チーコと私の病床日誌(153)

4月30日、県文学賞の小説、随筆部門の企画委員だった相知の白石さんが辞めたので、一人になった。まあ、コロナ騒動で会議もないから、たいした事ではない。一方、詩誌「滾滾」に原稿を依頼されている。まあ、6月末までだから、なんとかなるだろう。今日は、パソコンで、二人で入院中の日記(あの頃はまだ妻は寂しがってたし、わがままを言う元気もあった)を見て過ごした。

5月2日、昼過ぎ、ファイナライズして、vhsのビデオからdvdにダビングして、出来たので、もう一つと試みたが、こんどは失敗したようだ。多分、ダビングの時間を2時間のままにしたのがまずかったのだろう。なかなか難しい。とか、思いながら、もう一度最初からやり直したら、今度は出来ていた。まあ時間はかかったが。

5月5日、朝まで雨。夕方5時から6時、庭仕事。

貧弱な外国語
今では、日本のいたるところで猛威を振るっている外国語、横文字。この現象は、日本が先の大戦で敗れた時から始まったことだが、戦後70年、スーパーの商品から、テレビのコマーシャルまで、今は、政治家まで堂々と使って恥じない。福沢諭吉が、時代に合う日本語を創造し、広めた漢字。社会、文明、人口などは、中国に逆輸入されているのに。誰も、もう、翻訳しようとはしないどころか、横文字のほうが高級で、しゃれていると思ってか、新しい医薬品などは、外語と錯覚させるような名前を作り出す始末。化粧品や衣料品まで外語なまりの商品ばかりだ。
日本には、古来優しい響きの表現があった。雨の種類でも、小雨、糠雨、時雨、など、ただレインと言うだけでは判らない雨の状態が、そこにはあった。人間が感じるものが、言葉によって表現されていた。
人間の手で作られた機械や薬品はともかく、人間が関わる事象に一律の名称を与えるのはその言葉の機能からして貧しいと思う。
横文字はほぼ表音文字だが、漢字は象形文字だ。表音文字はなかなか思い出せないが、漢字は形や事象に沿って創られているので、すぐに思い出せる。なかなか思い出せずいらいらさせる外国語。ああ、誰か翻訳してくれる人は居ないかな。

6日、朝9時、どんぐりに3寸あやめとりょうぶを持って、ワクチンの接種問診表を提出し、川上の神社で御参りし、ジャスコで買い物をして11時に帰る。

7日、午後5時頃、次男から電話。30分ほど話す。

9日、1時~3時半、庭仕事。堀のヘルメットを拾った時に少し腰を痛めたようだ。

10日、午後4時と7時に水が江の同窓生に電話したところ、7時に向こうから電話があった。発端は、次男が電話で、幼い頃遊んでいた友人の死亡原因を聞いてきたことだった。電話の彼は、友人の父の従兄弟。もしかしたらと思って掛けたのがよかった。実は、友人は東京の大学の入学歓迎会で一気飲みをして、亡くなったという事だった。この話は、東京の別の従兄弟から1年ほど経って聞いた話だそうだ。後で、次男にも電話した。