井戸(78)

 城壁の上で、刀を持った男に追っかけられている夢を見ていた。怖い夢だった。夢の中でしきりに誰かが呼んでいた。
 戸口から洩れてくる冷たい光に、外を覗くと、昼のような月明かりがさわさわと庭に溢れ、高い桐の梢もぼんやり霞んでいる。 
 まだ、夢を見ているのだろうか。桐の樹の下に立っていた白い影が、ひらりと萩の花の向こうに隠れた。あれは死装束を着た幽霊だろうか。彼を追い詰める鬼だろうか。 
 いつの頃からか、彼にとって、この世界は金がすべての世の中になっていた。彼は金を得ようと事業に手を出して失敗し、サラ金に手を出して、重なる利息の重圧に首が回らなくなっていた。

 どこかで、ころころこころと、こおろぎが鳴いていた。それは、さっきの夢の中の声のようであり、戸を開けて外に出ると、草葛が生い茂った古井戸のあたりで、ここ、こころとしきりに鳴いている。
 ああ ここにはまだ、父や母のやさしい心が置かれている!
 思えば、負債を払うための際限のないやりくりの中で、人間らしい心をなくし続けながら、彼は、今も醒めることのない地獄の中に生きているのだ。
 ああ、あの時、どうして親の云う事を聞かなかったのだろう。親は、いつも彼の事だけ考えていたのに、子は親の言葉を聞こうとしない。頑固に自分の考えを通して、しないでいい苦労をしたあげく、同じ歳になって初めて、親の温情をしみじみと思い出すのだ。 
 いつか荒れ果てて、鬼の住処となったこの庭。彼の片意地な心を溶かすように、ひたすらにこおろぎが鳴いている。
 こころ、ころろ。
 蔦葛が生い茂った古井戸のあたりで、不孝な子を諭す両親の声が聞こえる。落ち葉の中でこおろぎがしきりに鳴いている。