チーコと私の病床日誌(14)

5月2日(土曜)連休で帰ってきた長男が、妻を家に連れて帰った。新緑の5月。雑草ばかりの庭だが、目にしみるような緑に包まれて、妻も生き返ったような気分だったろう。
5月7日。 家でじっとしていると、すぐ妻のことを考えてしまう。今日は木曜日で、会いに行く日だが、会うと悲しくなるし、土曜に家に帰って来ているので、行かないことにした。シーツや枕カバーを洗って、干し、イチジクの木の下の草を刈った。表の笹や通り道の草は気がついた時に、取っていたが、まとめてするのは久しぶりだ。夜は、箪笥の中で見つけたホテルの領収書を写真帳に貼ろう。
5月14日、家で炊いた蕗を持って、ホームに行く。花は三寸あやめや甘茶。花を活けるまもなく、妻は、お菓子や果物を催促する。蕗も最初箸を使って食べていたが、やがて手づかみで。家での思い出があるのだろう。美味しいという。日記も書いてもらう。私が言う年月日と、久々にパパが来てくれた、というのは読めるが、そのほかの文字は読み取れない。
 5月21日、ホームのドアを開けると、介護婦と一緒に車椅子の妻が待っていて、私の手を引っ張って、部屋に行こうと急き立てる。(大部屋では、他の入居者への遠慮もあって、個室で会うように言われているのだが‥)それにしてもどうしてこんなに急かせるのか。部屋に入っても、まず食べるものの催促。やっと、江戸紫やあやめを活け終わっても、こっちの息が切れてしまう。一段落して、金子みすずのCDをかけると、これは、私の?と聞く。(妻は、ボランティアで、視覚障害者のための声のテープを入れていた)。今まで聞こうとしなかったテープを取り出してかけると、今日は、珍しく黙って聞いている。こんどは週間朝日ではなく、別のテープを持ってこようね。
 5月28日、今日は、おやつ(いなりずし、ひねりもち、西瓜)など。ひねりもち,美味しいね?と聞くと、子供がするように、食べかけを半分、私に呉れる。食べ終わってから、苦しかった記念病院での入院生活のことから、今の暮らしのことまで、色々な話をした。病院で、私に女がいると思っていた話をしたら、恥ずかしそうに笑ったので、やはり、憶えてはいたのだ。花菖蒲を大部屋と部屋に活け、介護婦に散髪代2千円を渡し、また、来るからねと、手を振って別れる。
 6月1日(月)、今日は天気がいいが、外の作業をする気になれない。台所の屋根瓦のの下で、鼠か鼬か死んで嫌な臭いがするが、しばらく、我慢しよう。蝿が出るのはおさまったから、やがて、臭いも収まるだろう。仏壇と、部屋の花を替える。部屋で花を見ていると、幾らか気分が落ち着く。妻と一緒に行った山や旅行のアルバムを見ると,哀しくなる。妻が居ないことが、こんなに淋しいものなのか。
 6月4日、晴、一昨日は表の生垣の選定。今日は、暑くならない午前中に隣家にはみ出した木の枝を切った。ホームへは1時ごろから。例によって、花と食べ物を持って行く。今日は、割と落ち着いて、食べる。食後も、私が家でどう過ごしているかの話もよく聞いてくれる。今日は、あなたが居なくなったら、とずっとそのことを考えていたと言う。自分はまだ、元気だから大丈夫と、勇気づける。日記に「今日はうれしかった」と書いた後、向こうから、もう帰ってもいいよ、と言ったのは、いつまでも甘えられないと思ったのか、こっちを思ってのことだろうか。分からない。
 6月8日(月)、今日は朝から弱い雨。外の作業も出来ない。家に居ても落ち着かないので、昼からホームへ行く。稲荷、チョコレート、抹茶パフェ。瞬く間に、みんな食べて、もう無い?と聞く。ほら、こんなに食べているよ。食べた後の空の器を見せる。妻は、食後の満腹感を味わう感覚が無いのか。食べた記憶が、蓄積されず、消えてしまうのはなぜなのか‥。
 昨日、次男が、母の声を聞きたいと言っていたので、携帯で話してもらう。発音は多少聞き取れないが、話す内容は全く普通。
 6月10日、(水)、今のこの暮らしが現実なら、チーコと暮らしていた時は夢を見ていたのだろうか。テレビはニュースか、昔の映画しか見ない。お笑い番組など、むかむかする。朝。庭の花を花瓶に活ける。うす緑から透明な青に変わっていく紫陽花。花の前で煙草を吸っているとき、気持ちが落ち着く。
6月11日(木)、午前中に自分の診察を済まして、昼から、ホームに行く。始めは、食事は済んだと言っていたのが、いつの間にか、食事がまだになっている。歩けないのに、歩いていると言う。家のアジサイの花を活ける。ゆっくり、家でのことや、昔のことを話すと、思い出すように、頷いている。
6月18日、雨、ホームでは、まず、おはぎ、さくらんぼ、水饅頭など。その後、持ってきた、妻の地域活動(お茶、食改善、声のテープ、コーラスなど)の写真アルバムを見せる。わりに丁寧に見ているので嬉しい。友人の名も全部ではないが、思い出しているよう。今日は気持ちよく別れられた。