ためいき

 ひたいによった十本の深い横じわ、薄くひろがった眉毛。円い、こちら
を見いる笑ったような眼。眼の上の三日月型のくぼみ、眼の下のたるみ油
気のないびんがすこしほつれ、細くて小づくりの鼻の両脇から、意志的な
二本の刻線が頬を割って柔かい上唇のはしをささえ、その下から下唇がお
ちょぼ口をよそおっている。
 亘の母が死んだ日の天気はどうだったか、その四・五目前から風邪をひ
き腰が痛いといってうす暗い部屋に寝こんでいたのを、あんまりうっとう
しい感じだったので、妻と二人で無理やりいくらか明るい座敷に布団を敷
きかえて寝かせた。もともと遠慮ぶかいたちで、家の中ではいつもまわり
に気をつかっていた。すこし体の工合が悪くても、小さな薄い布団を自分
で敷き、わざわざ人にめだたないようなすみっこに横向きになって黙って
寝て、用事もよっぽどのことでないと頼まず、医者も自分からといって呼
んだことがなかった。
 死ぬ前の母は背骨の上の方が曲ってこぶのようになっていた。眼がしば
らく悪く病院に通っていたが、そのほかは耳もさほど遠くなく、歯も丈夫
で白かった。
 気分がいいころは、庭をそろそろ歩きながら小さな雑草をたんねんにと
り、珍らしい花でも咲いていると、すぐに高い声で亘を呼び、「これは何
という花ね」と尋ねたりした。亘が花の名を教えるといっとき感心したよ
うな顔付で眼を細めて観賞したあと、「ああ、今日もいい天気!」と腰を
伸ばして深く息を吸っていた。自然の恵みというものが母には一番嬉しか
ったのだろう。
 母はこづくりでやせていた。手足などはいまにも折れそうに細かった
が、しんは強かったようだ。近辺の家々がまわりもちでする「かんのんこ
う」や昔の佐高女の同級生仲間の「郁芳会」にも必ずでかけていた。よく
色々な話を賑やかにするらしく、帰ってくると、「今日はおすしだった」
とか、「○○さんのおごりで龍登園までいったよ」とか、○○さんが珍ら
しか踊りをして、その身振りがおもしろうして」とか話しながら、黙って
難かしい顔をしている父に遠慮がちにおみやげの折をひろげるのだった。
 父が極端に無口で、いつも本とか新聞ばかり読んでいるので、たまらな
い時があるらしくよく亘のところにきてはぐちをこぼしていた。
「お父さんももう少し話せばいいのにね。陰気でね、いつも怒ったような
顔をして。もう若いころからあんなだった。道を歩くときでも自分だけど
んどん先に行ってしまって、やっぱり性格というのは変らないねえ」
 母にとって父は二番目の夫たった。母は最初父の兄に嫁いだのだが、先
夫が日露戦争に従軍した後亡くなってから、その弟である二男の父と再婚
したのだった。その頃の写真を見ると、島田に結った若い母が椅子にかけ
て、ちょびひげを生やした恰幅のいい青年の父と、にこりともせず並んで
写っているのがある。時にはその二人の問に、学生服姿の兄がいたり、着
物姿の亘や姉や妹がはいっていたりするのだが、いずれも何かの記念に写
真館で写したものだろう。
 恐らくその頃の話だろう。福岡の兄が母に連れられて一緒に家を出た話
は。何かの原因で(その原因は兄にも分らなかった)父と諍いをした母と
幼い兄は汽車に乗り、信州の田舎のとある駅で降りたらしい。乗り物に弱
い母は気分が悪くなり、駅のベンチで休んでいるうち色々考えたのだろ
う。そのうち突然、「やっぱり帰ろう」といって、また家に引き返したそ
うだ。
 父と母の間には、母の先夫として、また父の兄としての存在に対し、当
事者でなければ理解できない意識が介在していたのだろうか。亘たちが母
の再婚の事を知ったのは、成長してからずっとあとのことだった。叔父と
の間にできた子供が二つの時に亡くなっていたことが、そうした知識を遅
らせたのかも知れないが、亘たち子供は、その話を親の口から直接聞かさ
れたことはなかった。ともかくも、亘がそのことについて知ったのは、従
兄か、妹の口を通じてだった。
 形見分けの時、開けた母のタンスには、父の兄の遺品が一緒にまとめ
て、奥深く仕舞われていた。母の先夫はどんな人だったろう。亘が父の兄
のことを考えるのは、結婚後まもなく死んだその人が、母の心にどのよう
な根跡を残したのだろうということだ。父にも子供にも言うことのできな
い思いが母の心にあったのだろうか。
 四・五日臥っていた母が風邪をこじらせ、気管支炎から心不全で亡くな
ったその日。広島や福岡から駈けっけた兄や姉、そして妹や父の前で、母
は時々苦しげな重い溜息をつきながら眼を閉じていた。医者が来て注射を
うっと、母は顔をしかめて首を振り「お医者さんいや」といった。しかし
医者が帰ったあと、急激に容態が悪化した。重くるしい溜息は、しだいに
その間隔を早め、すでに死斑が手に出ていた。
「早くお医者さんに電話して!」と姉がいったが、結局、「いやもう我々
だけで見送ろう」という兄の意見に従った。
「お父ちゃん、お母ちゃんの手をにぎって!」妹が、正座して黙ったまま
鼻水をすすり上げている父に言った。父が、母の手を両方の手で不器用に
とった。
「お父ちゃん何かいって!」と妹が言ったが、父はとうとう何も云わず、
その代り鼻がっまったのか、口を半分開いたまま、眼鏡の奥を光らせ、母
の手をつかんだ手をふるわせていた。すると、「有難とう」という母の声
が聞えた。
 兄が母の手を強くにぎりしめ、姉が「お母さん苦労したからね。こんど
はしあわせになるとよ」と母の手をさすりながらいった。
 亘が母の手をとった時。「旦さん、色々お世話かけました」と母が亘を
みつめて言った。
 妹は懸命に母の手を握り涙声で言っていた。「成仏してね、きっと」 
「さようなら、ああ苦しい。早く行きたい――むこうに早く行きたい」母
はくり返した。
 姉や妹の泣き声を聞いているうち、亘はうっすらと涙がにじむのを感じ
たが、もうこれで母に会えなくなるのだなと思うと、何もかも言い終って
今は苦しげに息をついている母の顔をじっと見詰めていた。頭は極度の緊
張のため張りさけんばかりでありながら、「今母が願っているのは何だろ
う」と憑かれたように考えていた。
 母が妹に助けられて合掌の形に手を組んだ時、亘は突然仏壇の方を向い
て祈りだした。母と一緒に母の気持のように、母が早くこの苦しみから抜
けだすように。亘は声を出して祈った。
 父のすすり泣きが聞え、妹が何か叫ぶ声がし、次第に母の溜息が早ま
り、みんなの泣き声が高まり、はっとして亘は振り返った。その瞬間だっ
た。大きな喘ぎを一つつくと、土気色だった母の顔がみるみるバラ色に変
った。それまで苦悶にこわばっていた顔の筋肉が柔かくほどけ、かってな
い若々しいほほえみさえ浮べて――耐えきれず、亘は母の顔のそばに突っ
伏し、声をあげて泣いた。そして次第、亘は自分の心がとけていくのを感
じた。

