物体(4)

 第3部の事があってから、私はしばらく病床についていた。どこといって、別にはっきりした症
状はないのだが、何か体中の細胞が、それぞれの場所で目まぐるしく廻転しているような感じがし
て、時々、わけもなく手足がぎゅっとひきつけるのだった。様々な想念で一杯の頭だけが、私から
遠くに飛び離れたような気持で、うわ言めいた事を叫ぶと、義母がそっとはいって来ては、しょぼ
しょぼした眼に涙を溜めていうのであった。
「どうしたんです。もうお前も学校を卒業して、早く就職してもらわなければいけないのに。こん
な時に工合が悪くなるなんて」
 黙って寝床に横たわっていると、唐紙越しの隣の部屋から聞えてくる客の話し声が、身辺世間の
噂で、A市が今、次々と拡張され、近くに大きな工場が続々建ち姶めたとか、そのために家を引き
払われている話とか、そのような言葉の断片を聞いていると、私は、また次第に眠くなり、浅い夢
に陥ちてはハッと目覚め、また、枕に頭を下ろすといったことを繰り返しているのだったが、頭が
冴える夜はまた、遅くまで話している父と母の声が聞えてくる。
「星男はどうしたんだ」
「体が悪いんですよ」
「どこが悪いんだ。気で病んでいるのだろう」と怒ったような声。
「お父さん!」
 私は隣の部屋へ呼びかけた。
「僕は、……多分そうかも知れません。……明日は起きてみます。もう大分休みましたし、それに
起きて運動でもすれば、僕の今の病気も治るかも知れない」
「そうだ。そうだ」父が唐紙を押し開けて入って来た。                     
「お前は少し考えすぎとるんだ。散歩でもしている内に、そんなくよくよはすぐ忘れてしまうもん む
だ」
「明日、A市に行って見ます」
 私は眼を垂れると、そのまま枕に頭をつけて眠った。 

 あっという間もない、不意に横合いから現れた、単車のキラキラ光るハンドルが斜めに迫ったか
と思ったとたん、横に切れて飛びはずんだ。……単車は、ひとしきり物々しい爆音を人気のない小
路の両側に叩きつけると、そのまま落した階音をおし下げおし下げ、単調な連続音をくり返し呟き
つつ、黒いしみとなってけだるく遠ざかっていった。
(一体、どの位の時間、こうして歩いているのか)
 まだほの暗い外へ出たのが朝の五時頃だとすれば、現在、頭上に鈍く光る陽の角度から考えて、
今は午後二時にもなろうか。そうだとすれば、この両側の塀にそって歩きだしてからの時間だけで
も八時間近くにもなっている。もともと家を出た時の様子からしておかしかった。A市が拡張され
て、工場が建つたということだけで、こんなにも変るのだろうかと思う程、家の附近の模様は一変
していた。まさか迷いもしまいと思って、どんどん先へ歩いていったのが、今は自分のもと来た道、
家の在る方角さえ分らぬ。どちらを向いても、道の両側には、五米程の高さの塀が白く続いている
だけで何の変哲もない。穏やかな日差を浴びたまま、眠ってでもいるようだ。端緒も結末もない白
い塀は、私を中に置いたまま、いつも先の方で奇妙な風に折れ曲り、何本にも分れ、合一し、際限
もなく伸びつづける。一度はこの塀の谷間での唯一の通行者、オートバイを呼びとめようとしたが、
すぐにそれも無駄だと分った。
 ――奇体なことに、それには誰も乗っていないのだ――人肌のように、すべすべした表面を五米
も登るすべもなく、結局は、盲めっぽうでも歩き続けるより仕方がなくて歩いている私の耳には、
それが唯一の現実解明の暗示ででもあるかのような、遠い飛行機の、あるいは蜜蜂の羽音にも似た
かすかな音が間をおいて聞えてくる。それが何の音かは分らないが、気が遠くなる程、長つたらし
い塀ばかり見ている疲れの上に、精神的な麻痺も加わって、眠気に襲われるような気持になる。
 しかし、何故、オートバイは凶器のように、確かな殺意をもって私を狙うのだろうか。爆音が近
づく度に、私は冷汗を流しながら、やもりのように塀に張りつかねばならなかった。
 眠気、それに交替する緊張。いつか泥のような疲労が全身をとらえ、それでも必死の思いで歩き
まわっている私の耳に、その時、あのプーンというかすかな音が、急に大きくはっきりと聞えてき
たのだ。
