チーコと私の病床日誌(112)

2月26日、晴、旧友の池田君に何度電話しても、繋がらないので、共通の友人のH君に電話して、夫人の入院先で調べて貰ったところ、1月22日に死亡していることが判った。献体しているということだが、詳細は未だ判らない。午前11時S眼科の診療。夜,H君から電話があり、池田君の介護先の上村病院の者が警察立会いの上で、部屋の鍵を開けたところ、遺体を発見したとのことだ。私が電話した旧年中は、スーパーには行っているとのことで、安心していたが、明けてからはどうだったのか。外に出られなかったのは何が原因なのか。何にしても、可哀想で悲しい。
2月27日、池田君の追悼文を佐賀新聞へ持参する。


池田賢士郎君を悼む
笑みを浮かべた片頬、相槌を打ちながら、人の話に耳を傾ける。喫茶「コギト」で、池田君は誰かれと無くよく人と話をしていた。話の相手は、公務員、会社員、学生など様々で、新聞記者にも知り合いが多かった。
彼は、高校の同級生で、私が大学に行っていた頃には、東京に居たが、私が帰郷すると、しばらくして、彼も佐賀に帰って来た。
当時、私は同人誌「城」に入っていて、主宰の田中さんたちが、図書館で始めた「近代文学研究会」にも参加していたが、彼が帰って来たのは、偶然にも、ちょうどその例会の日だった。
池田君は、研究会に参加したが、それに飽き足らず、「現代詩研究会」を創り、更に、会員50名を超えた「はんぎい」も創刊した。
だが、「はんぎい」6号に、掲載された彼の長編論文「反映的組織のなかで」は、九州の詩人たちの反感を呼び、「はんぎい」自身も崩壊してしまった。
同じ時代を生きた者として、詩人連絡協議会=「組織」に対する反抗と判るし、それを「なあなあ」で終わらせなかったのは彼の気質だったのだろう。
彼は、人の話はよく聞くし、誰でも、どんな話でも、打ち明けることができる優しい人間だった。佐賀は得がたい人を失った。
3月1日、風強し、ブラッサンスでコーヒー。
3月4日、夜、池田君と共通の友人だったKさんから電話。彼女が電話した1月中旬には、声も小さくかすれていたとのこと。半時間ほど話す。