 正里のお家には、おぢいさんとおばあさんと私と三人いた。おぢいさん
はお夕はんがすむと、みんなを呼んで来なさいと言いました。私は走って、
隣のおのふさんや、角のおかよさんや、裏のおしげさんを呼びに行きまし
た。おぢいさんは火鉢のわきにでんとすわりました。私たちはいつもてー
ぶるを囲んで、赤いまいかけのしわを伸ばすようにしてちょこなんとすわ
りました。おぢいさんは、おれはナア、おまえたちの先生ぼーと言いまし
た。みんなはくすくす笑いました。おぢいさんは、何がおかしかこう、先
生とは先に生れると書いてある。おぢいさんナア、あさんたちよいかいく
らさきー生れたろーこー。今度は声を立ててみんな笑いました。おぢいさ
んはいつも、女だって勉強せにゃいかんと言っていました。私たちは、お
ぢいさんのところで読み方や、算術を復習したり予習したりしていたので
した。おぢいさんは郡会議員をしたり、村会議員をしたりしていたので、
よくお客さんが見えました。そしてよく村の話を色々していました。

 いままでいた人間が不意にいなくなってしまうというのは、こんなにむ
なしいことだろうか。葬式当時のごたごたが一応すんで、普段の生活か始
まってもなんとなく後髪ひかれるように、母の死んだ日のやるせない思い
に舞い戻ってしまう。庭を歩いても、花のあとからふとあの老いさらぼえ
た母が現れそうな気がしたり、道を歩いていて似たような後姿に出会うと
声をかけて見たくなるのだった。亘の母が亡くなってから、長いこと病床
にあった母の兄も三ヶ月後に亡くなった。その葬式の時、従兄が言った。
「旦ちゃん、あんたもお母さんからおこられたことはなかったろ。やっぱ
り性格やろな」そういわれてみると、亘は母から、恨みごとをいわれたこ
とはあったが、正面から叱られた記憶がないことにはじめて気がついた。
そして、厳しかった父から何かにつけて自分をかげってくれた母の優しさ
を思いだしていた。
 一周忌が過ぎると、亘の父も何となく所在なげだった。前から好きな畑
仕事もあまり根気が続かなくなり、いい加減で投げだしてぼんやり座敷に
坐っていることが多かった。生前母を大切にしてやらなかった罰さとも思
ったが、やはりその姿は淋しげだった。
 義太夫と酒におぼれた祖父の借金を返すために若い時から苦労してきた
のだろう。父の偏狭な性格が、母の死を転機として変っていくようだった。
ことに脳軟化の病気を起してからは、時のみさかいなく亘夫婦に話しかけ
てきた。
 主に自分の昔話だったが、自分の兄や母のことも話のついでにでてきた。
兄さんが死んで骨をうけとりにいった時は、悲しかったとか、母が兄さん
の嫁で小町娘といわれよったとか、母には苦労をかけたもんなとか。話下
手の上に発音がはっきりしないので聞きとりにくいが、亘の妻は結構面白
そうに聞いている。
 亘の母の三回忌もこのほど内輪だけで済ませた。かって気性の激しかっ
た父も八十四を過ぎ、もう昔のおもかげはどこえやら、ぼけてしまって子
供のような天心らんまんな生活を送っている。やがて父も死ぬだろう。亘
はふと、父が死んだ時のことを考えて軽い溜息をついた。