獣の眼(上)

 なにがどうなのかさっぱり分らない。まわりは真の闇、一寸先も見えない。完全な網膜像の喪失
――第一自分がどんな形をしているやら、手をもっているのやら、足がついているのやら、それす
ら感じられない。まわりには息苦しい闇が一杯だ。一体どっちが下だろうか、上だろうか、とらえ
どころのない空間をぐんぐん落ちていく感覚、無限の時間を漂っている感じだ。純粋な恐怖がひし
ひしと身をしばり、もうやめてくれ! と叫びたくなったその時、一筋の光が前方から進んでくる
のが見えた。夢中でその光の中へ泳ぎいり、ほっと息をついた。――次第に視野が明るくなってく
る。眼の前に網目のよう に黒いものがぼっとひろがって見えた。樹木だ。

 
         1   

 一滴、そして一滴、水しずくがその黒いものの下でみるみるふくらむと、やがてきらりと光って
めまぐるしく地面に落下していった。点、点、点、湿った地面の上にいくつもの小さな穴があく、
それが又、次のしずくで崩れ去る。限りない水滴の落下のあいだから、ひっそりとしめった匂いが
そこらじゅうにしていた。
 金網の向う側に妙に白いものが立つたまま動かずおまえを注視していたが、おまえはわざとその
方を見なかった。例の一本足で立っているくちばしの長い鳥を、改めて見るまでもなかろうと思っ
たからだった。鳥は囲いの中にいれられていた。それは桜の樹間に、それよりは少しばかり高く在
る、釣鐘を伏せた恰好のいれものだった。赤く錆びだ細い鉄骨が横骨に組まれてまるくめぐらされ
上方は曲りつつ一点に合わさっている。それはどこか中世風の悲しみをみせている鳥の檻である。
 都会の郊外にあるこの有料公園の中に、最初はこの鳥の檻だけがあったのだが、今では動物も増
えて新しい囲いや檻ができている。
 真黒い毛皮の動物がその中でしじゅう首をぶらぶらさせている四角で小さくて頑丈な檻、コンク
リートの高台の上にあの鼻の長い動物を引きとめているくさりと幅広く深い溝の囲い、角の生えた
動物をその中に遊ばせてある木の囲い柵、一つ一つ見て廻れば、この檻という動物達を閉じこめる
ための人為的な工作には、実にさまざまの方法があることが分る。それはなかば、そこに入れられ
ている動物の習性に従いながらも、なお広さや高さの点においてこまごまとした制限を与えている
のだ。
 閉じこめられた動物達は、彼等の以前住んでいた世界をもっと収縮し、要約したちゃちな箱庭を
与えられていたが、それとても、あたかもそれらの環境でもって生かしてやっているではないかと
いう厭味と、もはや絶対に自由にはさせないぞという真意を無言のうちに悟らせてやまない恰好に
である。
 おまえはその有料公園の中を歩くうち、いつも同じ方向から聞える動物の唸り声を耳にした。そ
れはまだ檻に入れられて間もない虎で、堅いコンクリートの床の上をぐるぐる廻りながら、囲まれ
た鉄柵の内側でたった一匹で吠えているのだったが、その絶え間ない驚くほど規則的な同じ調子の
吠え声は、深い生理的な苦しみそのまま、おまえの胸を痛くしめつけるのだった。
 動物を閉じこめるための檻というものは、いったいいつごろから造られ始めたのであろうか。恐
らくは最初、人類の狩猟時代、捕えられた凶悪な獣を単に一時的に拘禁する目的を有していたに過
ぎないこのいれもの、それが観賞の用途にまで使われだし、その中にあらゆる種類の動物を収容す
るようになったのはいつの頃から始まったことだろうか。
 今、人類はその方法の発達した様式として動物園をもっている。それは人々がその園へ金を払っ
て入り、そこここに閉じこめられた動物達を見物する時、殆んどそれが、閉じこめられているとい
う形容には全くそぐわないほど、その環境が動物達に自由を与えているかのように思いこませるの
だ。
 オットセイの水泳、豹の木登り、猿の岩山、狸の洞穴、おまえもそこで動物達がありあわせの材
料ではあるが、それを利用して遊び或いは生活しているのを見て、その自然そのもののようにみえ
る優美な動きにうっとりするのだ。
 動物達を見るのは楽しい。特に危険な動物を安全の立場から眺めることは。そしてそれが自然の
ままの姿態に近いものであればあるほど喜びは大きいわけだ。
