洋学と大砲

 明治という時代は、江戸末期の黒船以後の動乱の時に生きた人たちが生みだした時代である。
 当佐賀でいえば、藩主鍋島直正、直大をはじめとして、大隈重信江藤新平蘭学者の伊東玄朴、佐野常民などの先覚者がそれにあたる人たちである。
 佐賀はもともと旧藩のころから、福岡藩と一年交代で長崎警固役を行っていた。オランダ船を追ってイギリス船フェートン号が長崎港に侵入したのが、文化五年(一八〇八)八月であるから、浦賀沖にペリーが来る四十五年前である。
 その年は、たまたま佐賀藩が当番にあたっていたので、藩主は責任上、謹慎、切腹者まで出さざるを得なくなり、おまけに大阪商人からの借金は増える一方であり、直正が世嗣したころは財政破綻の一歩手前だった。
 直正の頭には常に長崎の防衛と、財政建てなおしのことがあったにちがいない。地主の田畑を「上支配」することによって年貢の増収をはかり、石炭や白蝋、陶器などを領外に売りだし、更に長崎貿易によっても実収を得ていたのと見られる。当時は勿論鎖国ではあったが、唐船やオランダ船は自由に長崎の港に出入していたのである。
 一方、藩主直正は、鍋島海軍の創設にはことに熱心であり、安政二年には、佐賀藩士四十八人が、幕府の長崎海軍伝習所に派遣され、オランダの海軍士官から技術の伝習をうけている。また長崎のシーボルトのもとに藩士を送りこみ、つとにオランダ語や西洋医学の吸収に努めたのであり、伊東玄朴の建言にり、西洋種痘法を採用し、嘉水二年(一八四九)に我が子直大に種痘を行わせている。
 鍋島藩の精練方が蒸気船や蒸気車の模型をつくったのは安政二年であり、安政六年には火薬の製造もはじめている。直正は島津に先がけて反射炉を建設し、近代式の小銃、大砲を製造し、造船にも着手した。この面では唐津藩も同様であり、文久一年(一八六一)大砲四門を造り、発射試験をしている。まさに肥前そのものが一大兵器工場と化したような観であるが、佐賀藩は、こうした面では時代に先がけて、洋学洋技術の収得にこの上なく積極的であり、ある面では先進藩であった。
 しかし、佐賀藩は将軍の世継ぎ問題には不介入の立場をとり、直正はたびたびの催促にもいっこうに上洛せず、やっと上野戦争のアームストロング砲の活躍で、歴史の舞台に登場するのである。
 藩主直正が隠居し、家督を直大に譲ったのが文久一年(一八六一)であるが、この年すでに、江藤新平は討幕をうったえ脱藩している。江藤家はもともと千葉姓の晴気の地頭の末裔であり、新平の父胤光ば手明鎗といわれる下級士族であった。新平は、佐賀郡八戸村に生れたが、読書を好み、藩校弘道館に入り『葉隠』を学び、枝吉神陽について経世の学を学んだ。二十九歳の時脱藩したがすぐ捕えられ、三十四歳まで塾居、三十五歳で朝臣となり、鎮守府判事軍監察副使として上野彰義隊を討ち禄百石をうけている。
 佐賀藩は、鳥羽伏見の戦いに参加しなかったため、その去就を疑われたが、これによって直大ついで直正が朝廷の議定となり、このあとはっきりと朝臣の列に加わるのである。
 新平は三十九歳で司法卿に任ぜられるが、翌明治六年には征韓論破れ、西郷、副島、板垣らとともに野に下っている。明治七年の佐賀の乱は、島義勇に率いられた憂国党と江藤の征韓党による新政府の施策への反抗であるが、実態は藩体制の崩壊で禄をはなれた士族の不満の爆発であった。江藤は結局、新政府のいち早い対応に破れ、島義勇とともに斬首に処せられたのである。
 このようにして洋学と軍事産業の面では進んでいた佐賀県が生みだした個性ある佐賀人は、県内の旧勢力に引きずられて国政の中枢部から脱落していったのである。しかし、ともかくも佐賀は、古い旧藩体制から、新しい中央集権的分県体制へ切り換わっていった。
 佐賀県の呼称にしても、当初伊万里県、ついで明治九年には三瀦県、長崎県に合併され、やがて再置運動により、明治十六年に長崎県から独立している。明治十七年には佐賀新聞が発刊され、明治二十一年大隈重信が外相に就任、明治二十七年、有田磁器合資会社が設立され、同三十八年には九州鉄道が長崎まで開通している。
 現在は地方の時代といわれているが、明治の当初、閉鎖的な旧藩体制から、やむをえず中央集権的体制へと国政を切り換えていかざるを得なかった明治の人から見れば、今は夢のような時代であろう。