チーコと私の病床日誌(93)

5月15日〔月)晴、朝からシーツ、下着など洗濯して干す。
5月16日(火)薄曇、3時から庭作業。
固執北朝鮮とシリアの問題から)
この地上には、自分の考え方に固執して、それを他にも押し付ける権力がある。誰でも人間は、それぞれ、自分に合った生き方をしたいのに、画一的な堅苦しい生き方を押し付けられる。個性的で、多様な暮らしを経験した人なら、自由への脅威と受け取ってしまうだろう。
一国の独裁者にとって、自国民の多様性は体制の安定を損ないかねないものになる。民は貧しく、慎ましく、余計な考えを持たないに越したことはない。
この地上に暮らす動物、植物には多様で、個性的な暮らしがある。自由に空を飛んでいた鳥が、籠の中で暮らしに満足できるだろうか。
多様性を認めない政治は長続きしない。
5月19日(金)晴、血圧は152。薬を飲んで、108。昼前から久しぶりに布団を外に干し、3時から梯子を掛けての松の樹の剪定。自分のためだけにする張り合いのない庭仕事だが無事終えた。
5月21日
衆愚?政治
近頃は、どこの国でも、デモ流行りだ。政治への不満をプラカードに書いて、街中の目抜き通りを大勢で行進する。特に、南朝鮮ではすさまじい。朴大統領を辞任させるための何十万人という「ろうそくデモ」が毎晩繰り返されたのは、記憶に新しいが、過去にも、この国では、大統領の晩年は不幸で、刑事告発されたり、暗殺されたり、中には自殺したりもしている。
時の政治に対する民衆の不満は、いつの時代にもあるが、これほどの規模の市民運動はあまり聞いたことはない。大使館前の、慰安婦像の設置など、民衆迎合という言葉があるが、今の韓国の政治では、当たり前のことになっているようだ。
大衆デモによって、国の政治が左右されるのはいいことか?一国の外交方針がその時々の民衆の感情で、決められるのはいいことか?
南朝鮮の政治は、昔から、周りの力関係で変わる。

三寸あやめ