 しかし、いったいそんな喜びがなんだろう。おまえの中で、突然、前ぶれもなくその喜びは消え
る。そして、おまえはその時、ずっと前からそうであったが、今もそうである真実――彼等が囚わ
れの身であることに気づくのだ。彼等は囚えられている。……彼等の生活は彼等のものではない。
彼等の勤作は彼等によるものでない。……それからはもう、前には動物達を見るごとに新奇な喜び
に胸をときめかせたおまえが、今はそれらの動物達を見るたびに別な悲しみに打たれるのだ。
 金網の向う側に、鉄柵をゆすぶって立っているどこか山男に似た黒猩猩を見たとき、悲しかった
ように――前には喜びであったものが、今は別な悲しみにとらえられる。(おまえは人が変ったの
だろうか)動物達の姿勢もなんとなく物憂げで灰色じみ、見るからにつまらなそうな様子をみせて
いた。
 彼等は囚えられている。彼等はもうどこへも行くことがない。彼等は檻の中へおのおの入ってい
き、そのまま死んだのだ。彼等は獣ではない。檻の中に住まうのは、ただ人間のものになった彼等
の形骸とそのおおぎょうな身振りだけだ。(いったいいつからだろう。おまえがこんな風に考えは
じめたのは)
 おまえの頭の中には一瞬、古ぼけた都会の地図が浮び、そして課長の顔が交替し、それがにっこ
り笑って挨拶する。おまえは弱々しく首を振るが、そのぼやけた灰色の印象は拭いきれない。やは
り(囚えられている)という考えがいつまでも残るだけだ。
 不意に、バケツを下げた一人の男が現れ、おまえの顔を、そして眼をじっと覗きこみ、去ってい
った。おまえは不愉快になって、また池の端の方へ向って歩いていった。
 池の鯉にパン屑をやっている子供がいた。おまえが煙草の吸いさしを投げると鯉はそれも食って
しまった。おまえは最初びっくりし、そしてしばらく胸をどきどきさせた。(あの鯉は死ぬかも知
れない。明朝もしくは今晩、白い腹を水の上にだして浮んでいる鯉がある! としたらそれはおま
えのせいだ)
 橋を渡って薔薇園に行った。草の生えていない白い砂の上に薔薇が散らばって生えていた。それ
は踏みつけられたように堅く小さくて、赤い花は地上に吐き散らされた血痰のようだった。おまえ
は薔薇園のなかほどにある日時計の傍までいってみた。白い御影石の上で、鉄の尖った針の影が眠
ったように午前十時を指していた。
 不意にぎくりとするような笑い声が背後でした。振りむくと、薔薇園の隅の方にある噴水のすぐ
うしろのベンチに腰を下ろしている女が、口に手をあててさもおかしそうに笑いころげているのだ
った。
 そのかたわらに女の方へ顔を向け、片手を女の肩にかけた男が坐っていた。巨大なイルカの口か
ら吐き出され、垂直に立ち昇る水柱は風に乱されてしぶきを飛ばし、鮮かな虹を架けていた。
 女の白い咽喉と横顔を見詰めるうち、おまえは、ふとそれが友子ではないかと思った。しかし、
それは違っていた。薔薇園を横切って噴水の後の男女から遠ざかりながら、思いなおして呟くよう
に□にだしていった。
「もしあれが友子であったにしても」
 おまえはかなたに聳える黒っぽい建物を眺め、それに向ってゆっくりと歩き進みながら思った。
(もしあれが友子だとしても私にはもう何の関係もないのだ)
 おまえは、友子が最後に寄こした手紙の一節を思い出す。……結局、あなたは私には無縁の人で
す。あなたが私達二人の関係に何一つ有意義な結着をつけることを望んでいない――(或いは考え
てもいない)ということがはっきりわかったからです。どうしてこんな肝心な事がもっと早く分ら
なかったのでしょう。私は自分で自分を笑いたい気持です。あなたや私達がつくっていたあの田舎
でのグループ、あの無神論者達、救いようのないデカダンに憑かれた人達ですら、みんなそれぞれ
模範的な社会人になっているというのに。あなたはまさかまだ、あの陶酔から脱け切れないでいる
のではないでしょうね。……
 読みつづけるうち、その中から女の嘲けりでも聞えてきそうなその章句の間から、おまえは友子
の激しい敵意を感じた。
 (無縁の人か!)おまえは苦笑まじりに呟く。(では何故、友子は私に近附いて来たのだ。……
いまになってそんな事をいうなんて……私は友子と一緒に愛についてもっと深く考えたかったのに
ふん、世間的なあせりのために……これが終りの形か!)
