のりとIC

 佐賀といえば、たいていの人は頭をかしげる。ひところテレビドラマの「おしん」や山本常長の「葉がくれ」などで話題になりはしたものの、どうも位置的に印象のはっきりしない場所のようである。佐賀へ行くためには、博多か鳥栖長崎本線に乗り換えねばならないし、面積も四十七都道府県のうち四十二位でごく小さい。
 米作日本一を記録したのは、昭和四十年から四十二年であるが、これとても減反政策からこっち有名無実になってしまった。佐賀=肥前が全国的に名をはせたのは、かのアームストロング砲が活躍し、薩長土肥といわれた維新の前後ぐらいかも知れない。現在の佐賀県は、九州の北西部、福岡と長崎にはさまれ、北は玄海灘、南は有明海に面した平凡でおだやかな過疎県である。
  有明海は、干満の差六米に及ぶがたと呼ばれる泥海である。ここには、むつごろ、わらすぼ、くちぞこと名づけられた、進化から取り残されたような魚類が棲息している。また、沖合では、昭和三十五年ごろから始められたのり養殖が盛んであり、その生量額はかっては全国一位を占めていたが、近年は赤腐れ病による不作が懸念材料になっている。
 一年に十米陸地化するといわれる有明海沿岸は、古来干拓が盛んに行われ、その潮止め堤防から北部の山麓までひろがる佐賀平野は、全国有数の米どころであり、見わたすかぎりの田園地帯である。この地帯をぬって、クりークと呼ぱれる濠が縦横に巡らされているが、これは稲作の用排水として利用されるものであり、佐賀地域特有の景観ともなっている。佐賀の人は、このクリークで鮒を釣り、泳ぎを覚えたものであったが、近年の圃場整備の進行で、これも次第に消えていくのは淋しいことである。
 島原の宮崎康平氏の著『幻の邪馬台国』によれば、佐賀は「彌奴(ミヌ)」の国だそうである。この地域の北、背振山系が連なる麓は、先史時代の遺跡や遺物のベルト地帯であり、九州横断道の建設にともない調査発掘が行われた結果、国内初の移設例となった丸山古墳をはじめ数々の遺跡、遺物が見つかった。また、国定公園吉野ヶ里遺跡は後日、工場団地の開発調査に伴って発見確定されたものである。
  事情は、この地域の西方に位置する東西松浦郡でも同様であり、『魏志倭人伝』における末盧(まつら)国に比定される古代国家の存在を裏付けるものとされている。現在では唐津伊万里と呼ばれるこの地域は、前記の佐賀地域のような平野は少なく、わりと低い山地がつづくいわぱ上場地帯であり、主として野菜などを栽培し、天然の良港を擁し、虹の松原などの観光資源にも恵まれている。
 佐賀の人が海水浴に行くといえば、いまでもたいてい唐津である。佐賀から朝の臨時列車に乗って一時間、山本で乗りかえて東の浜に行くか、そのまま乗って西唐津で降りる。また、もっと奇麗な海がいい人は、大手口から呼子、七ッ釜方面行きのバスに乗る。
 有田焼で有名な有田の窯元があるのもこの地域であるが、毎年五月の始めに開かれる陶器市は、JR有田駅から上有田駅までニキロの間に店舗が立ちならび、リュックサックをかついだ人の波で賑わっている。
 長崎県に隣接する西部山間部、武雄、鹿島地区は、全国第四位のみかん団地や茶園地が形成され、また、武雄温泉、嬉野温泉などレクリエーシヨン資源に恵まれ、有明海沿岸の竹崎のかに、平野部で収穫される白石レンコンも名高い。
 以上佐賀県は、この三つの地域の特色を生かしつつ、九州横断道をバネとして、機能の改善をはかり、現代社会での役割を果たそうとしているのであるが、鳥栖久留米が民間の活力を導入するテクノポリスの指定をうけて以来、佐賀東部地区には、精密電機工場、IC企業の進出が目だってきた。また、これに関連して、ニューセラミックスという焼成物が有田窯業で試作され脚光をあびているが、これは碍石などIC材料、歯や骨など医療材料から自動車のエンジンと用途が広く、強じんで耐熱性にすぐれ、これまでの金属や樹脂につぐ第三の素材といわれている。
 佐賀は昔から教育県であり、空気のきれいな田園都市でもある。念願の佐賀空港は出来たが、今後、運送手段や流通機構を改善することにより、大都市と結びつけば、佐賀の産業の役割はこの上なく大きなものになるに違いない。
 有明海では、今年も十月二日にのりの張り込みが始まった。午後三時、満潮時の水温、19,4〜21,5度、多少高めではあるが、塩分比重25%とまずまずの海況。のり網を満載した漁船団が、早津江河口に広がるのり漁場に到着する。二人一組で小船に乗り移り、巾1,5米、長さ18米ののり網を林立する竹ひびに結びつけていく。この漁業、更に平野の農業との調和をはかりながら、佐賀の産業は新しい時代へ向って伸びていこうとしている。

※IC──超薄型で消費電力が少ないため、各種電子機器に利用される電子回路。ーのり製造機にも使われる。