物体(5)

 私はしばらく気を失っていたらしい。さっきから、かなり遠くの方から聞えてくる、カチリカチ
リという規則音が、いやに耳障りであったが――気がつくと、うっすらとした灰色の光が私のまわ
りに漂い、私自身は、何やらゴタゴタとうず高く積まれたものの間に、転がっていた。そのまま、
ぼんやりとした視線を上へ向けると、アーチに組まれた高い天井が見える。クリーム色の広い天井
である。それに眼をとめて、計るともなくその大きさを考えていると、また鋭い痛みが頭を突き抜
けていく。
「一体、どうしたんだろうね。外側のあんな所に倒れていたなんて」
 その時、話し声がして、二人程の人間が近付いて来る様子である。あわてて眼を閉じてそのまま
動かないでいると、ざらざらした手が額にさわった。
「まだ気がつかないようだ。もうしばらくこのままにしておこう」
 微かな衣ずれの音がして、そのまま去って行く様子に、眼を開けると、白い衣を着た看護人らし
い二人が向うの方へ歩いていくのが見えた。恐らく、この工場で勤務している者達だろう。
 鈍い痛みはまだあったが、私は体を起して立ち上った。すこしふらふらするが、私は建物の中を
歩いてみようと思った。
 見渡した所、ひどくがらんとした建物の内部は、灰色の濁った空気のためによくは分らないが、
横幅は三十米程もあろうか。窓も見えない壁面に向って、両側に二列ずつずらりと並んだ仕事机の
前には、沢山の人々が坐って何か仕事をしている。それが、何をしているかは良く判らないが、非
常に忙しいらしく、私がその人々の間を通っていく間も、振り向いて見る者もなく、小さな椅子に
腰をかけて、ただ黙りこくって、台の上の仕事に熱中している様子だった。そのまま先へ進んでい
くと、それにつれ、どういうわけか、先刻のカチリカチリという規則音が次第に高まって来たが、
それとともに空気がいやに濁ってきた。咽喉のあたりをキリキリ刺すような濁りようで、あたりを
見廻すと、人々の姿は灰色のチラチラする埃のために、薄ぼんやりとしか見えず、仕事のために忙
しく動きまわる手先だけが、台の上の赤い豆ランプに照らされて浮び上っている。
 私がしきりにむせんでいると、
「おや、あなたは星男君じゃありませんか」
 と驚いたような声が、私のすぐ脇で聞えたので、振り向くと、白い手先が豆ランプを取り上げて
いるところだった。豆ランプは、すぐにその声の主を照らしだしたが、そこには意外にも、髪子の
父親の顔が驚いたように浮び上っていた。
「あなたは、髪子のお父さん!」
 私が思わずびっくりしてそういうと、急にくしゃくしゃとゆがんだ顔になった父親は、哀願する
様に私を見上げると、切なく声をつまらせながら囁いた。
「髪子には、ここに勤めていることは内緒です。わしは映画会社ということになっとるで……それ
からわしは、あんたに云わなきゃならん事がある。わしはあんたに悪いことをした。そして髪子に
も……」
「待って下さい。もうその話はいいのです。もう、済んだことを、僕も聞きたくないのです」
「わしはな、口惜しいんだ。あんな奴に、わしの娘をやったかと思うと、夜も寝られんのじゃ。一
体わしがこんな所でなにをやっていると思います。修理工ですよ。それもただの修理工じゃない。
ぼろっ布で使い古したオートバイの部品の油を拭い取る修理工だ。わしらはな、わしらみんなは、
すぐ隣の三十三号工場から、わんさと持ちこまれる部品に吸いつくんだ。ちょうど黒い蝿かなんか
みたいにな。そしてそれをたんねんになめるんだ。やつはなんと思ってるか知らないが、わしらみ
んなはなめるんだ。蝿のように吸いついては、なめるんだ」
 彼の顔は急にパッと赤みを増してくるとともに、その眼はギラギラ輝いて、建物の奥の方に注が
れた。
「わしらは、恐らくここを再び出ることが出来ないだろうて、へっ、骨になっても出られないとい