 おまえは侮辱された「関係」について何の抗議もしなかったし、勿論おまえ自身の気持について
手紙を書いて弁解しようなどという気持も起さなかった。そしてその後は、むき出しのままの孤独
がおまえをいっそう偏屈な人間にしてしまったのだ。
 おまえは公園の喫茶室のテーブルにひじをつき、眼の前の花を眺めていた。ありふれた軽音楽が
かすかに室内を流れていたが、おまえは聞いていなかった。おまえは花を、その黒い傷だらけの机
の上でほほえんでいるようなうす紅色の花びらを見詰めていた。何という名の花であろうか、黄い
ろい花粉をまぶしたその水々しい花しべを取りまいて、紅い花びらはさながら燃えあがる焔であっ
た。
 ……花びらが動いたように思った時、おまえはふとめくるめくような動揺を覚え、ふいにおまえ
自身がその焔の真中に飛びこんだのを感じた。――だがすぐに引き戻された。ありふれた音楽が聞
えだし、花はこれもありふれた唐草模様の瓶に生けられた単に紅い花に過ぎなかった。
 おまえはそのまましばらくじっとしていた。次の瞬間に起る何らかの変化を待ちうける心霊術者
のように、ある時を期待をもって待っていた。そして――すぐにそれがやってきた。おまえは再び
こんどは花のその黄いろい中心にまっすぐ飛びこんだ。
 その瞬間、おまえは躊躇のない一匹の蜜蜂であった。おまえは燃えるように明るい花びらの真中
に飛びこみ、花しべを押しのけてもぐりこんでいった。――甘い体をとろかすような蜜の匂い、虫
惑的な魔法の世界がおまえのまわりにひらけ、おまえは恐ろしく無鉄砲な喜びに打ち震えながら蜜
を吸った。おまえはすべて考える能力を失ったかのようであったが、それにも優る喜びを得たよう
だった。単純な本能がおまえを明るくし、次の行動を全く予期することなしに飛びあがると、まば
ゆい花園の上を飛んでいた。
 突然、ワーンという喚声が上から降ってきた。黒煙のような一群が行手をさえぎると、妙な恰好
の蜂がおまえに呼びかけた。
 「どうしたのよ、いったい」
聞き覚えのある声だった。前に女の白い顔が浮んで、不意にどす黒い唇を動かして喋った。         
「どうしたの」                                           
思いもかけぬ、その女は友子だった。                         
「さっきから、じっとこんな所に坐って、私知っていたわ、薔薇園に居た時から」
「あ、じゃあ」
おまえはやっと気をとりなおして口を動かす。
「やっぱりそうだったのか、君だったのか」                               
「驚いたわ、こんな所で会うなんて」
友子は落ちつかむげにそわそわとあたりを見廻している。
「連れがあるんだろう?」                                
「ううん」
友子はあいまいに答えて腰をおろすと、こずるそうに首をちぢめて笑った。
「一年ぶりね」
ありふれた軽音楽が鴫り、廻りにいる人々の間から漠然とした騒音がたちのぼっていた。
「あんた、ちっとも変らないのね」
友子が軽蔑の眼差で見ている。
「昔のまんまさ、やっぱり」
「私は変ったわ、ねえ変ったと思わない」
友子は、突然その派手な水玉模様のブラウスから、とぎつい原色のコートのえりに手をやりなが
らいった。しかしそのえりは肩をおおうほど幅が広く、おまけに赤が強すぎるせいか、友子の顔は
妙に小さく、かつ青ざめてさえ見えた。
「うん、そう思うな」
 おまえはそのコートが友子に似あわないと感じながらそう答える。