 立ち止って眼を上げると、私が歩いて来た道とは直角に、やや広い道が伸びており、その向う正
面に黒い枠で縁どられた真赤な門が見える。空色のキッチリとした服を着け、鉄カブトを被った番
人が二人、銃を下げたままゆっくりとその前を歩いている。二人の番人はちらと私の方を眺めて歩
く動作をやめたが、後はあくびでも噛み殺した様な表情で、互いに向かい合ったまま、空の一点に
眼を据えて私を待ちうける風である。
「少々、お伺いしたいのですが」
 私は、いくらか声を張り上げて、快活に話しかけた。                     
 鴎に似た白い鳥が、上空に大きな弧を画いている。空を区切って、遠く灰色の建物が聳えている 
のが、雲がかかっか様にうっすらと霞んで見える。
「見うけた所、ここは工場のようですが……」
 二人の番人の唇の間に、同時に白い歯が覗いたが、瞬時に閉じられた。
「いやなに、実は、散歩に出てぶらぶら歩く内、ついこんな所まで来てしまって弱り切っているん
です。この塀の間から外へ出ていくにはどう行けばいいか、教えていただければ有難いのですが」
 多分、私はその時、軽い失敗でもした時のように首に手をやっていたのかも知れない。――現実
の困惑の内容は決して私にとってただごとではなく、実の所誰彼構わずとり縋っておいおい泣き出
したい位の気持だったのだが、これ以上自分を滑稽な立場に置きたくなかった。しかし、それにも
拘らず、私の立場は滑稽そのものだった。  
 私が、そうも云い終らぬ内、まるで申し合せたかのように、腹を折りまげた二人の番人は、撥け
るような笑い声をたててそこら中を転がり廻ったのだ。
「一体……」といいかけた私も、思う存分笑っているらしい彼等の様子にいったんは煙にまかれた
ような気持になったが、彼等がいつまで待っても、笑うのをやめないので、その時までいい加減貯
めこんだ厭な気分を爆発させてしまった。
「一体、何がそんなにおかしいんです。君達はたかが工場の番人位で生意気すぎはしないか。こっ
ちが困り切っていたからこそ道を聞いた。教えてもらいたいからこそ丁寧な調子で頼むようにいっ
たのだ。人が物を尋ねたら、それに答えるのが常識じゃないか。それを君達は答えるはおろか、げ
らげら遠慮もなく笑っている。一体いつまで……」
「まあ、どうぞ……どうぞ」
 背の低い、むっちりと肥った方が、息をつまらせながら叫んだ。
「どうか、そうお怒りにならないで、私達としても、こんな可笑しなことに出会ったのは姶めてで
すし、笑ったのはお詫びしますとして、では貴方はこの工場に用事でいらっしゃったのじゃないの
ですね、そうですか、でも、不思議だなあ、大体ここへ来る人はここで働こうと思って来るのです
がなあ、あは」
 と途中からまた笑いたくなったらしく、それを懸命にこらえているので、その顔は今にも泣きだ
さんばかりにゆがんでいる。
 私は一歩前に進み出ていった。
「とにかく、私はこの両側が塀の間から、出たいと思っているんです。でその出口の方へ行く道を
教えてもらいたいと、さっきから貴方がたに……」
「それは出来ません!」
 それまで、私をじっとからかうような底意地の悪い眼で見ていたノッポが云った。
「それは不可能です。残念ですが、貴方がこの塀の間から出ていく道はないのです。それは私達だ
って、知っていれば教えますとも、喜んで。だけど、実際知らないのです。そんなここから出て行
く道なんて、守衛である私も知らない道なんて、ないんです。貴方の出ていく道はないのです」
「冗談はよし給え、私がここから出ることが出来なかったら、君達だって出ることが出来ないわけ
じゃないか。またもし、君達のいう様に出口がないのだったら、この工場に働いている人達が帰る
時はどうするんだ」
「あなたは、ここの工場の内部を御存知ないから、そんなことを云うのでしょうが……」
 ノッポが、鼻の頭をかき、眉根を寄せると、笑った山羊そっくりの表情になった。
「私達を含めてここで働いている人達は、この工場の外の事など殆んど考える理由がないのです。
工場の中には、ちゃんと家族も含めた寝泊りの設備もあるし、その他、食堂、理髪所、映画館、学
校、喫茶店から一杯飲み屋に至るまで、すべて街にあるような設備なら、なに一つとしてないもの