うことですぞ。そりゃあ、ここには色んな設備がある。娯楽設備でも、ないものはない位、揃っと
る。しかし、そんなものが、わしらにとって、何の生きるたしになると思います。みんな既製の玩
具ですよ。わしはな、君、今したいことはただ一つ、髪子の顔を見たいんだよ。後は何にも欲しく
ないんだ。わしは馬鹿だった。髪子の傍で一生楽隠居させるというあいつの言葉に釣られて、つい
娘を呉れてしまった。そしたら、じきにあいつの本性が分ったのだ。わしは楽隠居どころか、娘の
顔さえ見られずに、こんな所に追いやられた。へっ、そして、これが現在のしうとに与えられたお
役目なんだ。わしは、わしで働かなければ食べていけない。あいつはあいつで、もっと働け、そう
しないと娘に逢わせないぞというんです。いったいこれはどういう事なんです。え、一体何事なん
です。何かあいつの方で誤解……」
 ふと、彼は口をつぐんだ。見ると、彼の眼はひきつったように建物の奥の方に据わったまま、顔
は真青に変っている。こまかく震える手でランプを掴むと、くるりと後向きになり、ランプを元の
所へ置いたので、私がちょっとあたりを見渡している間に、もうそこに並んで坐っている人々の後
姿からは、父親を見分けることが出来なかった。
 私がしきりと父親の姿を探して、あたりを見廻わしていろと、その時、シュウ、シュウ、と風を
切るような叫び声が建物の内部を貫いたかと思うと、奥の方から、こんどは一段と猛烈な埃が吹き
つけて来たので、少しの間にあたりは一面真暗になった。同時に、もっと奥の方で、命令するよう
な調子の重々しい声と、それに対して反撥するようなカン高い声がいり混って、騒々しく聞えてく
るのだ。何事かと怪しみながら、真暗い中を手探りでその声の方へ進んでいくと、長い階段があり、
それを登っていくと、やがて、鈍い銀色の光沢を帯びた大きな扉に突き当った。
 いくらか開いているその隙間からは、先刻の埃が漏れている。把手を引いて中へ入ると、まとも
に埃の渦に当ったので、私はひどく咳き込んだ。見ると、部屋の中央にストーブに似た形のものが
あり、今しも、もくもくと真黒い埃を吐き出しているところだ。その埃をよけて片隅に立つと、部
屋の内部の模様がかなりはっきりと見えた。
 それは、いわけ空間が中空の大半球をその内側から見た感じで構成され、巨大な半球の内側には、
それに張りついて網の目のような枠模様が、天蓋一杯をうずめて拡がっているのだが、ところどこ
ろの枠からは、糸の様に細く見える綱にぶら下った沢山の人形が、見ている内にも昇り降りし、何
かお互いにシュウシュウと鋭く叫びあっているのだ。
 更に注意して見ると、枠模様の目の一つ一つには、やはり人形らしい者が腰かけていて、結局、
この円蓋の中には無数の人形が含まれていることが分ったが、これらの人形が、皆一様にきらびや
かな金具のついた赤い服を着でいるのは、どうやらそれが制服だからであるらしく、そう思って見
れば、この会議?もやはり一つの秩序に従って運ばれている様子である。
 さっきから、円蓋の中央から動きもせずにぶら下っている人形が議長というところか、紙片を持
った片手を振り上げて、何やら叫ぶと、その合図につれて、さまざまの人形が例の升目からするす
ると降りて来ては、何やら発言し、討論し、それが済むと、又つぎつぎに元の席へ戻っていく。し
かし、偶々、この会議場での議論が激化し、はては互いに対立するぶら下った二人の人形が、とも
に振子の様に揺れだして、遂にはその綱がもつれ合うというような事態に立ち至ったが最後、円蓋
の中はいっせいに叫びだす与党、野党のシュウシュウという叫び声で割れんばかりとなり、議長の
健気な奔走叱陀の声も何の甲斐もなく、波のようにどよもす叫び声、火花のように飛び廻る赤い服