「私ね、結婚するの」
「誰と」
「運転手よ」
 友子は得体の知れない喜びで急にそわそわして打ちあけた。
「しっかりした人よ」
「ふーん、それはよかったね」
 おまえはその場をとりなすような早口でいったが、唇に乾きを感じた。
「頼りになる人」
 友子は、おまえの顔を真面目に眺めながら念を押すような云い方をした。
 その時、さっき薔薇園で見た男が入口の方へ歩いていくのが見えた。
「待って、すぐ行くわ」
 友子は声高に男に呼びかけた。
「行くのかい?」
「さようなら、元気でね」
 友子は濡れた歯を見せてかすかに笑うと、男の後を追って入口から駈けだした。
 おまえは、さめてしまったコーヒーを飲みほすと、立ちあかって窓から外を眺めた。窓枠の中に、
肩幅の広い運転手と腕を組んだ友子のうしろ姿が遠ざかっていた。
 おまえは急に疲れを感じた。めまいと無力感がおまえをとらえ、再び椅子にしゃがみこんだ。
 ――ふと思いついて、食事を注文した。しかし、運んできたのを見ると全然食べる気がしないこ
とに気がついた。金を払い、そこを出ると、林を横ぎって映画館の方へ歩いていった。題名はみな
かった。中へはいるとじめじめと湿った匂いが土間のたたきから立ちのぼっていた。暗闇の中から
子供達の叫び声が時代劇の役者のせりふと一緒になって聞えていた。半時ばかりも坐っていたろう
か――ぼんやりと白い画面の動きを眼で追いながら、結局よけい疲れただけで表へ出た。
 太陽は昼間の光を失って西の方へ近づき、林の中はこ暗かった。むなしく単調な光が園全体を包
みこみ、すべてのものはよそよそしい光に浮び上って変らなかった。今は池の向うに在る薔薇園の
傍の通路を、何か歌いながら行く二、三人の子供達がかなり遠くちぢこまって見えたが、それを見
ると、何故かおまえは身震いし、そして出口へ急ぐ足をはやめた。(そうだ! また明日から相も
変らぬ日が続くのだ。それはもう絶対だ)
 朝はかっきり七時に目を覚ます。電車に遅れないように時計を見ながら食事をする。七時半に下
宿を出る。あの急な階段を急いでかけおり、果物屋の角をまがる。そうすると駅が見える。いつも
のとおりの乗客の顔ぶれ、新聞を読みながら三十分、やがてS駅につく。いつものとおりの混雑、
あの街の雑踏、匂い、会社への坂道。タイムレコーダー。八時半、始業開始のベル。朝のお茶、挨
拶、挨拶、あの卑しい挨拶、そうして仕事、きまりきった手順で行われるあの退屈な仕事。……
 動物舎のあたりを通り過ぎている時だった。ふと、足をとめてまわりを見廻した。そして(誰だ
ろう、いったい、今の俺を見ているのは?)と考えてみた。
 おまえは、視線をもとに返して、二本の杉の木の下にすえられた一つの檻に眼をとめた。確かに
その中からだった。その中の何かがおまえを非常に興味深い眼で、つい今しがた眺めた筈であった。
おまえは足音を忍ばせてその檻に近づき、中を覗いて見た。
 檻の奥のうす闇の中に、毛深い一匹の獣が首を垂れたまま、おまえの眼を、ほとんど覗きこむよ
うな眼付で見詰めていた。
 ――暗い陰気な眼……おまえはぞっとしてその眼からおまえの眼を放そうとした。しかし、その
眼は放さなかった。その眼は獣の眼のようでなく、おまえを知っているような眼だった。何事かを
語りかけてくるような、意味を含んだ眼であった。(何だろう?)おまえは、不意に云い知れぬ深
い恐怖にゆり動かされ、夢みるように心につぶやいた。
 (……これは獣の眼ではない。こんな獣の眼があり得よう筈がない。この眼はまるで人間の眼だ!
私と同じ眼だ!)
