水妖(63)

 ーあれは何処だったのだろう。ひょっとして、あれは夢の中の風景だったのか。あの景色がパズルのように、すっぽりと心の奥に納まった時から世界は虚しくなり、わたしの心は、ずっとあの風景ー暗い樹影を落した静かな沼の岸辺に、囚人のように繋がれている。
 季節は繰り返し春を迎え、空があの時のように茜色に染まって、心落ちつかず、門の前に立ちつくしても、秘密の場所へ至る道は閉ざされていて、行くすべもない。あの沼も当時のわたしの気持も、すべては、夢の中のことで、あの景色はやはり実体のない夢幻の世界へ戻っていくのだろうか‥‥。

 山の中でのオリエンテーション。参加者は若い学生二十人ほど。横に並んだ指導員の顔が笑って、その前を風のように走った。
 AからZまでの名札を求め、起伏が多い山中を駆け抜けた。空の雲に導かれて、すすきの原をよぎり、風にどよめく樹海を入る頃ーわたしは一人になっていた。いつかコースを外れ、初めての場所にいた。その時、ミズナラの林の奥からアリアの旋律が聞こえ、空気に甘い匂いを嗅いだ。
 前方に、ああ なんと美しい沼ー。それは初めて見る深くて青い沼だった。思わず立ち止まり、水面を覗き込んだ。緑の樹影を映す水面に手を浸すと、わたしの白い顔が揺れて崩れ、不意に無数の光の妖精ートンボが舞いあがった。
 今はアリアの歌は止んでいた。対岸に白いものが見えた。犬よりは少し大きい獣。全身が白い毛の狼が立ち止まってこちらを見ていたが、そのまま樹林に消えていった。
 不思議な気持だった。日本の狼はすでに絶滅したと聞いているし、あのアリアはいったい誰が歌っていたのか。もう一度同じ場所に行きたいと、後日探したが、そこには、ゴルフ場があるだけで、沼の所在も分らない。
 陽が落ちた晩春の空に、茜雲が西の涯まで伸び、繰返しこだまする歌声‥‥あそこで消えて行ったのは狼ではなく、わたし自身ではなかったのか。