糸と石炭

 佐賀市内のなかほど、松原川の清流のそばに、楠の大木にかこまれた松原神社がある。この神社は、藩祖鍋島直茂公を祭神として、安永元年(一七七二)に建立されたものだが、今でも佐賀市民からは、日峯さん(直茂の法号)と呼ばれて親しまれている社である。
 大正二年十一月十日、この神社の西側の空地で、幕末の藩主鍋島直正公の銅像の除幕式が執り行われた。
 当時の佐賀新聞によれば、当日は鍋島侯爵をけじめ、大隈重信伯以下在京の佐賀出身の諸名士がそろって参列したということで、師範学校は奉祝歌を作曲して奉奏。県下各地から浮立、道囃子、手踊、流鏑馬、相撲、浪曲などの奉納かあり、その他小学校の旗行列、各商店の割引売出しなども催され、夜は夜で附近にイルミネーションが輝き、提灯行列などもくりだされ、久方振りに帰郷した鍋島候、大隈伯の歓迎もあって、全市あげての奉祝、空前の大盛況を呈したとのことである。
 また、この式典にともない、同日神社西側で、佐賀図書館の落成開館も行われたが、この図書館は鍋島家(直映)によって設立されたものであり、大隈伯が創立委員長をつとめたという。以来この附近は、銅像園と呼ばれて市民のいこいの場所となっていたが、現在は大陸から引揚げてきた人達が経営する飲食店で賑っており、銅像そのものは戦時中に供出、図書館も移転している。しかし、佐賀市民にとっては、鍋島家といえば、生みの親のような存在であり、今でも、春の日峯さんのお祭りは、植木市や夜店で賑っている。
 七月の季節、佐賀市内から一歩郊外に足を踏みだすと、そこはI面にひろがる水田地帯である。その水田地帯に点在するヨシの生えた水濠。これこそ灌漑と排水の二つの役割をになう佐賀平野特有のクリークである。これまで足踏み式水車で行ってきた、クリークからの水のくみ上げが、大正九年ごろからポンプによる機械灌漑に変り、佐賀のクリーク農業は新しい段階を迎えた。
 佐賀平野の産業は、もともと米と麦の生産が主流であるが、その他にも鋳物類の工産、有明海の水産もあり、また旧佐賀藩士の授産事業としての養蚕や製糸なども行われていた。しかし、これらの産業も、まだ家内工業的な段階であり、生産額の増加がはっきり見えてくるのは大正の中期からである。
 佐賀市の企業有力者の間で検討されていた佐賀紡績は、地価と労賃が安く、住民の勤勉性と交通の便のよいことが条件にかない、大正五年十二月二十日、駅周辺の佐賀郡神野村に設立されたのであるが、第一次大戦中のこととて、神戸の鈴木商店の後援により、イギリスから数百台の紡績機を購入、女子従業員七百人、敷地三万坪、建坪三千坪の株式会社として発足したのである。
 大正という時代は、明治の自由民権運動のあとをうけて、政界の活動が盛んな時代であったが、第一次大戦、青島占領にはじまる経済活動の活発化、ついで大戦終結にともなう沈滞期を迎えた時代であり、炭坑ストライキや、米騒動などの社会問題が提起された時代でもある。
 大正八年八月二十九日、県西部の岩屋炭坑で発生した争議は、隣接した相知炭坑にも影響をあたえ、また同じ日に杵島炭坑でも争議が起った。当時の争議は、米穀商の米の買占めによる米価騰貴に怒りをつのらせた炭坑労働者による、主に物品販売所や事務所の打ちこわしであり、まだ労働運動の未熟を示すものではあるが、同時的に発生している点て運動の連続性を物語っている。
 しかし、この炭坑争議の鎮圧に軍隊が出動したことについては、新聞は批判的であった。
 大正七年九月四日の佐賀新聞に、「暴動を前にして」と題する一文が掲載されているが、ここにその一部を引用すると、「軍隊が容易に動いたといふ事は、事の善し悪しに関せず、何れは一議論ある可き事である。(中略)余は、肩に二箇の星を着けた兵士と語るの機会を発見したのである。彼は言った。『是れ位の事で吾々を動かして貰っては甚だ迷惑します。吾々は全く国民と同一のものである。国民と吾々との間に薄紙一枚無いのであります。夫れが斯う言ふことで何かしら、国民と軍隊といふものが別の者の様に考へられる様になったら大変だと思います。』といふのであった。……」
 炭坑主と炭坑労働者、更に大正十二年頃から佐賀県東部三養基郡で激化した地主と小作人の対立抗争。階級間の溝を深めながら大正期は暮れていく。
 ちなみに治安維持法は、大正十四年四月二十二日に公布されたのである。