 突然、檻の中の獣はのっそりと立ちあがると、見開いた眼をそのまま、おまえに近づいてきた。
その黄金色に輝く眼は外光の中でいくらか細まり、おまえの眼の前でかすかな笑いの色さえ浮べて
いた。
 そして――次の瞬間奇妙な事が起った。――その眼の前の獣の姿が確かにそのときおまえの眼に
は霞んで見えたのだ。次に……おまえは気が狂ったように叫びだすべきだったろうか――。
 次に起った事、獣が徐々に人間に変化していくのを認めた時、また遂に人間の姿――もう一人の
おまえ――になりきったその獣が、にたりと笑って鉄柵ごしにおまえを見過ごし、そのままゆっく
り歩き去った時に、いや、おまえは事態の真相がよく呑みこめなかったのだ。現実に、檻の内側の
者が今はかえっておまえであり、そのおまえのからだすら獣のからだに変化しているのに気づいた
時にも、……いや、おまえは叫びだすかわりに心の中でつぶやいた。(ふんふん、これはまた例の
幻覚だな!)そして、むしろ軽い気持でこの全面的転換に始まった幻覚の終る時を待った。
 おまえは、ぼんやりと毛深い獣のからだを鉄の柵にもたせかけ、門の方へ遠ざかっていくもう一
人のおまえの後姿を不思議な思いで見送った。それは確かに、おまえの肉体と容姿をそなえた人間
であった。しかし、おまえに見られている、おまえとは別個の内容をもっておまえから離れてしま
ったおまえの形骸であった。形骸は一度門の所で振り返ったが、その顔は笑ったようでもあり、そ
うでなかったようでもある。
 彼が門の外へ消えた時、おまえは漠然とした不安を感じながらも、奇妙な興味から改めて自分の
体を覆いつくしている淡灰色のごわごわした長い毛を見詰め見おろした。――おまえはちょっとそ
れを唇でさわってみたが、すぐになんともいえぬ嫌悪感に襲われた。
 ――ふっさりと太い尻尾が後に、心持ち巻いてさがっており、四本の骨ばった白い足が敏捷そう
におまえを支えて立っていた。それは確かに獣の体であり、足であり、尾であった。獣の顔を自分
では見ることが出来なかったが、それでもおおよその感覚から、それらが牙をむきだし耳元まで広
がった口と、頭の両脇にぴんと立ったままの鋭三角の耳であることにほぼ間違いなかった。(これ
はどうだ!)おまえはおどけたように□の中でいってみた。
 おまえは、ゆっくりと四本の足を交互に使って歩きながら注意深くおまえのまわりや天井の鉄枠
を見、それが完全におまえをとらえていることを確かめた。足の下のコンクリートの床と背後の壁
を除いたあとの四面は、すべて鉄格子を使って閉ざされており、おまえにとって自由な空開は、縦
横高さともに二米の幅でしかなかった。恐らく奥の寝部屋に通じているのであろう板の仕切が、壁
の下方に見えたが、その頑丈でぶあつい感じの板は頭でおしあげようとしても待ち上らなかった。
多分、裏側の高い所で鍵でもかけているに違いない。……
 壁に近い方の隅に、低いコンクリートで囲まれた水槽があった。白く濁ったその水を覗いて見る
と、そこに人間の顔でない獣の顔が映っていた。(やれやれ、一体この幻覚はいつ醒めるのだろう
?)急に募ってくる憤懣の念を押えながらおまえはそう考えた。
 見れば、園全体は向うの森に落ちかかっている夕陽をうけて赤々と輝いていた。すぐ傍の茂みも、
向うの薔薇園も、食堂の建物も、そして豊かな水をたたえた池は、夕風のためにこまかなさざ波を
たてて動いていた。やがて、それらすべてのものの上に黒い影が覆いかぶさり、空の雲々が朱紫色
に凝結し西の空に集まる頃、園は閉じられるに違いない。そうしたら――もし、それまでにこの幻
夢が醒めなかったら――おまえの意識は、その時、帰らなければならない下宿の事や、今日で二日 
も休んだ会社の事を思ってかすかないらだちを感じていた。(しかしあれは一体何の音だろう?)