はないのです。だから私達はわざわざ外へ出る必要も感じないし、また出ることが出来ないことに
関して、まるっきり不満を感じる理由もないわけですな。だから……」
 と彼は、不意にからかうような眼付で私の眼に見入った。
「だから、つい、うっかりと工場の門から出て、ふらふらと塀の間を散歩するような事はしません
ね。貴方も多分出会った事でしょうが、白い塀の間には、オートバイがうようよしているんですよ。
実に物凄いスピードで飛んで来ますからな。ちょっと、ひっかけられたら塀に叩きつけられて死ん
でしまいますよ。まさか、そう簡単に轢かれもするまいが、何日も飲まず食わずで、ありもしない
出口なんか探して歩く人なんかには、てきめんでしょうな」
「そうですよ、そうですよ」
 ノッポの傍で、その時まで、ぼんやり突ったったまま私を眺めていた肥っちょが、飛び上って叫
んだ。
「なんだって貴方は、塀の間なんかを歩くのです。この工場の中にはいってしまえばいいのに……」
「ちょっと」
 ノッポは肥っちょに、何やら合図すると再び静かな口調で続けた。
「あなたは散歩に出て、ぶらぶらとここに迷いこんでこられたのだが、しかし、いったん、この中
に入りこめば、工場の中にでもはいらないかぎりこの塀に囲まれた小路から出ることは絶対に出来
ませんよ。それだけははっきり申しあげて絶対に不可能です」
「そんな馬鹿な!」
 私はカッとなって叫んだ。
「私はただの自由な散策者としてここに来た。この工場に働きに来たのじゃないのです。それを君
達は口を開けば、やれ出る道を知らないの、この工場にはいれの、それじゃあ、まるで何も知らな
い者を罠にかけるみたいなものじゃないですか」
「ちょっと、ちょっと待って下さい」
 ノッポが慌てて遮った。
「罠にかけるみたいとはひどい云い方ですよ。私達はあなたの身を思えばこそ、あんなオートバイ
のうようよしている所を歩くのをやめて、――それは出口のないことははっきりしているんですか
ら、それよりは安楽な工場へはいることを、勧めているのじゃないですか。それを罠にかけるみた
いとはひどい。実にひどい」
 ノッポが、さも憤慨したように口をとがらせていると、その時まで、門の傍の電話で話していた
肥っちょが近ずいて来て、耳打をした。
「ふん、ふん、やっぱりそうか」
 私の方を見ながら、ぶつぶつ云っていたが、やがて、くるりと私の方へ向きなおると、楽しそう
な表情で、上衣のポケットに手を突っこんで中のものをガチャガチャいわせた。
「いや、お待たせしました。どうも責任の範囲についてはっきりしない点があったものですから、
本部に問い合わせていたのです。私達にしても、最初から、あなたがあんな所から歩いてこられた
のをどうもおかしいとは思っていたのですがね。今の電話で、すべてがはっきりしました。それに
よると、あなたは間違ってここにはいってこられたのです。それが、塀の方の係のちょっとした怠
慢でね。閉じているべき塀が偶然開いたままになっていたのですよ。あなたはそれを普通の道だと
思って、何の気なしにはいって来られた。そこにそもそもの間違いのもとがあったわけですな。一
体に、塀は、ここに働きに来る人に対してだけしか開かれないことになっているんですよ。ええ、
塀の係がそれをするのです。すると塀の間を走っているバイクがその人達を乗せて、この門の所ま
で連れて来る。と私達がその人達の名前を登記して、工場の内部へ送りこむ。と、ざっとこういう
風な順序になっているのです。ところが、貴方は、ちょっとした偶然の間違いがもとで、この塀の
中へはいって来られた。オートバイは何の指令も受けていないので、貴方の前では止まらない。や
っとここまで歩いて来た貴方は、私達には何の事やら分らない事を尋いて、無理な要請をする。私
達は私達で貴方の立場をどう思ってよいか分らないので、とりあえず、この工場の内部の事や、白
い塀の間の危険なことをお教えしていたような次第です。でも、貴方の立場が単なる偶然の間違い
から生じたものであると分ってみれば、もはや問題は解決したのです。つまり、貴方の立場は間違
いから生じ、現在も又間違っているのですから、つづめて云えば、本来的に間違っている貴方の立
場、すなわち存在は、私達の責任にいささかも関係しているものではない。又、貴方のこれからの
