チーコと私の病床日誌

    チーコの自伝(聞き書き

 私は昭和9年3月5日、朝鮮の宜寧(ぎねい)で生まれた。父が警察勤務だったので、住まいは日本人の官舎。遊び友達は同じ日本人学校の男の子ばかり。たまに朝鮮人の小使いさんの自転車の後ろに乗って,父の勤務先に弁当を届けることもあった。母のは大抵家で縫い物をしていた。
 当時の朝鮮は、まだ粗末な藁葺き小屋ばかりで、まわりの朝鮮の人たちは貧しい暮らしを送っていた。高い塀に囲まれた官舎の中で、私は、母や姉、朝鮮人のお手伝いさんと一緒に暮らしていたが、あるとき縁側で庭を眺めていたとき、塀の向こうから人が顔を出したので、びっくりしたことがあった。多分あれは、泥棒だったと思うが、向こうもびっくりして、すぐに引っ込めたあの顔を思い出すと、しばらく可笑しくてならなかった。
 私は、現地の日本人小学校に入学したが、父の勤務先が変わるたびに、転校しなければならず、その度に日の丸の旗で見送ってくれた先生や同級生を思い出す。新しい学校にも、なんとはなしにすぐ慣れたが、都合6回ほど転校、転居したことを覚えている。
 朝鮮の冬は寒く、ちょうど日本の北海道の気候に似ていた。軒下につららが下がり、池が凍り、スケートができた。そういう冬には、こっちのオンドルは便利で温かだった。また、夏はスコールと呼ぶ雨が降り、どっといっぺんに降ってすぐ止んだ。朝鮮では、海に近いこともあって、魚をよく食べた。魚は新鮮で美味しかった。また一度、鯨が捕れたと聞いて、海岸まで見に行ったこともあった。
 昭和20年8月15日、終戦になり、官舎の外の広場で、朝鮮人が騒いでいる声が聞こえ、当時釜山(ふさん)近くに住んでいた私たちは、ある日、残務がある父を残し、ランドセルだけ持って貨物船に乗って港を出た。日本人の集団を詰め込んだ船は、一晩かかって、やっと下関に着いたが、そのときの洋上の朝日が燃えるように美しかったのを憶えている。衣類や貴重品は、父が知り合いに運んでくれるように頼んだが、着いた島原から、送り先を母の実家の北山に変えたことで、荷物は行方不明になった。
 斉藤家の本籍地はもともと佐賀の熊の川。熊の川の家は、家の所有者だった父の兄が、島原で病院を開業したため使わなくなってから、佐賀市内の多布施に移して写真屋の兄弟に貸しており、熊の川には土地があるだけだった。
 一家は引き上げて最初の移転先に、父の兄の島原を選んだが、まもなく母の実家の北山に移り、その後、父が帰国してからは、熊の川の土地に小屋を建てて移り住んでいる。熊の川では、斉藤家がそこの地主だったこともあって、農地解放後も土地の人との繋がりがあり、一家は周りの温かい眼に見守られながら、食べていくための慣れない農作業を始めた。祖父が残した杉材で家を新築したのはその後のことだ。
 父はまだ若く、地元の農家の助言を受けながら、米や野菜の栽培に精を出した。村の村長を頼まれたこともあったが、祖母の反対で取りやめ、その代わり議員になって、小学校の建設に尽力するなど、地域から頼られる存在になっていたが、次第に体調をくずし、昭和49年に亡くなってしまった。
 私は引き上げてきたとき小学校の6年生で、最初は島原の小学校に入ったが、すぐ北山小学校に転校、その後内野の小学校から古湯の南山中学校に入学し、熊の川から毎日徒歩で古湯まで通った。まだ小さい子供の頃で、通学途中の暗い林を通るたびに怖い思いをしたことを思い出す。腹を空かした弟と一緒に、大野のおばさんのところへご飯を食べに行ったのもその頃だった。
 敗戦後の日本の食糧事情はどこでも悪かった。都会の人は、リュックサックに衣類を詰めて、米と交換するために田舎へ行き、農家の人に頭を下げた。熊の川の斉藤家には、幸い農地が残されていたが、慣れない水田の管理や田植え、夏の日のサツマイモ畑の草取りの仕事はつらかった。姉は高校通学のため下宿していたし、小さい弟は仕事からいつも逃げ回っていた。
 南山中学からただ一人、高校に入ったのは、佐高女が佐中と合併して新制佐高になった昭和23年だった。佐高には、すでに生徒会長の副をしていた姉のがいたが、自分は、姉とは性格が違うと思っていた。姉は社交的ではあるが、私からすれば、少しでしゃばりなところがあった。その姉も、母が平成8年11月に亡くなった頃から、次第に病気がちになり、平成16年1月に亡くなってしまった。
 新しい高校生活の中では、仲のいい友達が二人出来、選択教科も同じ、いつも一緒で、周りからは三羽からすと呼ばれていた。その頃、私は、多布施の家で、弟と暮らしていたが、弟とは食べ物のことで、よく喧嘩した。その弟も平成19年10月に癌で亡くなってしまったが。
 3年になり、卒業に近い頃、私は、デザイナーになることを夢みていたが、その頃、父の具合が悪くなり、また、弟の大学進学のこともあって、夢を諦めざるを得なくなった。私は、姉の口利きで、北山の叔父の郵便局でしばらく働いていたが、どうせならということで、国家公務員の試験を受けたところ、無事合格し、やがて、佐賀市内の北堀端郵便局に勤めることになった。
 北堀端郵便局は、局長まで入れて6人の特定郵便局だった。普通郵便局のように郵便物の集配業務は行わないが、佐賀市の中心にあり、県庁、市役所などの官庁や、新聞社やNTTなどにも近く、客層もそういったところの人が多かった。
 私は、窓口を担当していたが、女主任のHさんから、法令を始めとして業務に必要な沢山のことを教えられた。北堀端郵便局では、保険と貯金だけでも仕事は忙しかったが、窓口の応対を通して、色んなお客さんと知り合うことができた。有益な話を聞くことも出来たし、親切な人の心にも触れることができた。絵描きの山口亮一の奥さんからは、精(しらげ)の家に遊びにおいでと声を掛けられ、新聞記者の人の誘いで、友人のKさんと北海道(熊踊り)や京都(太秦映画村)に旅行したことのもその頃だった。
 しかし、自由な独身生活もその辺まで。現在の主人が郵便局の窓口に現れてからは、交際、結婚、夫の両親との同居と、私の運命が急展開することになる。(以下略)