 カラカラと金物をひきずるような音が、どこからか聞えていた。その音は、断続的に、とぎれが
ちに、遠く、また急に近くおまえの耳を打つ。おまえは不思議な思いでその音を聞いていた。
(いったい何の音だろう?……)
 急に、前後の脈絡のない哀しみがおまえをしめつけた。……おまえは床の上にすわり、首を両足
の間に垂れて、低くまぎらわしい発音でうなり始めた。……と急ぎ足に重苦しい気分がおまえの周
囲から圧しくる。さまざまの音響、しめ殺されるような叫び声、ぴちゃぴちゃいう咀嚼音、駈けま
わる足音がおまえの耳に轟く。とたん、おまえは飛び上った。バケツをさげた青衣の人間が現れ、
バケツの中から明らかに肉塊と知れる物をとり出して、おまえの鼻先に投げだしたのだ。それは見
れば実に厭らしい血まみれの肉片であったが、おまえの鼻は、おまえの意に反して嬉しげにぴくつ
き口には唾液がたまる。事実は確かに、おまえの頭脳や眼が人間の精神に支配されているにもかか
わらず、おまえの胃や鼻は獣のものであることを語っているのだ。
 おまえはその肉片を睨みつけ、じりじりと後退しながらいった。
「違うぞ、これは、私は人間だぞ」
 しかし、おまえは同時にひやりとする。言葉が、おまえの発する言葉が、みんな単調でごろごろ
いう低い音になってしまうのだ。
 おまえは苦心の末、やっと後足だけで立ち上り、出来るだけ人間のように振舞おうとする。万が
一でも彼が気づいてくれればと考えて――しかし飼育人はにやにや笑いながら、おまえの曲芸を楽
しんでいるのだ。
 おまえは絶望しきって叫んだ。
 「ここから出してくれ! 私は人間なんだ!」
 おまえは鉄枠にぶっつかり、青衣の人間に吠えつこうとした。飼育人は嬉しげな笑い声を立てて
叫んだ。
 「食え! 畜生」
 立ち去る彼におまえは叫んだ。叫びながら鉄枠にぶっつかり、檻もそしておまえの獣のからだも
傷つけようとした。一撃ごとに、底知れぬ恐怖と気も狂うような寂寥を覚えながら。――(やはり
これは幻覚ではないのだ!)と悟る。
 ………ふと、もう動きもとれぬほどの疲れに打ちのめされ、心が次第に静まってくるのを覚える
と、すでにあたりはとっぷりと暮れていた。体のそこここがうずくような痛みをもって感じられた。
おまえば立ち上ると、うつろな心の奥でめまいのするような後悔と敗北の事実を味いながら、足を
ひきずりいつのまにか開いたままになっている仕切をくぐって寝わらの上に横になった。……
 ……おまえはあまり眠らなかったらしい。おまえが目覚めた時、月の蒼白い光が仕切の内側へさ
しこんでいて、おまえの横たわっている寝床をぼんやり明るくしていた。
 おまえはひどく空腹だった。表に打ち棄てられてある肉片の記憶が、現実にそよ風が運んでくる
生々しい匂いとともに強くおまえを刺戟した。
 おまえは立ち上ってくぐりを抜けると、月に照らされたその黒い塊をうかがった。食わなければ 
餓えるという意識、食いたいという気持が燃え上り、獣の行為に対する嫌悪感としばらく争い、そ 
して勝った。――おまえはそれに近づき、それを呑みこんだ。……
 ……不意に、耳元でけたたましくベルの音が鳴り渡った。すっかり熟睡していたのだ。さあ起き
ねばならない! 食事は? 咋夜の残りがあった筈だ。あれをコンロにかけ、水をすこしいれて温
める。そしておかずは? えい福神漬ですましてしまえ! ええと今日は、会社で専務の送別式が
あるんだった。そうだアメリカヘ行くんだっけ! 遅れないようにしなくっちや!
 おやおや、困ったぞ。ズボンの裾がこんなに汚れている。一体どこで? さあ、早速あの即席の
洗浄剤をつけて落さなきや……
 あれ! この毛のはえた棒のようなものは何だ? こりゃあ、一体何だ? それに、俺が寝そべ
っているこのベットは、中のはらわたが皆飛びだしてやがる。ふんふん、出がけに下宿のおばさん
に頼まなくちゃ………。
 とたん、おまえは脇腹に痛烈な打撃を食って悲鳴をあげて飛び起きた。同時に、声が頭の上から
降ってきた。
 「起きろ、いつまで寝ているんだ!」
 おまえは、気が狂ったように叫びながら戸口からとびだすと、檻の中をかけまわった。混乱と怒
り……おまえは力まかせに鉄柵にぶっつかり、うなり声をあげながらそれを噛み破ろうとする。
 突然、おまえは身震いとともに立ち止り、水槽の水をのぞきこむ。(夢ではなかったのだ!)お
まえの血は一瞬凍りつき、身をひろがえして奥の部屋へ走りこむ。
 太陽の明るい光線がおまえの敷わらの上で踊り、素晴らしい上天気と健康を告げていたにもかか
わらず、おまえは頭を上げる気持になれなかった。
(俺は獣だ)おまえはげっそりとなって呟く。(もう、どうしようもない……それに獣としてあの
汚らわしい肉を食ったんだ!)おまえは、うめき声をあげる。ついではっとした。
(そうだ! また今日も俺はそうするに違いない。ここにいる以上! これからずっと先も!)