行動について、あれこれ批判を加えたり、指図したりすることは、私達に与えられた権限の外に属
するものということになるのです」
「何ですって! では」
 私は息詰まる思いで、ノッポに詰めよった。
「私はどうなるんです。間違っていれられた私は。間違いをなおして呉れないのですか。もう一度
塀をあけて、私を元に戻して呉れないのですか」
「待って下さい」
 相手は、私の気迫に押されて、思わず飛びのきながら叫んだ。
「それは出来ません。誰にも。あの塀はそんな風に出来ていないのです」
「何を云ってるんです」
 私は、びっくりしたような眼で私を凝視しながら、だんだん、門の内側へ引っ込んでいく二人に
向って叫んだ。
「塀の係か、工場長に、開けるように願って呉れませんか。ほんのちょっとの手間じゃないですか。
何故、それが出来ないんです」
 プーンという顫音が、風の工合だろうか、その時、にわかに高まってくると、二人に向っで呼び
かける私の声は、それにかき消され、
「何故、それが出来ないんです――」
 と叫んでいるつもりで、口だけを動かしている私に向って、拒否の形に手をかざしている二人の
番人は、門の内側に立った二つの石像のように、みじろぎもせず、私を見詰めているだけだった。
 ふと肩を叩く者があるので振向くと、私の後ろに一人の若者がにこにこ笑いながら立っている。
如何にも機敏そうな若者は、私の耳に口を寄せると力いっぱい叫んだ。
「私が塀の係です、さあ、行きましょう」
 と私を引張っていこうとする。連れだって広い道の終りまでいくと、そこには、オートバイが停
っている。
「どうぞ、過失の償いです。貴方を外へ送るんです」
 再度、耳に口を寄せて叫ぶと、オートバイを指さした。多分、乗れというのだろう。私には願っ
てもない好意である。
「しっかり掴まっていて下さいよ」
 後ろの席におさまりはしたものの、振り飛ばされないようにしがみついているのが精一杯の私を
のせて単車は走りだした。
 プーンという顫音が次第に遠ざかり、代って、前の若者の鼻歌が聞えて来た。
「だ、大丈夫かね」
 と車の震動のために、ガクガク震える声でいうと、
「なあに」
 と、唸るように答えて、とぎれとぎれに叫ぶ。
「さっきは、どうも、同僚の、ちょっとした、間違いで、途方に暮れたでしょう。それに、この工
場は、わからずやばかりで、いったん起った事は、もう絶対、元へ戻すことが、出来ないと、思い
こんで、るんですからね。そりゃあ、いったん入ってしまった、貴方を出すために、塀を開くこた、
出来ないんで、すがね。その塀を、越すことは、出来る」
 風は、びゅうびゅう私の耳で鳴り、両脇にせまる塀は、まるで二匹の白い巨蛇のようにぐねぐね
と後ろへ飛んだ。
「さあ、つきましたよ」
 前の若者が叫んだ。
「あそこの石のあるところです。私があの石の上に立ちますからね。あなたは、すぐ私の肩に乗っ
てあの塀を越せます」
 なるほど、行手の道脇には大きな石が転かっていて、若者の肩を借りればうまくいきそうだ。
「ありがとう」
 私は、若者の耳に伸び上り、感謝の意をこめて叫んだ。
「あれ!」
 その時、若者がすっとん狂に叫んだ。
「ブレーキが利かない!畜生!ハンドルも」
 若者の肩が大きく盛り上って、ハンドルと格闘している。大きな石がすぐ眼の前だった。
「あ!」
 車体が大きく弾んで、若者の体がもんどり打って宙を飛んだ。前のめりに落ちそうになりながら、
思わず腰掛を掴んだ私の眼に、瞬間、塀に叩きつけられ、口をぽかんと開いたまま、崩折れる若者
の姿が映った。
「君、大丈夫か!」
 必死になって、ハンドルを掴もうとした私だが、その時、無気味にもぐるりとひとりでに廻転し
た単車は、そのまま物凄いスピードでもと来た道を引き返し始めた。
 最初は横に飛ばされそうになり、次に、後へ引っくり返りそうになった私は、もう何が何やら分
らない。懸命に車体にしがみついているだけの私をくっつけたまま、運転者を失った黒いオートバ
イは、白い塀の間を突っ走った。パッと飛び退いた二人の番人を尻目に門をくぐり抜けると、眼の
前に、真黒い建物が聳えていた。アッと身を縮めた瞬間、私は車諸共、建物にぶっつかってしまっ
た。