の混乱の渦が、しばらくは円蓋に充満することになるのだが、果てもなく思えるその騒ぎも、手が
滑ったとか、綱が切れたとかいう原因から結果する、当事者の片方のあえない墜落死という悲劇で、
大体いとも簡単に終りを遂げる様子である。
 私は、そっとすべすべする床の上を歩きだした。胸の中は不思議な悲しみで一杯であり、その悲
しみが私の心を昂らせていた。私はこの部屋の中央にあるストーブの所まで近寄っていこうと思っ
た。出来れば、それを粉々に壊してやりたい。上の途中に気付かれず、それがやれるかどうか。す
べすべした床は、歩いていく私の顔を映し、幾分、傾いて見せていた。
 急に、あたりが静まり返った。見上げると思わず立ちすくんだ。
 私の頭上を取りまいている円蓋が、すべて光る眼に化したかの様に、幾千もの人形の動かぬ眼が
じっと私に集まっている。中央からぶら下って、紙片をうち振っていた人形も、その動作をやめて、
私の挙動を凝視していたが、その時、私を指さすと、一声何か鋭く叫んだ。           
 すると、私の前に下り立った人形があった。見ると、それがあの砂男で、にやりにやり笑いなが 
ら近寄ると、私の耳元で囁く。
「いったい、どうしようというんだ」
 思わず、人形を突き飛ばすと、あおむけに倒れた人形はそれでも、手で体を支えると、小馬鹿に
したような驚いた顔で、
「いいのですか、私をこんなにあつかって」という。
 私はもう彼にとり合わず、ストーブに駈けよると、それに手をかけた。後ろでピュウと口笛が聞
えた。砂男が口に手を当てて、会場を走り廻っている。
 円蓋の下の方の扉が開いて、そこから、三人の青衣の人形が、サッと走り寄って来ると、私の腕
を捉えた……。
 恐らく、円蓋を取り巻いているのだろう。廊下を引きたてられて、どこやらに連れていかれる途
中、ふと明るい窓に眼をやると、そこから外の景色が見えていた。
 灰色の一段と低い棟の工場の建物が無数に並び、この円蓋をとり囲んで放散状に伸び、その向う
にはぐねぐねと連った白い塀が、波のように幾重にも続いている。砂男の方を見ると、砂男も、何
か笑ったような表情でそれを見ていた。
「むだなことさ……」嘲笑るような彼の呟きに、
「おい、ここは工場なのか」と聞くと、
「まあ、そんなものですよ。あなたの見る通り、工場にしても、大きな組織になっているんです」
 と答える。
「さっきのあれは何だ」
「株主会議ですよ。この会社の、あなたもとんでもない場所に迷いこんで来たものだ」
「髪子はどうしてる」
「元気ですよ。私は私なりに、髪子に幸福というものを教えてやりましたよ」とあとは笑う。
「そうかな、でも、髪子の父親はどうだ」
 砂男は黙ったまま立ち停ると壁のボタンを押した。私はエレべーターの来る扉の前に立っている
のだった。
「幸福か。幸福とはなんだろうな」
 エレペーターは、五人、砂男と私と三人の青衣の人形を乗せて、ぐんぐん下へ降りていく。温度
が急速に下ってきた。
「砂男、何故黙っている」
 私は凝然として傍に突ったっている彼に呼びかけた。私の腕を締めつけている人形の腕が硬くて
痛かった。急速に、私の心の中で不安が募ってきた。
「一体、これはどこへ行くんだ」
 砂男に詰め寄ろうとすると、傍の青い上っぱりが私を押し戻した。
 砂男は赤い上っぱりを少しかき寄せると、眉をひそめて云った。
「下へさ!」
「下へな!」
 青い上っぱりも云った。
 思わず、うめき声が口を突いた。
「なんだと!このあやつり人形ども」
 しかし、そうも云い終らぬ内、青衣の人形は、私に飛びかかって抑えつけた。
 どうやら下へ着いたらしい。私は三人の人形に手を押えられたままエレベーターを降りた。
「よし、さあ行こう」
 砂男の声で、四人の人形はエレベーターに飛びついた。明りのついた箱は、私の頭上をするする
上って行き、私はそこに独り残された。