ピストルと自転車

 「一体何時になったら景気は建て直るか、屠蘇に酔ふ者も忘られぬ問題、商人は泣き売りの惨状」、昭和六年一月六日付の佐賀新聞の見出しである。
 大正期以来の不況の波をうけ、すでに佐賀東部の神埼銀行が、ついで九州五大銀行の一つ古賀銀行も休業にはいり、昭和初期の世界大恐慌の波は、この佐賀の経済を根底から揺ぶっていた。地場資本の後退、工場の閉鎖、地主の没落、社会不安は、小作争議や労働運動の激化という形で現われた。佐賀県のまとめによると、県下の失業者は、昭和六年十二月一日からわずか五ヶ月後の昭和七年五月一日には、556人も増えて、1377人に達していた。
 昭和六年九月十八日、満州奉天郊外の柳条溝で鉄道が爆破され、日本の関東車はそれを理由に中国軍に銃火を浴びせた。ついで戦火は上海へ飛び、新聞は爆弾三勇士の悲壮な最期を報道した。三勇士の二人は長崎県出身、もう一人の江下一等兵は佐賀蓮池の出身者だった。また同じ上海事変で重傷をうけて中国軍の捕虜となり、のち日本軍にかえされたものの、再び旧戦場を訪れて自決した空閑少佐は、
佐賀市水ヶ江の出身であった。
 上海事変が停戦になった昭和七年の五月、その十五日に五・一五事件が起った。クーデターをおこした海軍青年将校のなかには、四人の県出身者が含まれ、またその四年後に起きた二・二六事件の主謀者、陸軍皇道派青年将校19人中6人が県関係者だった。しかしそれにもかかわらず県議会では、激しい軍部非難の攻撃も行われたのである。
 昭和十年になっても、相変らず農村の窮乏は改まらず、ようやく鉄工業界の軍需品の生産により、佐賀は活気を呈するようになったが、それとともに軍国主義体制は強まり防護団、在郷軍人会、農道会等が結成され、昭和十三年になると、満蒙開拓青少年義勇軍の出発式が行われ、次第に物価統制が進められ、ついに、昭和十五年十一月二十日には大政翼賛会佐賀県支部が設置されたのである。
 佐賀は、自転車王国と呼ばれるほど自転車の多い県である。これは一つには勾配の少い平野部が多いことが理由であろう。県内の自転車保有台数は約50万台といわれ、これは実に一世帯に2台強の普及率である。一方、自動車の保有台数は33万台、これ又実に一世帯あたり1,4台で、全国平均1,1台を上まわる数である。
 最近、佐賀市内では、自転車が人道を走るのを見かけるが、これは狭い車道を通る自動車に押しだされた結果である。その昔、「貫通道はツーツラツー」と子守唄にまでなったほど広かった道路は、自動車の混雑の熱気で朝夕む
せかえるような騒ぎである。
 「貫通道路」―全長4キロ強。文字通り構口から佐賀高橋までの佐賀市を東西に貫通する道路。現在は北部バイパスにその地位をゆずったが、それまでは三十四号線として鳥栖から長崎方面へ行くためには、必ず通らなければならなかった国道である。
 貫通道路は昭和六年の末に着工、五年後の昭和十一年五月に完成した。藩政時代の名残りで、城下町特有のT字型やのこぎり型の旧長崎街道も、次第にふえてくる自転車や自動車で不便になったので、その南にそって新たに通したものである。参考までに、昭和初年から十五年までの佐賀市内の乗物の台数の変化を表にすれば、次のとおりである。

       人力車    自転車    自動車
昭和元年  208台   3287台    21台
   7年  161     5698    119
   9年   82     6636    173
  11年    7     7163    156
  13年    7     7438    221
  15年   25     7425    253

 これによれば急速に人力車が衰退し、代りに自転車や自動車が主流になる状況がみえる。貫通道路事業は、不況による失業の救済の手段でもあったが、まさにこうした時代の変化にこたえようとしたものだった。
 延長4キロ、約千本の銀杏を植えた巾3米の歩道を両側に、車道は9米から12米。総巾員15米から18米の貫通道路は、今でこそ狭く感じられるが、当時は、こんな広い道路を造ってどうする積りかといった人が多かったという。五月一日の佐賀新聞は「総工費八十七万円(国庫補助2/3)を投じた佐賀県が誇る近代的道路美」と大々的に報道した。
 当時明るい話題といえば、このほかには、昭和八年から十二年にかけて米反収が全国一位になったことだろうか。昭和十六年までの佐賀は不況にあけくれるうち、次第に「大東亜新秩序」の思想がしみこんで、いつのまにか戦時体制に組みこまれていく暗い時代であった。