釣れていた。尺余のはぜを何匹も持ち帰って、妻がきらうので、自分で料理していた。有明海はそのころまではいまよりはるかに豊かだった。
 近年、佐賀名産であるむつごろやわらすぼはめっきり数が少くなり、有明ノリも雨が少しでも降らないと、赤腐れ病が発生し、品質が下落する。筑後川下流に大堰が完成し、河水の流出量が減ったためもあろうが、やはり永年にわたる有明海の浮遊泥の汚染が原因になっているのであろう。内陸部のクリークにしても、生活排水が流入し、市街地の近くでは鮒が油くさくて食えないという話だ。
 物が豊富に生産され、人間の暮しが豊かになっていくのに反比例して、自然の生命は次第にそこなわれていく。開発が進み、人の生活か便利になっていくにつれて、自然そのものは小さく硬化していく。文明の発達が自然を犠牲にする方向で進むものならば、文明そのもの、また文明を支える社会のあり方の検討も必要になってくる。
 日本の片隅ではあるが、このかけがえのない自然の生態系を理解した上での、積極的な自然保護の対策が、この佐賀でも望まれている。

※ クリーク 有明海沿岸の水田地帯にみられる特有の水濠、樋門によって河川と連絡している。