(ずっと先! じゃあ、俺はこれから先も死ぬまでこの檻の中に閉じこめられているのか。来る日
来る日が何の変りもなく、希望さえもてずに、そして死ぬ時もけものの姿で死ななければならない
のか……そんな馬鹿な! そんな事がある筈はない。そんなことが! 俺は人間だ。少くとも許せ
ない……そうだ、きっと助かるにきまっている。これは幻覚に過ぎないんだ、悪い夢に過ぎないん
だ。いつまでも醒めぬ筈がない。俺はまた外へ出るのだ。外へ、再び人間として、二本の足で真直
ぐに立って歩き、青空をあおぎながら色々なことを考える。
 おまえの惑乱した頭の中を、その時田舎の家や、その周辺の美しい山々の姿、ところ構わず歩き
まわった懐かしい記憶、めぐり会った人々のさまざまな顔が、花火のようにたち現れ、夢幻的に燃
え上ったが、それも一瞬、突然虚空をかきまわす灰色の毛の生えた足が見え、現実というものの底 
知れぬ絶望性にハッと我にかえると、激しい憤りと恐怖で気も狂いそうになるのだった。     
 だが、いったいおまえとしたことがどうしたらいい。憮然として、汚らしくしめった寝わらの上
にだらしなく横たわり、世間の誰にも知られぬ自分と自分の嫌悪を噛みしめている以外に、おまえ
にとってどんな方策があるというのだ。(夢ならば早く醒めればいい)
 狭く頑丈な鉄の檻、変らない獣の姿、おまえは再び、太陽の日差しの下に自分の姿をさらし見た
くはない筈だ。閉じこめられた獣、行動の自由を失った獣、飼われている獣、自分がそんな獣であ
ることをおまえは今以上に強く知ろうとは思わない。
 おまえは、またうとうとと眠りの中に落ちていった。そして淋しい夢を見た。夢の中で、おまえ
は友子と一緒に荒涼とした平原を走っていた。友子が立ち止まって、前方の何かを指さした。
(霧だわ)
(ああ、霧だ)
 おまえもくりかえした。
(私達、霧の中へ走っていくのね。あの真白い霧の中へ)
 すると、傍からおまえの代りに誰かが重々しく答えた。
(そうだ)
 ――突然、おまえは夢を破られた。何かがこっびどくおまえの鼻面をなぐり、涙の出そうなその
痛みに呻きながら、それが投げられた石であることを知ると、おまえは憤怒の眼でくぐりから外を
見た。
「あ! 起きた、起きた」
 二、三人の子供が、鉄柵の向うにしゃがんでおまえを熱心に見詰めている。と、おまえは我を忘
れる怒りに憑かれて、唸りながらくぐりを走り抜けると子供達に飛びかかっていった。……彼等は
うしろに転げ、ものもいわずに蒼ざめて走り去った。
 一瞬、おまえは茫然と立ちすくみ、突然カンカン照りつける光の方を向いて、声にならない笑い
で笑いだした。涙がぽろぽろとこぼれ出てきた。口惜しかったのではない。子供達の逃げる様子が
滑稽だったのでもない。ただすべてが、この上なく馬鹿々々しかった。
「まあ! ハイエナが泣いている!」
 夫婦者らしい二人連れが立ち止まって云った。
「馬鹿な! 大方眼にほこりがはいったんだろ」
 そして彼らはそのまま立ち去った。
(眼にほこりがはいったんだって!)
 おまえは、それを聞きながらも笑いを押えることができなかった。人間のおまえが笑うと、獣の
咽喉からくるくるという声が出た。おまえは笑いながら、ぼろぼろ涙をこぼした。陽が照りつける
コンクリートの床の上で、よるけながら泣き、笑った。そして、次第に気が遠くなって床の上に倒
れた。……
 気がついた時、全身がぐっしょり濡れているのを感じた。鉄柵の向うに大勢の人が、がやがやと
騒ぎながら、おまえの方を見て立っていた。真中の一番おまえに近いところで、あの青衣の飼
育人が、空のバケツをおまえに見せながら、白い歯をむいていた。おまえは首をもたげ、身震いを
して立ち上った。
「どうしたんです」
 見物人の一人が飼育人に尋ねた。
「なーに、死んだ真似でもしたんですよ。きっと」
 飼育人が云うと、見物人はぞろぞろ歩いてどこかにいってしまった。
 後に残った飼育人は、おまえをじろじろ胡散臭い眼で眺めまわしていたが、やがて立ち去った。