春(88)

 雑木林の中の、急な崖道を登っていると、突然、耳元で生暖かい息を吹きかけられたような気がした。見ると、傍の大きな樫の樹の幹に小さな穴があいていて、その奥で何やらもぞもぞ動いている。どうやら樹のうろに鳥の雛が居るようだ。
 こんな低いところに巣を造る鳥もいるのかと思って、穴を覗き込むと、赤黒いものがしゃにむに、つぶったままの目ばかり大きな頭を突き出してくる。手を入れて、引っぱり出すと、まだ毛の生えそろわぬ鼠に似て、痩せてなめし革のような裸のからだをよじっている。
 一体この生きものの親はどこにいるのかと、あたりを見回した。こんな低いところに巣を造って、蛇にでも食われたらどうするつもりだろうなどと、ぶつぶつ呟きながら、取り出した生きものをポケットに入れようとすると、
「よけいなことを」 
という小さな声がした。  
 どうも、この生きものが喋っているらしい。
「いま云ったのはおまえか」と聞くと
「おれが蛇に食われようが、おまえが知ったことか」という。
「それは困る、おれは、おまえの危険な状態を見逃すことは出来ないのだ」
「どうするつもりだ」
「家に連れて帰る」          
「よけいなことを」
 連れて帰った生きものは、パンのくずや大根の葉を食べる。まだ自由に動けないので、柱に吊った布の袋の中に入れ、時々糞で汚れた身体を洗ってやる。世話のやけるわりにはわがままな奴で、お湯が冷たいとか、いやな臭いがするとか、エアコンの音がやかましいとかいう。
 生きものは「こんな窮屈なところはもういやだ」と雑木林に帰りたがり、こっちは「いつも文句ばかりいいやがって」と口論ばかりだ。