山風(97)

kuromura2010-01-30

 その男に出会ったのは、山のほのぐらい木立の中。小さな流れに架かる橋の上。下から澄んだ水音が立ち上っていて、ぼくらは、橋の途中で互いに目を見交わした。男は赤い帽子を被っていて、どこか懐かしい。いつかどこかで、会ったような毛深い顔だつた。
 ーこんにちは。知り合いではないがぼくらは声を交わす。それは山での習慣。会う人は誰でも山の仲間だから、街ではしない挨拶も気軽に交す。
ーまだかなりありますか。
ーいやもうすぐですよ。
ーありがとう。
ーおつかれさん。
 すれ違った時、互いのリュックがぎいぎいきしんだ。
 静かなどんぐりの林を過ぎ、息せき切って急な岩場を登ると、やがて目指す山頂が見えた。振り返ると、下りて行く赤い帽子が若葉のあいだでちらちら揺れている。
 風が吹いてどんぐりの葉が揺れ、帽子が転がる。あわてて追いかける男。どこかで見たような赤い帽子だった。そういえば見たよな顔だった。あの男は‥‥‥子供の頃見たサーカスの熊に似ていた。
 サーカスの熊五郎は、赤い帽子をかぶり、玉の上に乗っていた。私は一番前の席で、彼を観ていたっけ。そのとき熊が云った。
ー面白いかい。そうだろうな。お前さんはまだ子供だもんな。こうして不安定な円い玉の上に乗っていると、世界が見えてくるんだよ。この世界は、見世物になる側と、それを見て楽しむ側の二種類に分かれる。俺たち動物はいつも見られる側だよな。人間でも有名タレントは見られる側だ。見られる側はいつも見る側の反応を気にしている。だって、自分が見られなくなったら、終わりだからな。俺たちはいつも見る側の気持ちを気にしながらびくびく生きているんだ。つくづく俺はこの世界がいやになったよ。
 ごうと風が吹き過ぎた。また、木の葉がざあっとどよめく。ああもう山頂。ずっと遠くまで見渡せて、いい風、いい気分。
 あの熊五郎は今どうしているだろうか。まだ、生きているだろうか。それともすでに死んで、檻と鞭から自由になったのだろうか。一瞬、目の奥で、よたよたとした足取りで玉によじのぼる熊五郎の姿がよみがえった。
 ああ山はいいーここには自由をそこなうものはない。またいつか会おうよな、熊五郎