オレンジ色の壁には、クリムトの絵‥‥仰向いた女の顔が懸かっていて、喫茶店の閉じたガラス窓の内側で、ディスクの音楽は嫋嫋と鳴り渡っていた。
昔はレコードだった音楽も、今はすべてがCDに変っている。CD‥‥コンパクトディスクは、レーザー光線を樹脂製の盤面の凹凸にあて、その反射光を読み取るということだが、私にはよく分らない。
音楽を聞いているうち、いつか私は樹脂の香りがする見知らぬ森の中を歩いていた。
碁盤の目状の、一定の間隔をおいて、整然と立ち並ぶ樹々。そこは風のない森。鳥も住まない人工の森。そしてかすかに漂う、作為の香り。
苔の絨毯を踏んで歩いていくと、とある樹の根元にひとりの女がもたれていた。
近づくと、クリムトの絵の女で、例の失神したような表情のまま、いびきをかいて眠っているのだった。
「もし、もし」
女が目を覚ましてこっちを見た。
「お疲れのようですね。官能的なお顔が台なしですよ」
女が伸びをして立上がった。
「いつも同じ顔をしてるのも、退屈なものだわ。でも、ここはどこかしら」
「ディスクの中じゃありませんか」
ー音楽の注文は? そのとき店主の声がした。
私は眠っていたらしい。
ガラス窓の向こうには、いつもと変わらぬ原色の日常。そしていつものように、ゆっくりと熟れていく日常がある。限りなく堕ちていく苛酷な世界がある。
ー大丈夫? あなた。この現実に目を開けていられる? 目の前の絵から、クリムトの女が尋ねる。
*クリムト‥‥1862年ウイーン生まれ、装飾的な画風。父は彫刻師。