記憶(60)

kuromura2007-11-05

    記憶

 ぶんぶんぶん。蜂がぶんぶん頭の周りを飛び回る。母の昔話は西遊記だったか、それとも七つの海を越える王子の話だったか、私はいつか眠りこけていた。ああぶんぶん蜂がぶんぶん頭の周りを飛び回る。いったい母はどこだろう。いつか金色の蜂は容赦なく髪の毛の中まで潜り込み、たえまないハミング繰り返し、私はうっとり微笑んでいる。

 人間は幾つぐらいからのことを思いだすことができるのだろう。私には、せいぜい五つぐらいからの記憶がせいいっぱいだ。近くの稲荷神社から花火を見るために、親類の娘に連れられて、夜道を歩いたことは覚えているが、花火の映像自体は残っていない。
 記憶は何度かそれを再生することで、だんだん定着するのだろう。
 つい最近、高校時代の同級生に出会って、山で迷子になった話をしていたら、私の記憶がいかに不完全であるかが分かった。彼と私の二人は、下山の途中で、どちら側からの提案だか分らないが、他の同級生らとは違うコースを選んだのだ。
 見晴らしの良い草原の下り道だったので、いずれは駅に帰り着くだろうと、多寡を括っていたのだが、暗くなった駅のホームで、待ちくたびれた担任の先生にさんざん叱られたのだった。
 私の記憶がいかにお粗末だったかは、心労のあまり、ぐったりベンチでうなだれた先生の顔を全く思い出せないことである。
 友人の話を聞いてはじめて、そうだったかと、先生の気持に思いを馳せたのだ。
 人は、自分だけの力で大きくなるのではない。こうした自明の事柄が、生意気な私には分らぬまま、大きくなってしまった。
 母は私を比較的自由に育てたらしい。そのお蔭で、自由にものを感じる能力は身についたかもしれないが、他人の思いやりに感謝する気持が抜け落ちたのかも知れない。最近そんなことを思う。