私という存在

 「私」とは何か。「私」はどこに存在するか。水や岩石などの鉱物をはじめ、樹木や草などの植物は「私」を意識することはないだろう。彼らは自然の一部であり、在るべくしてそこに在る環境そのものだから。一方、自然や社会を含め、外部の環境は「私」とは別の意志を持った存在であり、時には、「私」を攻撃してくる存在である。だから、私は、記憶を持ち、自他の行動を分析する能力を持ってはじめて、周りの環境や集団の中で「私」を認識できる。そして、その場合の「私」は、環境や集団から切り離されており、周りとは異なる存在である。
 しかし、群れをつくる昆虫や野生動物。例えば、蟻、蜜蜂、ヌウの大群、渡り鳥、いわしの群れなど、全体が同じ行動をとる集団では、個体はそれぞれの役割を果たしてはいても、みな同じ目的をもって動いている。個体の集まりでありながら、まるで同じ意志を持ったひとつの個体であるかのようだ。それは、人間の細胞がそれぞれの役割は違いながらも、同じ目的(生命の維持)のために働いていることを思い起こさせる。全体で一つという集団の中では、私=集団であり、「私」の存在は無いに等しい。
 「私」とは何か。「私」はどこに存在するか。みなと同じ行動をとる時、例えばデモ行進をする時。また、地域の祭りに参加した時、「私」は周りの人と連帯の気持ちを持ち、一体感を味あう。まるで、自身が集団の一部になったような幸福感に酔いしれる。しかし、その一体感は長続きはしない。祭りが終われば、誰でも、それぞれの家、違った生活に帰らねばならないことに気がつく。
 やっかみと見下しが支配する世界に私達は住んでいる。それゆえに、「私」は他人と対比して強く意識される。また、政治への不満を意識させられ、何らかの抗議行動をとる決断を迫られる。「私」と環境の間には融和できない溝が生じるのだ。「私」は周りと異なる意志を持った場合により強く認識される。この「狭い私」にこだわるのは苦しいものだ。
 「私」の範囲は定まってはいない。独身のときの「私」は結婚して家庭をつくり子が出来て、「私」の範囲は広がる。対外的には、同族意識や、階層意識があって、どこまでを仲間と思うかで「私」の範囲は伸び縮みする。どこまでを「私」と思えるかが鍵になりそうだ。
 どこまでを「私」と認めるかはその時々によって異なり、同じ家族の中でも仲たがいはあるし、犬や猫も自分なりの好き嫌いはある。このように考えると、人間と他の動物との間には基本的には差がないのではないかと思われる。つまり、「私」を意識するのは、人間特有の心理ではなく、他の動物も同じではないかということだ。
 人間と動物に質的な差がないとすれば、デカルトの「我思うゆえに我あり」という言葉はいったい何だろう。思うという行為があるゆえに、我は存在する、とすれば、本能のおもむくままに生きている動物は、「思う」ことがないので、「我」はないということになるのだろうか。
 「私」とは何か。私という言葉は、私という意識があるかぎり、その裏づけとして存在し続けるのだろう。そして、その意識が初めからないものには、もともと意味のない言葉なのだろう。ゆえに、「私」は「私」を意識する者〔時)にのみ存在すると云っていいかも知れない。
 私は「私」を意識しながら、長年生きてきた。その歴史は、生活環境との拮抗の記憶でもある。私が「私」にこだわるのは、私の中の記憶のゆえかも知れない。過去の記憶は常に再生され、現在の状況に合った選択をしようとする。
 呆けて記憶が無くなれば「私」も無くなるだろう。